嘘に怯んだら負け! 小説家の使命は… 北方謙三×橘ケンチ対談 #1
◆これほど過酷だとは思わなかった
北方 やっと会えたな! コロナで2年ぐらい会えずにいるうちに小説を書きあげたって聞いて、「こちらのテリトリーを侵しやがったな。二度と書きたくなくなるくらい酷評しよう」と思っていたんですよ。俺が橘さんの領域を侵そうと思ったって踊れないのに、ずるいもの(笑)。
橘 そんな!(笑) そもそも僕が小説を書こうと思ったのって、北方さんと最初にお目にかかった時に「あなたは小説書いたほうがいいよ」って言ってくださったからですよ。北方さんは覚えてらっしゃらないかもしれませんが……。
北方 俺、なんでそんな余計なこと言っちゃったんだろ。でもそれで本当に書きあげちゃったんだから、橘さんはすごいと思う。普通の人は書こうと思ったって最後まで書けませんから。しかも、橘さんはすでにダンスという肉体的な表現をお持ちなわけで、それを言葉で表現するって至難の業だと思う。
橘 これまでの人生でいちばん過酷だったと言ってもいいほど大変でした(笑)。ダンスって、自分の思いを表現に乗せやすいんです。でも小説は、自分の感覚と文字の間に距離があるので難しかったですね。どうやったら自分の感覚を文章化できるのか、毎日試行錯誤しながら書いていました。
北方 そうでしょう。はじめて「自分の体験に対して言葉を与える」という作業をされたわけだから。
橘 そもそも踊ってるときの感覚自体が自分のなかにしか存在しないものだから、それをいったいどうやってひとに伝えたらいいんだろうって悶々としてました。でも、ある時から楽しくなってきたんです。
100人ダンサーがいたら100通りのパフォーマンスと身体感覚が存在するわけで、自分の感覚を言葉にできるのはまさに自分だけなんだ――それってすごいことですよね。それに気づいてわくわくして、記憶を一つ一つ手繰りながら、その時々に自分の身体が感知していたことを探っていく作業がすごく面白くなって。
北方 その甲斐あって、すごくよく書けていると思いますよ。肉体表現が鮮やかに綴られている。
ただ、欲を言えば橘さんの誠実な人柄が出すぎていて、だいたい「こうなるだろうな」と安心して読めちゃうところがもったいないな、と思いました。まあ、誰でも最初はそうなるものなんですけどね。だけど、ここからもう一歩飛躍して、人間の真実みたいなものに触れることができたら、橘さんはもっといい小説が書けると思います。
橘 真面目すぎるってよく言われます……。
◆小説家は噓つきたれ
北方 ダンサーとしての橘ケンチはそれでいいんですよ。だけど作家としてのあなたはもっとわがままになっていい。その気になればどこまででも飛躍できるのが小説の面白いところだから、そんなに真面目に考えずに、どんな素っ頓狂なことでもいいから盛り込んでみるといいと思いますよ。
小説ってね、ある意味「噓」を書くものなんです。噓のなかに人間の真実がある。だから、橘さんはもっと噓つきになればいいと思います。踊りで噓はつきたくないだろうけど、小説でつく噓は、みんなに喜ばれるんだから。噓に怯む必要はないよ。
橘 それをお聞きして、ちょっと気が楽になりました。今回はむしろ、自分のなかで「噓がないように」と考えていて、それが苦しかったので……。でも「噓」って、どういうふうに書けばいいんですか?
北方 書く人間や登場人物の心は無限なので、まずはその無限を求める。それが正しい噓の書き方だと思います。
あとは、選択ですね。たとえば本当のことを書く私小説では、真実を選択するときに噓をつく。つまり、どれを書いて、どれを書かないかということなんだけど、橘さんも心の中にある醜いこととか憎らしいことは、今回あんまり書かなかったでしょ? でも、『パーマネント・ブルー』を書きながら人生を振り返って、絶対に、水に流そうとしても流せなかったことなんかも一緒に思い出したと思うんです。
橘 ありました、ありました。自分では水に流したと思っていたことが実は流し切れていなかったことも発見できました。
北方 それを流さないで生きるのが作家です。むしろ小説を書くときは、何も流さないのがいい。そうすれば、ごった煮みたいなものの中に真実が浮かびあがってくる。俺が優れていると思っている作家なんてみんな人生の汚濁だけ書いていますからね、中上健次みたいに。中上は自らの出自である被差別部落を「路地」と表現し、路地の小説をずっと書き続けた。
突き詰めると、汚濁の中から一粒の真珠をつまみ出せるか、という問題なんです。中上はまさに天才だった。文学をやるために生まれてきたような男だった。だから俺は純文学をやめたんです。中上がいなかったら、俺はいまでも売れない純文学を延々と書いていたかもしれないと思いますよ。
橘 僕はごく普通の家庭に生まれ育ったので、中上健次さんのように、貧しさや不平等と闘いながら生きている人が持つ「絶対的な反骨精神」への憧れがずっとありました。
北方 中上の場合は反骨精神ではなく、「この理不尽を表現したい」という表現欲じゃないかな。俺にはそれがなかったから、物語を書くしかなかったんです。
さっき橘さんは「普通の家庭」とおっしゃいましたけど、俺は親父が外国航路の船長で、裸足で歩いているような子どもがたくさんいる時代に、一人革靴なんか履いていた子どもだったんですよ。だから人間の存在の暗さとか重さから引っ張り出すような人間観なんて何もなかった。そこで、物語なんですよ。噓をいっぱいついて、読む人が「うわあ、面白い」と思ってくれればいい。ひとつのことを知ったら、そこから10の噓をつくのが作家だと言われるけど、俺なんか100くらい噓をついているからね。
橘 10代の頃は「翳りこそが本物」みたいに思っていましたし、「自分はまわりとは違う特別な存在だ」と思いたかったんですけど、大人になるに従って、自分は普通の人間なんだと自覚せざるを得ないじゃないですか。僕なんか特別な才能もないし、中上健次さんのように背負っている歴史もないし。だからこそ、愚直にがんばらないといけないと思ってきたんですけど、そうか、「物語」で噓を書くという道があったんですね。
構成:相澤洋美
撮影:佐藤亘
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