夕木春央「有栖川有栖嫌いの謎」――有栖川有栖デビュー35周年記念トリビュート――をお届けします
一
東京からは一日がかりだった。朝九時に品川駅で担当編集の水戸部氏と待ち合わせて、新幹線で岡山に向かうと、そこからは在来線とバスを乗り継ぐ。バスの本数が少ないから、停留所で二時間余りの暇つぶしが必要だった。
夕暮れ前にバスを降りると、川の向こうに宿泊予定の温泉ホテルが見えた。遠目にもコンクリートのひび割れが明らかな、いかにも古い五階建てだった。見渡す限り、他に背の高い建物はない。
「なんだ、これ地図見なくても余裕ですね。では、あそこまで歩きなので」
「ああ、はい」
水戸部氏は目的の建物を見やって、さっさと歩き出す。私は肩掛け鞄の重さにうんざりしつつ後に続く。ホテルは川のすぐ向かいだが、しばらく先の橋を渡らねばならないから遠回りである。
二月で、寒さはひとしおだった。平日のことで、あたりに観光客は見当たらない。
ホテルのガラスドアを開けると、彼はスマホを取り出し、予約のメールを開く。
「チェックインしてきちゃいますね」
「あ、お願いします」
旅行の段取りは全て水戸部氏任せであった。
荷物を下ろしたらすぐに夕食に行こうという。近所の洋食屋だそうである。面倒ごとを丸投げしている以上、彼のプランにケチをつけるつもりはない。
洋食屋は、ホテルと同じ通りを歩いて数分のところにあった。外壁のモルタルがボロボロ剝がれた、これまた一目で相当の年月を経ていることが明らかな建物だった。地図アプリのレビューを見る限り、店の評価は割れている。
窓から店内を覗くと、客はいなかった。観光シーズンでもないし、地元のひとたちがやってくるには時間が早いのだろう。
「はあい。いらっしゃいませ」
ドアのベルが鳴るなりすぐに、女性の店員に声をかけられる。真っ当な接客をしてくれる店らしいと分かり、安心した。
窓際の小さいテーブル席に案内された。メニューを広げると、古いデジカメで撮ったような、画質の粗い料理の写真がずらりと並んでいる。あまり吟味はせず、フライ定食を二つ頼んだ。
オーダーを済ませると、担当編集はおしぼりと水のグラスの置かれたテーブルに両腕を下ろして、こちらに身を乗り出した。
「何か思いつきました? 移動中、結構時間ありましたが」
「いや僕、揺れてると頭回らないんです。ずっとワトスン役の名前とか考えてました」
「何にしたんですか? 名前」
「まだ決まってないです」
これは取材旅行である。一体何を取材しにきたのかは、私自身にもよく分からない。
新作長編を依頼されている。一昨年、昨年と、旧約聖書の逸話からタイトルを取ったクローズドサークルものを執筆したが、それと同趣向の作品をさらにもう一つ、という話であった。
アイデアと呼べるほどのまとまったアイデアが見つからないまま、いつかテレビの旅番組で見た田舎町を念頭に、その場しのぎのように山地の小さな村を舞台にした設定の話をしたら、現地に行ってみましょうか、と担当編集から提案を受けた。
本当のところ、私は取材の必要性を感じていない。実在の場所を参考にするべき話でもないし、よく聞く「旅行によってインスピレーションを得て、創作が捗った」のようなことも期待していなかった。これまでに、そんな経験はない。
しかし旅行には行きたかったので、「いいですね、何かアイデアが出るかもしれないですし」と返事をした。水戸部氏はテキパキと旅程を決め、出版社負担の三泊四日旅行が実現した。
私は当日までに新作のアイデアを詰めておき、それを旅行の最中に、さも現地の風景からひらめきを得たかのように話そうと思っていた。そうして、この旅行を出来る限り気楽なものにしてやろうと目論んでいた。
が、結局今日まで構想は進展せず、空手でやって来てしまった。こうなった以上、何とかこの地でアイデアを捻り出さなければならない。仕入れに失敗した無在庫転売業者の気分である。
「まあ、今月中にプロットをまとめたら、多分三ヶ月くらいで書けるでしょ? そしたらいい時期に出せますから」
「はい。何とかなればいいんですけど」
私は何かに気づいたようなふりをして窓の外に視線を逸らした。
水戸部氏はそんな私の仕草をにこりともせずに見つめている。小動物の間抜けな生態を観察するような眼差しである。
彼とはおよそ三年の付き合いになるが、パンデミックが起こったので、これまで直接顔を合わせる機会は数えるほどしかなかった。万事にそつがなく、仕事には信用がおけるが、感情を露わにすることは少なく、作品に対する個人的な好みなども知らないままである。
さらに二言三言、新作の方針の意見交換が続いた。次第に私の思考は、アイデアを進行させることより、如何に彼の追及をやり過ごすかに傾いてゆく。
見知らぬ土地の初めて入った店で、他に客もないから会話は店内にひどく響く。どうにも落ち着かなかった。
すると、先ほど注文を取って行った女性店員が奥から現れた。
「すいません、メニューの写真だとポテトが入ってるんですけど、ちょっと切らしちゃってて。大丈夫ですか?」
「ああ、そうですか。全然構いませんよ。いいでしょう?」
水戸部氏に続いて、私は頷く。そもそもメニューの写真のポテトを見過ごしているから、何も文句はない。
店員もあまり悪びれていない。この店ではよくあることのようである。
彼女は厨房に行き、改めてオーダーを通すと、どうしたことか再びテーブルに戻ってきた。そして、右手のひらを口元に当てて声を潜める演技をしながら、実際にはさして小さくもない声で訊いた。
「あの、もしかして出版社の方ですか? ミステリーのお話ですよね?」
会話はしっかり聞こえていたようである。さっきの我々の対応が気安い調子だったので、声を掛けても大丈夫だと判断したのだろう。
「ああうん、はい。えっとですね——」
言ってしまって大丈夫ですか、とこちらに視線で確認してから、水戸部氏は自分が文芸担当の編集者であることを告げ、私が数年前にデビューしたミステリー作家であることを説明した。
「へえー、じゃ、この辺を舞台にして書くんですか? 殺人事件?」
「いやまあ、もしかしたらこんな雰囲気の場所を書くかもしれないんで、来てみたんです」
迂闊なことを言わないように私は気を遣う。うっかりここを舞台にすると明言すれば、余計なお題が増えてしまう。それに、事件現場にしたくて見学に来ましたというのは、喜ばれることでもないだろう。
「そうなんですねー。この辺、普通に温泉地で、でも他に何かあるかって言ったら、まあ別にって感じですからね。あと、登山コースの出発点だから、シーズン中は登山のお客さんが多いんですけど、冬だとほんとに閑散としちゃうんですよね。
だから何の方かなって思ったんですけど、小説の取材って聞いたらなんか納得しました。確かに、ミステリーの舞台にするならめちゃくちゃ観光地っていう感じのとこより、ここくらいの方が雰囲気的に合うかもですね」
そうなのだろうか。まだ何のアイデアも持ち合わせていない私は心もとなくなる。
それにしても、私のことは知らないようだったが、口ぶりからして彼女は多少なりともミステリーの読者のようである。
「——どうですか? この辺で、何かミステリーっぽい話とかありますか?」
調子を合わせるつもりでそんなことを口にしてしまって、すぐに後悔した。
あまりにもつまらない質問である。新作の想を練るのが億劫になっていた私は、担当編集との話し合いを中断させたままにしたいがために、思わず彼女を引き止めてしまったのだ。
「ミステリーっぽい話ですか? ここで? ええ——、どうでしょうね?」
困惑声を上げながら、彼女は腕を組み、首を捻って考えごとの格好をした。真剣に何かを思い出そうとしているようである。
沈黙が長引きそうな気配だったので、私は、いやそんなのないですよね、変なこと訊いてすみません、と質問を取り下げようとした。
が、その前に彼女は口を開いた。
「一個、あるっちゃあるんですけど——、殺人事件とかじゃなくてもいいですか? そもそも犯罪でもないっていうか、そんな話なんですけど。一応、ミステリーっぽいといえばぽいかも」
「へえ? いや全然、どんなお話でもいいです。でも、すごいですね。ミステリーっぽい話なんてそうそうないですけど」
我ながら、訊いておいてひどい言い草である。
「いやほんとに、ぽいだけです。ぽいだけ。めっちゃしょぼい話です。でもちょっと、ミステリー関係のひとに話したら面白いかもしれないって今思いました。
あの、有栖川有栖っていうひと、知ってますよね? 多分」
「あ? ——はい。知ってます。勿論」
突然、あまりに馴染み深い名前が出て来たのに私は面食らった。ミステリーに関わっている以上、知らない訳はない。
「有栖川先生がどうかしたんですか?」
「あ、もちろんご本人が関係あるとかじゃないんですけどね。会ったことがある訳じゃなくて。全然身内のことなんで恥ずかしいんですけど、私のいとこの話なんです。
そのいとこ、有栖川有栖がめっちゃ嫌いだったんです。でも、なぜか作品は全部読んでたんですよね。普通、嫌いな作家の本を全部読むってことなくないですか? 今思っても訳が分かんないんですけど」
二
「あ、ちょっと店長に断ってきます」
私たちに目線を合わせようと、中腰の姿勢で話をしていた彼女は一旦厨房に引き返した。話が長くなりそうなので、仕事を中断する許可を貰いに行ったらしい。
戻ってくると、彼女は隣の席から椅子を借りて、テーブルの空いた一辺に腰を据えた。
「すいません、図々しく座り込んじゃって」
「いえ。とんでもない」
まず彼女は自己紹介をした。名前は福永藍、二十九歳だという。この町の生まれで、高校卒業後、二年間隣県の短大に行っていた他は、ずっとここで暮らしているのだそうである。
この店は子供の頃から通っていた店で、気楽にアルバイトをさせてもらっているのだ、と、そんな事情を教えてもらった。
「——で、私のいとこもこの町に住んでたんです。何年か前に出ていっちゃったんですけど。家はこっから歩いて十分弱くらいで、今は叔父さん一人で住んでます」
「そのいとこが、有栖川先生が大嫌いなくせに、作品は全部読んでたってことですか?」
「そうなんですよ」
「全部って、一部シリーズだけとかじゃなくて、マジで全部ってことですか? 作品数、相当多いですよね。単著が五十冊とか六十冊はあるんじゃないかな」
「まあ、読んでるとこを見てはないから証拠がある訳じゃないですけど、でも話を聞く限りだとそうっぽかったです」
福永さんはいとこのエピソードを語り始めた。
「いとことは、昔はしょっちゅう顔を合わせてたんです。家も近かったし、仲も普通に良かったし。いとこの家、本がめっちゃたくさんあるんですよ。叔父さんがすごい小説好きで。それを読んでたから、いとこも詳しかったみたいでした。
私は、最近はそこそこ本読むんですけど、昔はそんなに興味なかったんです。たまに話題になってる本をいとこの家から借りるくらいで。
で——、あの、何年前でしたっけ? 有栖川先生の小説がドラマになったじゃないですか。『火村英生の推理』って」
「ああ! はい、そうでしたね。えっと、最初のは八年前じゃないですか? 作家アリスのドラマ化って」
対面の水戸部氏に問いかける。
「そうですね。二〇一六年の一月十七日開始だったかな」
彼はこの手の日付を妙によく覚えていて、スマートフォンを使わず誦んじてみせた。『臨床犯罪学者 火村英生の推理』が地上波で放送されていたのは八年前の今頃のことである。
「そう、冬だったんですよね。それまでも、有栖川有栖っていう名前は知ってたんです。叔父さんが好きだってことで、いとこの家の本棚にそんな著者名の本があったのは記憶にあったんで。すごい印象に残る名前ですよね。でも、興味を持ったのはドラマをたまたま見てからでした」
八年前の一月十七日。すでに彼女は短大を卒業していて、実家でのんびりしながら仕事を探していた頃だという。
「私この日、夜に隣町の友達とカラオケ行く約束してたんです。だけど、出かけようとした時に急に雪が降り出して、車出すのは危ないかもってなっちゃって。仕方ないからカラオケは中止して、家でテレビ見てたら、火村英生の一話をやってました。
もう寝ようかって時間だったからぼーっと見てたんですけど、結構面白かったんで、原作はどんな感じなんだろって気になったんですよね。で、いとこに訊いてみることにしたんです」
彼なら原作を読んでいそうだし、おすすめの作品を教えてくれるだろうと思ったのだという。
「二日くらいして、いとこに会いに行きました。いとこの家、めっちゃ大きいんですよ。叔父さんが隣町にボウリング場とかレストランとか持ってるんで。
本館と別館があって、本館には図書室があるんです。ちょっとした会議室くらいの広さで、壁がびっしり本棚、っていう部屋なんですよ。そこでいとこと会いました」
平日だったが、二人とも暇な身の上だったので、会ったのは昼過ぎのことだそうである。こんなやりとりがあったという。
——あのさ、ちょっと教えて欲しいんだけど。有栖川有栖って作家知ってるよね?
——そら、知ってはいるけど。何?
——なんかドラマ始まったじゃん。原作読みたいんだけどさ、何から読んだらいいの?
——ええ? 読むの?
いとこは渋い顔をして、本棚の一角を見やった。そこには有栖川有栖の単行本と文庫がずらりと並んでいたという。
図書室の本はいとこの持ち物ではなく、叔父さんが集めたものだったが、図書室というだけあって、家族は自由に蔵書を手に取ることが許されていた。福永さんも、しばしばそこから本を借りることがあったそうである。
——名前は何となく知ってたけどさ、一冊も読んだことないんだよね。
——いや、読まなくていいよ。マジで。有栖川有栖は本当に読む価値ない。
本棚に寄りかかるようにしていた彼は、福永さんに背を向けると、吐き捨てるように言った。
——いやさ、こんだけ本が出てるんだから、売れてる訳でしょ。ドラマにもなったんだしさ。全然面白くないはずはないと思うんだけど。
——藍ちゃん、それは世間知らずだって。世の中そういう風には出来てないから。時々、全然面白くない本がなぜかもてはやされるじゃん。有栖川有栖はマジで全部そのパターン。
それもね、ただ面白くないってんじゃないんだわ。読んで時間の無駄だったとかなら別にいいけどさ、そういうんじゃないから。何ていうか、読んだら寿命が縮むレベルの面白くなさだから。
——何それ? 呪いの本みたいなものなの?
——いや、マジでそう言ってもいいかも。呪いの本。
——ちゃんと読んでんの? なんかめっちゃ適当なこと言ってない?
——いや読んでる読んでる。何なら全部読んでる。ちゃんと読んだ上で言ってる。
——全部? ほんとぉ? じゃあさ、これどんな話? この『スウェーデン館の謎』って。
福永さんはいとこの肩越しに、本棚に並んだ青い背表紙の文庫の一冊を指差した。
——ああ、それは雪の密室物。裏磐梯のログハウスで密室殺人が起こる話。ドラマになった火村英生も出てくる。
——へー。面白そうだけど。
——と思うじゃん? 全然そんなことないから。マジでビックリするくらい面白くない。あらすじだけで十分。あとはもう、ネット回線の契約書とか読んでるのと一緒。
——そうなの? じゃあこれは? 『双頭の悪魔』って。分厚くない?
黄色の背表紙の文庫である。
——そう。分厚くて最悪。火村英生とは別のシリーズで、江神二郎っていう探偵役が出てくるんだけど。
高知県の山奥に、木更っていう資産家がつくった芸術家の村があって、大学の推理小説研究会のひとたちがそこに行くんだよね。旅行でその村に行ったまま、帰ってこないメンバーがいるから。そしたら川が増水して橋が落ちちゃって、研究会のひとたちが二か所に分断されちゃう訳。川のあっちとこっちで。
そんな感じで二つのクローズドサークルが出来るんだけど、そのそれぞれで殺人事件が起こって——、っていう話。
——結構入り組んだシチュエーションなんだ? それじゃ、長くなるよね。
——いやいやいや。こんなん短編で十分だわ。全然読む価値ない。
——それなら、この『幽霊刑事』は? タイトル良くない?
再び青の背表紙の一群から、一冊を指差した。
——タイトルがピーク。背表紙だけ見とけばいいよ。内容は本当に、紙資源の無駄としか言いようがない。
「私、なんかもう途中から面白くなってきて、これは? これは? って本棚に並んでるタイトルを言ってったんですけど、何訊いてもずっとこんな感じでした。
ほら、芸人のひとがよく、テーマを決めといて、五十音を振られたらすぐにそれから始まる言葉を言う、みたいなやつやるじゃないですか。ほとんどあれみたいでした。有栖川作品を振られたら、あらすじと、なんでそれが面白くないかを即座に返してくるんです」
しまいに呆れた福永さんは、こう言ったそうである。
——いやさ、そんだけ面白くないっていうものを、何でそんなちゃんと読んでんの?
——えっと、何て言うんだろ? なんか読んじゃった。めっちゃ後悔してる。あれじゃない? 刷り上がった本に中毒性のある何かをまぶしてるんじゃない? そうでなきゃ、こんなに売れるのおかしいわ。出版社もグルなんだろ。
——はあ? 本に麻薬が仕込んであるってこと?
——いや、知らんけど。
——叔父さんはさ、すごい有栖川有栖ファンなんじゃなかった? それはどういうことなの?
図書室の主である叔父さんは、ことに有栖川作品を熱心に読んでいて、本をそれぞれ二冊ずつ買っているほどだという。
——だから、まあ、親父も有栖川有栖の手先なんだわ。とにかくね、有栖川有栖は出版界最大の闇。タブー中のタブー。もう多分、怖くて業界の誰も糾弾できないんだと思う。世の中狂ってるわ。関わんない方がいいよ。俺はもう手遅れだけど。
焚書ってあるじゃん? 俺、基本的に言論統制的なことには一切反対だけど、有栖川有栖の本に関しては例外を認めるべきだと思う。政府が率先して社会から抹殺していかなきゃいけないわ。
彼は真剣そのものの面持ちであった。
「で、もう仕方ないから私はそのまま帰ってきたんですけど。訳分かんなくないですか?」
確かに、どこまで真面目に受け止めるべきか迷うような話だった。
水戸部氏は言った。
「有栖川さんの作品は私のとこでも出してますけど、とりあえず、本に中毒性のある物質を散布するということは断じてないですね」
「いや、そうですよね。流石に分かってます。結局、その時はそれきりだったんです。ただ、ドラマは流れでずっと見てて、最終話が終わった後なんですけど——、その年の三月ですよね。その頃に、いとこが家を出たんです。
だから、あらためて叔父さんの家に行って、図書室の本棚から借りて、読みました。有栖川有栖。めっちゃ面白かったです」
「なるほど。そうですよね」
当然である。
「何読んだんですか?」
「えっと、結構たくさん読みましたよ? 最初が『46番目の密室』で、その後の国名のやつも続けてって感じで。あと、学生アリスの方も、長編は全部読みました。
シリーズじゃないやつも良かったです。短編集とか。『登竜門が多すぎる』がすごい好きです」
「ああ、あれいいですね。『ジュリエットの悲鳴』に入ってるやつですよね」
私は素直に共感した。
「——なんですけど、そうなってくると、なおさらいとこは何を言ってたんだって話になるじゃないですか。
でも、いとこがちゃんと読んでたのは本当っぽいんですよ。読んでみて分かったんですけど、とりあえず、内容について言ってたことは合ってはいたんで。ただ、感想が意味分かんなかったんです」
聞いた限りでは、いとこの作品評は無茶苦茶過ぎて腹を立てる気にもならないものである。『双頭の悪魔』が短編になる訳がない。
「いとこさんって、普段からそんな変わった読み方をするひとだったんですか?」
「いや、それが、全然そんなことなかったんです。昔っからちょいちょいおすすめの本を教えてもらったりしてたんですけど、私の好みとか分かってて、いい感じにチョイスしてくれてたので、結構信用してたんです。
だから、何で有栖川先生に敵意剝き出しだったのか、ほんと不思議で」
全ての作品をきちんと読み込んだ上で、社会から抹殺するべきだ、と言っていたのだ。
そんな厄介な読者も珍しい。よほど粘着質のアンチということになるのだろうか? だとしたら、もう少し腹立たしくなる批評をしても良さそうなものである。
「いとこさんって、家を出たってことでしたよね。今はどうしてるんですか?」
「今、日本にいないんですよ。カンボジアの方に行ってて。ちょっと、これも身内の話でアレなんですけど——、叔父さんって、二十年くらい前に離婚してるんですよ。で、いとこのお母さんはそっちで仕事してるひとと再婚して、ずっと外国暮らしなんです。いとこは、思い立ってそっちの仕事を手伝うことにしたとかで、いきなりここを出ていったんです」
「へえ、そうなんですか。じゃ、それきりあんまり会ってないってことですか?」
「あんまりっていうか、一回も会ってないですね。年一くらいで日本には帰ってきてるみたいですけど、こっちまでは戻ってきてないんですよね。
たまーに連絡はしますけど。年明けの挨拶とか。あ、でも、私が有栖川さんの本を何冊か読んでから、一回メッセージ送ったことはあります。『有栖川有栖読んだけど、全然面白いじゃん』って。
既読無視でした。私も、そもそも何考えてたのか意味が分かんないから、それ以上深く突っ込みませんでした」
そんな経緯で、この件は八年余りの間、謎のままになっていたのである。
奇妙な話で、つかみどころがない。いとこが変人だったと言えばそれで済んでしまうことなのだが、背後に事情がありそうでもある。
「どうでもいいっちゃいいんですけど、ずっと気にはなってたんです。ミステリーっぽい話で合ってますか? これ」
「合ってると思います。立派な謎です。ただ、どう解釈したらいいんですかね。ちょっとすぐには思いつかないかなあ」
私は水戸部氏に視線を送る。
彼は、やはりこれといった思いつきはないのか、新作長編の話が置いてけぼりになっていることを気にしているのか、何とも言えない顔つきであったが、しかし会話が止んだのを見てとると、そつのない言葉を添えた。
「有栖川さんもこれだけ長く書いてるから、いろんな読者を抱えてますね。流石に」
やがて、厨房から「藍ちゃーん、料理運んで!」という声が飛んできた。
「あ、すいません。お話はこれで全部です。じゃあ、料理お持ちしますから」
彼女は立ち上がると、椅子を隣のテーブルに戻し、厨房に向かった。
フライ定食は、メニューのいい加減な写真より立派で美味しかった。
会計の際、レジに立った福永さんは思い出したように訊いた。
「そういえば、三泊されるんでしたっけ? 明日はどうするんですか?」
「えっと、まあ、その辺を見させてもらいます。面白いものがないか。で、何を書くか、ゆっくり考えようかなと——」
ゆっくり、のところで私は水戸部氏の顔色を窺う。
「そうですね。その予定です」
彼は事務的な声で言った。
「お時間があったら、さっきお話しした叔父さんの家に行ってみます? とにかく本好きなんで、出版関係の方にお会いできたら喜ぶと思います。それに、家が結構面白いんですよ。色々凝った設計をしてて、昔のヨーロッパみたいなデザインの別館があるんです。あと、古道具とか万年筆とか集めてるから、もし興味があれば、見るのは割と楽しいと思います。
あ、でも、お招きするんだったら一応叔父さんに確認しなきゃいけないんで、それからってことになるんですけど」
「そうか、近くなんですよね。叔父さんのお宅」
気を惹かれる提案だった。何を書くとも決まっていないのだから、どうせ、何を見物したところで同じことである。最前の話で、有栖川有栖嫌いのいとこへの興味も湧いていたところでもあった。
叔父さんへ確認した上で私たちのホテルに言伝をくれる、ということになった。
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