ピアニスト・藤田真央エッセイ #66〈人生を揺るがす鑑賞体験ーートリスタンとイゾルデ〉
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ついに開演のベルが鳴り、客席のドアが閉まると、オーケストラがチューニングを始めた。客席の照明が完全に消え、灯が微かに灯るのは幕の下りたステージだけ。やがてチューニングが終わるとそこは完全に無音状態だった。いつ、どのタイミングでビシュコフがピットにやってきたかも判らないので、開演前の拍手もない。静寂がどのくらいの時間続いただろうか。徐々に五感が研ぎ澄まされていく。
不意に地面から微かな振動を感じた。まさにこれが《トリスタンとイゾルデ》第一音目だった。こうして、皆が固唾を呑んで息を潜める闇の中、4時間半の物語が始まった。序曲では、幕も上がらず、ピットも見えない無の宇宙に濃密な音楽が響き連なっていく。特別なピットの構造によって、どのような響きが味わえるのか兼ねてから気になっていたが、深みのある音がホール中にまろやかに響く良い音響環境だと思った。オーケストラの奏でるライトモティーフは歌うように伸びやかだ。音と音の繋がりが強い結びつきで奏でられており、姿は見えなくとも、ビシュコフの真骨頂を感じられる。その瞬間、2月に交わした彼との対話を思い出した。
やがて幕が上がると、イゾルデが舞台いっぱいの長大なドレスを纏い、純白の生地にペンで文字を書き綴っている。そう、今年の《トリスタンとイゾルデ》は新演出で行われ、音楽だけではなく舞台上からも目が離せない。
だが第1幕の白眉、トリスタンとイゾルデが媚薬を交わすシーンで、なんと彼らは薬を飲まなかったのだ。それでいて何故かお互い同じタイミングで倒れ、次に見つめ合う時には恋に落ちていた。私は媚薬から目覚めたイゾルデが、愛情のこもった声で「トリスタン」と呼びかけ、応じるトリスタンが歌う「イゾルデ」という甘い旋律が大好きなのに……まさかの演出にショックを受け、集中して聴く事ができなかった。戸惑いのうちに第1幕が閉幕してしまい、私の頭の中は”なぜ?”と受け入れられない気持ちでいっぱいだった。
頭の中を整理しようと座席に体を沈めていると係員が私の方へやってきて、休憩中は場内から退出するようお願いされた。《トリスタンとイゾルデ》は全3幕の楽劇のため、休憩が2回挟まれる。バイロイト音楽祭での休憩時間はそれぞれなんと60分だ。だがワーグナーは劇場にくつろぎの空間を設計するのを忘れてしまったようだ。ロビーにはソファや十分なスペースが用意されておらず、バー・コーナーさえないため、皆野外にて1時間過ごさねばならない。劇場の外には沢山の出店が並んでいて、ジューシーな香りのするホットドッグやト音記号の形をしたプレッツェルや、アイスクリームに目移りしてしまった。上等なスーツやお召し物を纏った先輩ワグネリアンたちはシャンパングラスを片手に優雅に談笑している。私はというとホットドッグを頬張った坊やに過ぎなかったが、老若男女が第1幕の感想を熱っぽく伝え合う、ワーグナーという共通項で一体となったフレンドリーな雰囲気は心地よかった。
休憩終了を呼びかけるファンファーレが鳴り、いよいよ第2幕へと臨む。私の席は平土間のど真ん中の席だ。素晴らしい席を用意してくれたウィリー・ウォンカ、いや、ビシュコフには感謝してもしきれない。この特等席は、舞台上の歌手の目線と同じ高さにあるため、彼らの声がストレートに届いて来た。イゾルデ役のカミラ・ニールンドは情感豊かで繊細な歌声が魅力的だ。たとえ高音が続く際も、決して荒くならず丁寧な印象。
一方トリスタン役のアンドレアス・シャーガーは輝きのある高音の持ち主で、場面に合わせた様々なニュアンスの変化も武器の一つだ。ちなみにシャーガー氏はこの前日には《パルジファル》のタイトルロールで出演しており、連日5時間を超えるオペラの主役を担っている。驚嘆。なんという体力、そして記憶力だろう。
ビシュコフのうねるような熱演で、第2幕のやまを迎えた。トリスタンとイゾルデの二人が愛に溺れ、情熱的な「愛の二重唱」を歌う。彼らの歌も魅力的だったが、何より演技力が冴え渡っていた。もつれた愛の苦しさ、距離の遠さを舞台上のセットを用いて見事に表現している。
だがこの二人の歌う「愛の死」の絶頂にてマルケ王が踏み込んでくるシーンで、またもや斬新な演出が採られた。マルケ王は暴力的にトリスタンを貶し、荒々しく責め立てて歌うのだ。この演出に再び私は首を傾げた。私の解釈では、マルケ王は怒りの感情に支配されるような人間ではない。我が子のように愛情を注いだトリスタン、マルケの花嫁としてイゾルデを連れて来た温かい思い出、そして目の前の不貞の事実――これらの複雑かつ過酷な状況を前にしてなお、成熟した人間であるがゆえ復讐を躊躇し、自身と向き合い苦悩する。それが私のマルケ像だったのだが……。今日のマルケ王は周囲の者に当たり散らかしては、暴言を吐き捨てるかのように歌っている。私は口をあんぐりさせながら、第2幕の終幕を見守った。
第2幕後の休憩ではたっぷり水分補給をし、体と頭を冷やした。これまでさほど気にならなかったが、第二幕終了時には会場内が酷く蒸し上がっていたのだ。これでは私が倒れるのが先か、イゾルデが倒れるのが先かの勝負になってくる。事実、この蒸し暑さにやられ幕中に退出する観客がちらほら見られた。冷房のないこの劇場では予想できた事態なのだろう、救急車が常に歌劇場の外に待機していた。
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