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阿津川辰海「山伏地蔵坊の狼狽」——有栖川有栖デビュー35周年記念トリビュート――をお届けします!

土曜の夜、ふらりと店に現れては謎多き冒険譚を聞かせてくれた山伏地蔵坊――彼そっくりな男が今夜、青野の前に現れた。20年の時を経て語られる事件の真相、そして彼の素性とは……

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白井智之「ブラックミラー」へ / 夕木春央「有栖川有栖嫌いの謎」へ

※本編では有栖川有栖『山伏地蔵坊の放浪』の結末について明かしますが、各話のネタを割ることはありませんので、未読でもお楽しみいただけます。また、「ブラジル蝶の謎」に似たシチュエーションが登場しますが、こちらも原典のネタを割ることはありません。

 この店から、最後の灯が消える。
 という文章を思い浮かべれば、ロマンチックな気分になるかと思ったが、そうでもない。
 僕、あおりようはほとんど機械的な動作で、レンタル落ちのビデオテープをレジに通していた。
 僕は同い年の友人と二人で、町に五つあるレンタルビデオ店の一つを経営していた。しかし、時代の流れに抗えず、五つあった店は四つになり、三つになり、遂に最後の砦である僕たちの店も今日、店じまいをする。VHSからDVD、ブルーレイという流れまではついていくことが出来たが、配信サービスへの移行だけは予想がつかなかった。今では、ビデオ店に足を運んだり、延滞料金に悩まされたりすることなく、家のテレビから映画を見ることが出来る。いや、若い人はテレビも持たないとか。僕には正直、想像もつかない。
「本当に良いんですか、これ」
 カゴに満杯のVHSテープを持ってきたのは、意外にも、純朴そうな青年だった。
「こんな値段で……」
 VHSテープは一本五十円。閉店セールならではの、在庫処分価格だ。
 彼もかつての僕と同じく、映画青年なのだろうか。『探偵スルース』『謎の完全殺人』『薔薇の銃弾』などがカゴに入っている。ミステリが中心で、どれもDVD化や配信サービスでの放映等がされていない貴重なもの。かなりのこうと見た。
「閉店セール品ですから。動作の保証や返品・交換は出来ませんよ」
「そりゃもう」青年は目をぱちくりとさせる。「手に入るだけで、奇跡みたいですから」
 僕は思わずにやりとする。どうせなら、若い人に手渡したいと思っていた。
 青年が会計を済ませて出ていくと、後ろから白髪の男性が現れる。
「どうも」
 顔に見覚えがあった。確か、彼は……。
「ああ、とこかわさん。ご無沙汰しています」
 床川はぺこりと頭を下げる。頭頂部が少し禿げていた。いつもベレー帽を被っていたが、今はもうやめたらしい。
 彼は地元の出版社から著書を数冊出している自称風景写真家だが、町で一軒だけの写真館も経営している。
「さっきの子、いいですね。ああいう光景に触れると、心が洗われるようです」
 床川は寂しそうな笑みを浮かべる。
「何か買うんです?」
「ああ、これを」
 床川がレジ台に載せたのは、『二重の鍵』というフランス映画のVHSテープだ。
「スタンリイ・エリンの原作が好きなんですよ。そっちの題名は『ニコラス街の鍵』」
「なるほど」
「ここが閉店すると聞いて、いてもたってもいられなくてね……ほら、昔馴染の店だから。それなら、何か買おうってのが人情でしょ」
「それはありがたい」
 五十円玉を受け取る。床川は何かもじもじとして、そのまま立っていた。
「あの。今日の閉店後は、お暇ですか?」
 少しの間、しゆんじゆんする。閉店時間までは三十分。締め作業を友人に任せれば、飲みに行けないこともない。どのみち、本格的な撤収作業は明日以降だ。
「いいですよ。少し、近くで待っていただくことにはなりますが……」
「ええ。喫茶店にでも、入っていますよ」

 冬の冷たい風が、体にこたえる夜だった。
 僕と床川は、どこか飲める店を探していた。二十年以上前は『えいぷりる』というスナックで一緒に飲んだ仲だった。僕と床川だけではない。あの時は、何人も仲間がいた。
「奥さんは、どうされてるんです?」
「最近、膝が悪くてね。留守番です。青野さんの店に行くと言ったら、よろしく伝えておいてくれ、と。飲みに行くのも公認ですよ」
 僕は思わず苦笑する。
 しまねこ、床川夫妻、そして僕——この五人が、『えいぷりる』の土曜の夜の常連客だった。
 今夜の店を探しながら、僕たちはメンバーの近況話に花を咲かせる。三島さんは診療所を閉めた後どうしているとか、マスターは『えいぷりる』を畳んだ後どこかで別の店をやっているらしいとか。
 いや、仲間と言えば、もう一人。
ぞうぼう先生は、どうですか。その後、誰も消息を知らないんです?」
「ええ。さっぱりです。きっと、今日もどこかで、さすらっているんでしょう」
 僕たちは顔を見合わせて笑った。
 本当にさすらっているかどうかは、分からない。二十年以上前に会った時、四十五歳くらいに見えたから、今は彼もかなりの年だ。
 やまぶし地蔵坊——。
 ゆいおいを背負い、こんごうづえを手にして腰に貝を下げた、謎の男。彼は土曜の夜にふらっと現れて、『さすらい人の夢ボヘミアン・ドリーム』というカクテルを飲む。そして、二杯目のカクテルを空ける時、決まって、彼は自分の「体験談」を話す。
 謎に満ちた物語。
 彼自身の、探偵の記録を。
「僕は、あの話が好きだな。ほら、北陸の晩餐会の席で、男が毒殺される話ですよ」
「ありましたね。なかなかユニークなネタだった。それでいうと、私は、割れた窓ガラスの問題が好きでした」
「そんなの、ありましたか」
「ほら、クーラー嫌いの男が、殺される」
「ああ」僕はようやく頷く。「そういう風に、シチュエーションで言ってくれないと」
「でも、あの話の眼目は、ガラス窓の手掛かりの面白さでしょう」
 床川の眼は、いかにもマニアらしくきらっと光る。この二十年余りで、床川の推理小説好きにも磨きがかかってしまったらしい。
 あるいは、それもあの山伏のせいか。
「あとは、てんはかの話もいいですね」
「ああ、ぬけぬけとした足跡トリックでした」
「ええ、あの夜の——」
 そう言いかけて、僕は口をつぐんだ。
 山伏の語る話は、どれも一編の推理物語としてよく出来ていた。しかし、実話だと思って聞いている者は誰もいなかった。実話であろうがなかろうが、あの頃の夜の僕たちにとっては、どうでもよかったのだ。話として面白いことが重要で、山伏の語る話をさかなに、美味い酒が飲めればそれで良かった。
 それで良かったのに、僕らは踏み込んだ。
 ——皆さん、あの方のお話を、いつもどう思いながらお聞きになっていらっしゃるんですか?
 山伏が帰った後、マスターが常連客相手にそう問いかけたのが、始まりだった。
 皆口々に、本当だとは信じていないとか、フィクションだとしたら大変な苦労だとか、好き勝手に思っていることを言い合った。
 その時、「実は推理作家志望なのかもしれない」と口にしたのが、床川である。
 それがいけなかったのか、なんなのか。あの日以来、山伏は僕たちの前から姿を消した。もう『えいぷりる』に現れることもなく、どこかへ旅立ってしまったのだ。信じるか信じないかを問うたからこそ、一時の淡い夢のように、掌中から消えていってしまった。
 あれは、そんなはかない天使だった。
 床川は乾いた笑い声を立てる。
「私はね、自分のせいじゃないかと思ってるんですよ」
「地蔵坊先生が来なくなったのが、ですか」
「そう。推理作家志望なんじゃないか、なんて言ったから……」
「考えすぎですよ。それに、あの夜のことが原因なら、きっと、僕らみんな同罪です」
 実際には何の関係もないのかもしれない。ただ、僕らの町から別のところへ移っただけという可能性もある。
 だけど、床川も同じだったのだと知って、僕は少し安心する。あの日のことがずっと胸につかえて、忘れられなかったのだ。
「ああいうの、意外とないんですよ」
「ああいうのって?」
「地蔵坊先生みたいに、ずうっと問わず語りで話して、事件も捜査も推理も全部自分で話しちゃう、そういう安楽椅子探偵です。どうも、忘れられなくてね。色んな本を読んだけど、大抵は、地蔵坊先生のようにはいかない。安楽椅子探偵っていっても、世間的には、一歩も外に出ないで解決する、ぐらいの意味しかないんですよ。捜査した人が探偵にお伺いを立てに行くとか、そんなんばっかりでね。本当なのか噓なのか、分からないくらいがちょうど良い。唯一、地蔵坊先生以外に渇きを癒してくれたのは、バロネス・オルツィという作家の、『隅の老人の事件簿』だけでした」
 隅の老人は、事件の概要も捜査の成果も、全部一人で喋ってしまうのだという。聞き手が記者であるのに、該当の事件をまるで知らないせいで、「記者は新聞をまったく読んでいないようだ」と海外の評論書では皮肉られているという。
「でもね、あの記者はかわいそうなんですよ。ちょっと何か言おうとすると、すぐ隅の老人に遮られるんです。男の高齢者が女性記者の言葉を遮り続けるっていうのも、今じゃあんまり良くないんじゃないかな」
 床川の批評を聞いて、僕は思わず苦笑する。
「あそこなんて、どうです」
 床川は前方を指さした。
 古めかしいネオンサインの看板である。店名は「ふーるず・めいと」。確か、チェスの用語だ。最初の盤面から最小の手数で詰みにいたること。バーの名前としてはなかなか皮肉が利いている。
「行ったことは」
「ないです。でも、店名が良い」
「そうですか?」
「『えいぷりる』と『ふーる』で、四月馬鹿」
 馬鹿馬鹿しい言葉遊び、言ってみれば駄洒落だが、今日の気分には合っている。それに、あの地蔵坊先生も、そういう駄洒落が趣味だった。
 川沿いのビルの二階に上がり、店の扉を開ける。先客もいて、少しにぎやかだが、それもまた良い。奥側のカウンター席に通され、腰かけたところで、トイレの扉が開いた。
 僕は何気なく、トイレから出てきた男を見た。
 そして、そのまま凍りついた。
 山伏がいた。
 それも、あの日の姿のままで。

「何になさいますか」
 硬い声で、マスターが僕らに声をかけた。ハッと我に返る。一体どれくらいの時間、硬直していたのだろう。
「あ、ああ、すみません。ええっと、ハイボールを」僕は目の前にあったボトルを指さす。「メーカーズマークで」
「あ、じゃあ、私も同じものを」
 床川も早口で言い添える。彼も動揺している様子だ。
 山伏は、僕らから一つ離れた席に座った。
 僕は落ち着いて、もう一度店内を見渡す。
 カウンター席がざっと八席。奥まったところにテーブルが二つある。こぢんまりとした店で、雰囲気が良い。
 カウンター席の入口側には、若い男性の三人組。彼らと僕らの間には、例の男。結袈裟を着て、いかにも山伏の格好である。
 テーブル席の一つが客の荷物置場になっていて、笈や金剛杖といった道具は全てそこに置かれている。もう一つのテーブル席では、老夫婦が気分良さそうにさかずきを傾けていた。夫の方はカウンター席が見える位置に座り、口元に笑みを浮かべながら山伏を見ている。
 山伏の格好をした男に、バーで偶然会う確率はどれくらいだろう。それだけでも異常なことだが、何より頭の痛い事実があった。
 目の前の山伏の顔は、在りし日の山伏に、瓜二つだったのである。
 このバーの扉は、タイムトンネルだったのかもしれない。二十年以上の時を飛び越えて、あの山伏ともう一度再会した……。
「夢じゃないですよね?」
 隣の床川が、ひそひそ声で話しかけてきて、そんなロマンチックな思いは雲散霧消する。僕も床川も、すっかり老けてしまっているし、床川の頭頂部は禿げている。
「僕にもどういうわけだか」
「だって、あれが『地蔵坊先生』だとしても……向こうだって、二十年老けていないとおかしいでしょう」
 そう。そこが問題なのだった。
 僕らが最初に会った頃の山伏は、恐らく四十五歳前後。多少の誤差はあるかもしれないが、今は六十代になっているはずだ。そんな年齢にはとても見えない。
 やはり、彼は「ミステリの天使」だったのか? 天使であれば、年を取らないのも頷ける……。
 僕の心に、そんなこうとうけいな思いが通り過ぎていく。
「地蔵坊さん、次は何を飲まれますか?」
 山伏はグラスを前に滑らせながら言う。
「ボヘミアン・ドリームをおかわりで」
 またしても衝撃を受ける。
 名前。そして、飲んでいる酒。
 全てかつての『えいぷりる』での光景に一致していた。
 山伏は確かに「おかわり」と言った。つまり、これが二杯目以上ということだ。
 どういうことだ、一体。
 ハイボールの味がしない。薄いわけではない。頭が混乱していて舌が機能しないのだ。僕と床川は、シンクロした動きでハイボールを傾けながら、山伏の手元のボヘミアン・ドリームを見つめ続けていた。あの杯を空けた時どうなるか。それが知りたかった。
「ねえ、山伏さん、さっきの話は聞かせてくれないの」
 酔っ払った若者のうちの一人が、山伏に絡みだす。ビジネスパーソン風のスーツの男である。
 僕はあらためて、若者の三人組を見渡す。それぞれ職業や職種が違うのか、三人とも服装が違った。
 一人目は、今話しかけたスーツの男。彼は『スーツ』と呼ぶことにしよう。三人の中では、最も陽気そうに見える。
 二人目は、カジュアルなシャツを着て、メガネをかけた男。彼は『メガネ』と呼ぶことにしよう。山伏をじっくりと観察している様子で、どこか抜け目がない目つきにも見える。
 三人目は、Tシャツとジーンズのラフな装いで、終始うつむきがちの男だ。呼び名は『猫背』にすることにした。
 さて、『スーツ』の言葉に応えて、山伏が言う。
「さっきの話というと……」
「ほら! 殺人事件に巻き込まれたっていう」
「殺人事件に⁉」
 僕は思わず声を出してから、ハッとして口元を押さえる。
「おじさんたちも一緒に聞きましょうよ」『スーツ』は爽やかな笑みを浮かべた。「この山伏さん、とても面白いんです。全国行脚の最中に、色んな事件に巻き込まれているとか言ってね……」
「は、はあ」
 僕はバツが悪くなって俯くが、その時、山伏の目が真正面から僕を見据えた。
 山伏は柔らかな微笑みを浮かべていた。ひょっとしたら、僕や床川の顔を見れば思い出してくれるかもと思ったが、そういう気配はない。
「なんだか皆さんに聞かれていると思うと、緊張してしまいますが……」
 山伏ははにかんでから、若者三人組に視線を戻した。そして、グラスの中のボヘミアン・ドリームを空けてから、ゆっくりと話し始めた。
「では、蝶に関するあの事件の話をお聞かせしましょうか。これが、奇妙な事件でしてね……」

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