白井智之「ブラックミラー」――有栖川有栖デビュー35周年記念トリビュート――をお届けします!
※『マジックミラー』(有栖川有栖・著)の真相に関わる記述があります。未読の方は必ず先にお読みください。
1
友人からメッセージが届くと気が重くなる。何か迷惑をかけただろうか。気を悪くするようなことを言っただろうか。僕は気を揉みながら十分くらいかけてメッセージを開く。するとたいてい、「最近どう?」とか「元気?」とかスカスカの麩菓子みたいな言葉が並んでいる。僕は胸を撫で下ろすが、返信を練るうち、今度はだんだん腹が立ってくる。なぜこんな駄菓子野郎に自分の近況や健康状態を開示しなければならないのか。実家が焼け落ちたり難病で余命宣告を受けたりしていても受け止める覚悟があるのか。テキストを打っては消してを繰り返すうち真面目に考えるのが馬鹿らしくなって、僕はスマホをポケットに放り込む。缶ビールのタブを起こし、柿ピーの袋を開ける。そのうち眠くなってスマホのアラームをセットしようとしたところでふと我に返り、憑き物が落ちたような気分で「まあまあかな」と麩菓子みたいな言葉を送り返すのである。
普通の友人でもこうだから、長く連絡を取り合っていない友人からメッセージが来ようものなら正気ではいられない。いったい何の目的で連絡を寄越したのか。金に困っているのか。変な情報商材を売りつけようとしているのか。そういえば衆院選が近かったな。保険屋に就職したとFacebookに書いていたっけ。気づけば息は荒くなり、脇にびっしょり汗をかいている。ほとんどの場合メッセージは開かないし、むかっ腹に任せてメッセンジャーアプリをアンインストールしてしまうこともある。
各務影二から四年ぶりにメッセージが来たとき、僕はやはり冷静ではいられなかった。
影二との出会いは六年前に遡る。当時の僕は仙台の東石大学に通ういっぱしの大学生で、ミステリ研究会というサークルに籍を置いていた。その名称からいかにも胡散臭い、誰も訊いていないのにふた昔前のオカルト雑学を披露してきそうな鬱陶しい印象を受けるが、僕が所属していたそれはノストラダムスの大予言ともアポロ陰謀論とも関係のない、推理小説の愛好者の集まりだった。この手の文芸関連のサークルは中学生に毛の生えたような垢抜けない大学生が首を揃えているのが常だが、ミステリ研究会はその垢抜けなさを煮詰めて発酵させたようなところで、幽霊を入れても会員は五、六人ほど。常時、廃部の危機に瀕しているくせに、会員たちは新入生にビラを配るでもSNSで活動の様子を発信するでもなく、他の文芸サークルを腐しながらだらだらと時間を潰すばかりだった。もっともビラを配ったところでそのレ・ミゼラブルな風体に魅かれる新入生がいるとは思えないのも事実で、かつて高邁な先人たちは愛読書にヒントを得てキャンパス中に『虚無への供物』の単行本を落として回ったというが、「不審な人を見かけたら守衛室へ連絡してください」という注意喚起を思い出した新入生に警備員を呼ばれ、サークル棟の巡回が強化されただけだった。
そんな無気力なサークルだけあって、人間関係も富士山頂の酸素のように希薄だったが、僕と影二は不思議と馬が合った。どちらも頻繁に人の首が飛んだり腸がまろび出たりするような小説が好みで、よく本を貸し合ったり、部室で柿ピーをつまみながら感想を言い合ったりした。
そんな影二ともかれこれ四年、連絡を取っていない。今は何をしているのだろう。僕は不安と期待が柿の種とピーナッツくらいに入り交じった気分で、おそるおそるメッセージを開いた。
まず目に飛び込んできたのは写真だった。A5判の雑誌の左側のページを写したもので、「第十三回雄峰ミステリ大賞最終候補作決定!」と見出しが躍っている。その下に小説のタイトルと筆名が四組並んでいた。
『古本屋で見つけた。小説書いてるなんて言ってなかったじゃん!』
胸がちくりと痛んだ。
大学時代、僕はずっと小説を書いていた。人にそれを打ち明けたことはない。恥ずかしかったからだ。周りの学生たちがバイトやインターンやボランティア活動に精を出す中、およそ人生の役に立たない密室トリックや犯人当てのロジックのことばかり考えている自分は、ひどく世間知らずな浮かれ者のように思えた。同じ趣味を持つ影二に対しても、その思いは変わらなかった。
『本読むの楽しみにしてるよ!』
鼻から湯気を噴いた顔の絵文字が添えられていたが、あいにく影二が古本屋で見つけた『小説雄峰』は一年前に刊行されたもの。翌々号に掲載された選評で「くだらない」「つまらない」「小説の体を成していない」とこきおろされてから、僕は一行も小説を書けずにいた。
Googleで検索すれば最終選考の結果はすぐ判る。影二も僕が落選したことは知っているだろう。テキストを打っては消してを十分ほど繰り返した後、僕はこんなメッセージを送り返した。
『ありがと。まあ趣味みたいなもんだから。気楽にがんばるよ。』
二日後。
再びメッセージが届いた。
『十一月に法事で東京行くんだけど。一杯どう?』
違和感を覚えたのはこのときだった。
大学時代の影二はいかにも田舎の次男坊という感じで、メシも酒も古書店巡りも、声をかけるのは僕の方だった。一杯やりたくて仕方がないときも「最近飲んでないなあ」とか「夜、暇だなあ」とか思わせぶりに呟くだけで、「飲む?」の一言はこちらに言わせようとした。
この四年で数皮剝けたのか。だが三つ子の魂なんとかとも言う。まさか本当に情報商材を売りつけようとしているのか。スマホ一つで月百万稼ぐ方法を大公開しようとしているのか。
アプリを開いたり閉じたりしながらたっぷり四十分悩んだ挙句、僕は何も感づいていない体で返信を送った。
『いいよ。どのへんがいい?』
2
僕らの飲み会は実現しなかった。
影二の叔母の法要が日曜日に行われたからだ。
その日、十一月二十六日は法事の後、精進落としに懐石料理屋へ行くため、途中で抜けるのは難しい。かといって翌二十七日は月曜日。信じがたいことだが、僕は社会人なので仕事に行かねばならない。月曜日の夜まで東京にいてくれればと思ったのだが、腰が悪く参列できなかった親戚が法要の様子を知りたがっているとかで、影二は夜までに青森へ戻らねばならないという。
どう足搔いても乾杯はできそうにない。ならばせめて茶でもしばいておくか、ということで、二十七日の午前中に東京駅の近くで会うことになった。
僕が勤めているWeb制作会社は西新宿にある。営業以外の社員は昼過ぎまでほとんど出社してこない。入社二年目の僕は第二制作部の電話番を任されていたが、かかってくるのは不動産の営業電話ばかり。さぼったところで誰も気づかないだろう。
午前十時。仕事のできそうな大人ばかり行き交う八重洲地下街の中にあって、もっともマルチの勧誘に向かなそうなカフェレストランPINKY PROMISEの一角。
「元気そうだね」
僕と影二はそこで四年ぶりに顔を合わせた。
「実は、見てほしいものがあるんだ」
影二は少し緊張しているようだった。台本を読むような口調で言って、ボストンバッグの横のチャックを開ける。袖がぶよぶよのセーターに色落ちしたデニムパンツ。眼鏡は学生時代から変わらぬハーフリム。
「これなんだけど」取り出したキャンパスノートには米粒のような文字がびっしり並んでいた。思わず目を逸らし、ストローを袋から引っ張り出す。どうせGoogleで検索すれば一ページ目に出てくるようなSEOの基本施策が書き連ねてあるのだろう。今すぐ席を立つか、導入くらい聞いてやるべきか。逡巡しながらストローで氷を搔き回していると、
「ミス研の連絡ノート。懐かしいでしょ」
影二がぱらぱらとページを捲った。学食の新メニューの感想に一限の必修科目への恨み節、自動車学校の教官への罵詈雑言。益体もない書き込みばかり並んでいる。連絡ノートというより落書き帳だ。影二が家庭の事情で大学を退学したとき、このノートを贈ったのを思い出した。
「これ、覚えてる? 皆で決めたやつ」
影二が指したページには「東石大学ミステリ研究会選、アリバイ崩しベスト10!」とぶっとい文字が並んでいた。「密室殺人」「人間消失」「首なし死体」「犯人当て」「意外な動機」「倒叙」など、さまざまなテーマのベスト10が書き連ねてある。
「密室殺人の一位は高橋風子『密室の犬』か。判ってるな」
懐かしさと小っ恥ずかしさに、つい口許が緩む。
「真壁聖一の『ありえざる鍵』が三位どまりなのは納得できない。日本のディクスン・カーが草葉の陰で泣いてるよ」
口では文句を言いながら、影二もにやにや笑っていた。
「アリバイ崩しの一位は赤星楽『アリバイの鐘』。これって弘前教授シリーズだっけ?」
「そう。アメリカ人の子供が出てくるやつ」
「あれが一位はないだろ。『時計仕掛けの旅人』の方がずっとよくできてる」
「空知雅也なら『第三の鉄路』が四位にランクインしてるね」
「朝井小夜子の『赤い雨』って犯人当てだったか?」
「そんな要素もあった。僕なら『一千二百年目の復讐』にするけど」
「犯人当ての一位は間違いないね。やっぱり——」
「ねぇ」影二はマドラーで字を書く仕草をした。「最近も書いてるの。小説」
「書いてる。おかげで減給になった」
「は?」
マドラーが落ちた。
遡ること約二カ月。影二からのメッセージを受け取った僕は一念発起した。人生で初めて、小説を書いていることが人にばれた。これはいい機会だ。このまま上司の機嫌を窺い、取引先への言い訳を考えながらおっさんになっていくのではつまらない。今こそ本気を出すときだ。
会社の最寄りのコンビニで公募情報誌を捲ると、十月末が締め切りの新人賞が一つ見つかった。珀友社主催、ゴールドアロー賞。錚々たる受賞者を輩出してきた、推理作家の登竜門の一つだ。その割に賞金が少ないのが玉に瑕だが、そこは印税で取り返せばいい。
パソコンのデータフォルダを漁ると、大学時代に原稿用紙換算で三百枚まで書いて放り出したアリバイものの長編が見つかった。ゴールドアロー賞の規定枚数は三百五十枚以上。あと五十枚なら何とか書き上げられるはずだ。
それから一カ月。ホワイトボードがへこむほどNRを乱用し、部長に押しつけられそうになったプレゼン資料を「ちょっと忙しいかもですね」と後輩に押し流して、どうにか三百七十一枚の長編を書き上げた。
読み返してみると、なかなかよくできている。プロットに捻りが利いていて、トリックもうまい。だが文章の粗も目立った。
もう一日、推敲の時間が欲しい。でも有給は残っていない。こうなったら奥の手だ。
翌日、僕は会社を出ると、向かいのコンビニの喫煙所でマルボロをふかしていた同期の合田に声をかけた。合田は社用のスマホでTinderを見ていた。
「明日、頼む」僕は首にかけたカードホルダーを外し、「ピッしといて」合田のポケットに突っ込んだ。合田は乾燥わかめのような前髪を通して僕を一瞥すると、
「すし秀のSランチ」
日焼けした指で画面をスワイプした。シーズー犬を抱えた女が左に消える。
このスパイラル前髪ゴリラが顔色一つ変えなかったのにはわけがある。彼はつい最近まで大手の広告代理店に出向しており、そこで手に入れた名刺とプロフィールを使って青山や六本木に出没するYSLのロゴが入ったプロテーゼを鼻に入れていそうな女とIT’S A MATCH!しまくっていた。だがいかんせんしょぼくれた制作会社の営業マンなので能書きのわりに言動が薄っぺらい。ゆえによく素性を疑われる。シャワーを浴びているときにスマホを覗かれたり、疑り深い奴には後を付けられたりする。すると彼はどうするか。正体がばれないよう、わざわざかつて出向していた広告代理店へ足を運び、そこへ出社するふりをするのである。往復三十分のウォーキングでもう二、三回ホテルに行けるならお安いもの、というわけだ。
とはいえあまり席を空けてばかりでは、今度はモヒカンの営業部長に目を付けられかねない。そんなとき、彼はあらかじめ優秀な同期に社員証を預けておき、代わりにカードリーダーにピッとかざしてもらうのである。出勤しているという記録さえあれば、モヒカンもケチを付けようがない。僕はこの男がそのうちベッドで刺されるのではないかと期待していたが、その行動力には数ミリグラムの尊敬の念を抱いていた。
そんな小利口ゴリラに、珍しくこちらが社員証を預けた、その翌日。
僕はコンビニで三百七十一枚の原稿を印刷し、推敲に取りかかった。スマホの電源を切り、物語に没入する。飲まず食わずで赤を入れ続けること十一時間。最後の紙をぺらりと引っくり返したときにはペンが三つ空になり、窓からはオレンジ色の日が差していた。
ぐびゅうと腹が鳴る。朝から何も食べていない。バナナの皮を剝きながらスマホの電源を入れると、
ぴょん! ぴょん! ぴょん! ぴょん! ぴょん!
立て続けに通知音が鳴った。
画面を見て、血の気が引いた。着信履歴がずらりと並んでいる。得意先の担当者。第二制作部の先輩に、部長、役員の名前まである。おそるおそる部長の番号に折り返すと、昨日公開した接着剤のWebサイトに記載洩れがあり、得意先からクレームが入ったという。至急、修正が必要だが、担当者と連絡が付かない。部長が出勤記録を確認すると、当該社員は会社に来ている。でも姿がない。いったいどうなっているのか。
「で、減給三カ月」
僕はアイスコーヒーを一息に飲み干し、プラスチックのカップをトレイに叩きつけた。水滴で濡れた手を紙ナプキンで拭う。
「締め切りは間に合ったの?」
影二は瞼をぴくぴくさせ、泣き笑いのような顔をしていた。笑っていいのか、同情すべきか判らなかったのだろう。
「まあ、なんとか」
「だったらいいじゃん。賞獲って見返してやれば」
紙のカップを握り、ファイティングポーズを取ってみせる。影二なりに友人を励まそうとしているようだ。そのままホットコーヒーに口を付け、
「熱っ」
カップを落とした。倒れたカップからコーヒーがこぼれる。テーブルから床へ、土色の水たまりが広がる。
「ご、ごめん」
紙ナプキンを取ろうとして、今度は僕のアイスコーヒーのカップを倒した。幸い中身は胃袋に収まっていたが、プラスチックのカップは床をころころ転がり、二つ隣りのサラリーマンのバッグにぶつかった。
「ミナちゃん、七番」
店長らしいチョッキのおっさんが指示を出し、引っ詰め髪の若い店員がペーパータオルで床を拭き始める。二つ隣りのサラリーマンは仏頂面で影二を一瞥した後、何もなかったようにExcelを弄っている。
床がぴかぴかになったときには、影二は叱られた子供のように肩を小さくしていた。
せっかく減給トークで空気が和んだと思ったのに、また振り出しに戻ってしまった。こうなったら捨て身で突っ込むしかない。
「そっちはどうなのさ」単刀直入に尋ねた。「大学辞めて四年でしょ。どうしてんの、最近」
大学三年の夏。影二は大学を中退し、実家のある青森市へ帰った。
きっかけは母親が急逝したこと。父親はさらに前、影二が小学生のときに事故で亡くなっていた。出会った頃から懐が苦しそうで、奨学金を借り、出費がかさむときはクレジットカードのキャッシングを使ってなんとか生活をやりくりしていた。相続手続きの後、わずかな遺産が振り込まれたものの、後期の学費を払う目途が立たなかったという。
いや。
この説明は正しくない。厳密に言えば、影二一人なら大学に残ることもできたはずだからだ。
影二は双子だった。兄は光一という。一卵性で、顔も背丈も瓜二つ。青森の高校から二人揃って仙台の東石大学へ進学したが、さすがに学問の興味は違ったようで、兄の光一は経済学部、弟の影二は文学部に在籍していた。
母親の死後、兄弟はどんな言葉を交わしたのか。気の弱い影二が一方的にやり込められたのではないかと想像してしまうが、本当のところは判らない。確かなのは、兄の光一が大学に残り、弟の影二が青森に帰ったことだけだ。
それから卒業までの二年間。キャンパスで光一を見かけるたび、僕は深呼吸をして、醜い感情を抑え込まなければならなかった。どうして影二だけが大学生活を奪われなければならなかったのか。学食に響く陽気な笑い声が憎らしくてたまらなかった。
「今は食品工場で働いてるんだっけ」
ミス研の送別会の帰り道、地元のお菓子メーカーの工場で働くつもりだと話していたのを思い出す。
「そこは辞めた。二年働いたんだけどね。実は、事故があって」
つい全身を見回してしまう。
「いや。僕じゃない」睫毛が一瞬、寂しそうに揺れた。「同い年の同僚がいたんだ。彼も本が好きでね。といっても好みは恋愛もので、竜胆紅一を全作読んでる変わり者だったんだけど」
僕らと同い年の男が? それは変わり者だ。
「その同僚が事故を起こした。ベルトを掃除するとき、カッターの電源を切り忘れたんだ。で、機械に巻き込まれた」
「まさか——」
「いや、クッキーの生地を切るやつだから。怪我しただけ」自分の人差し指を摑んで、「工場は次の日、再開した。でも僕はラインに近づけなかった。作業場に入ると血の色が目に浮かぶ。ベルトの音を聞くだけで喉が詰まったようになる。半月休んで、結局、退職した」
無理やり頰を引っ張ったような、ぎこちない笑みを浮かべる。僕は面白おかしく減給処分の話をしたことを後悔した。
「兄貴は?」話を逸らす。「あっちは元気なの」
「ああ。なかなか調子良さそうだよ」ようやく自然な笑みがこぼれた。「新卒で大阪の製薬会社に就職したんだけど、いつの間にか独立して会社つくってた。メディカル・ポーター・ジャパンっていうんだけど」
「何だそりゃ」
「海外の医薬品を輸入してるんだって。EDや薄毛の治療薬とか、美容外科手術に使う麻酔薬や抗炎症剤なんかが主な商材らしい」
「それ、大丈夫なのか」
だいぶ怪しい気がするが。
「ちゃんと手続きを踏めば合法なんだってさ」
知らないけど、と首の後ろを搔く。
「あいつはすっかり天狗だよ。商人気取りでピンクのネクタイ締めて、葉巻なんか喫ってやがる。津軽のリンゴで育ったくせに『せやなあ』なんて言ってるんだから世話はない。昨日、叔母さんの三回忌だったんだけど、こーんなホストみたいな指輪を着けてたせいで、坊さんに小言言われてたよ」
親指と人差し指でゴルフボールくらいの円をつくる。本当かよ。
「でもまあ、僕が飯に困ってないのはあいつのお陰だから。二年分の奨学金も返してもらっちゃったし、あんまり悪く言っちゃいけないな」
ぴょん! スマホが鳴った。総務部から経費精算の問い合わせが来ていた。
「時間、大丈夫?」
影二もスマホを見て言う。十一時三十分。十二時過ぎにはデスクに戻らないと、さらに給料を減らされかねない。
「そろそろ行くか」
順に会計して店を出る。エスカレーターを上り、
「そんじゃ」
八重洲中央口の改札前で別れた。
丸の内側へ抜ける通路を足早に進む。久しぶりに影二と会えたのはうれしかったが、近況報告だけで終わってしまったのは残念だった。次の機会があるなら、大学時代のようなくだらない話をしたい。また連絡を取ってみよう——そう考えていたとき。
「熱っ」
野太い声が耳を打った。
スカジャンの男がコーヒーのショート缶でお手玉をしている。自販機のヒートポンプが強力すぎたようだ。
鷲だか鷹だかの後ろを通り過ぎ、何歩か進んだところで、足が止まった。
つい数十分前。影二はホットコーヒーを飲もうとして、「熱っ」とカップを落とした。僕は当然、カップの中のコーヒーが熱すぎて、つい手許が狂ったのだろうと思っていた。
でもあのとき、店に入ってからすでに三、四十分が過ぎていた。席に着いた直後ならさておき、あのときはもうホットコーヒーも温くなっていたはずではないか。
気持ち良く失敗談を話していたせいで、時間の感覚が狂っていたのだろうか。だが影二の粗相はそれだけではない。紙ナプキンを取ろうとして、今度は僕のアイスコーヒーのカップを倒したのだ。プラスチックのカップは床を転がり、二つ隣りのサラリーマンのバッグにぶつかった。
アイスコーヒーのカップがあんなに転がったのは、僕がすでに中身を飲み干していたから。氷さえも解けてなくなっていたからだ。やはりあれは席に着いて十分や二十分の出来事ではなかったことになる。
となると、可能性は一つ。
影二は演技をしていた。
コーヒーが熱かったふりをして、わざとカップを落としたのだ。
二月前、影二からのメッセージに気づいたときの感覚がよみがえってくる。影二は何のために自分に連絡を寄越したのか。いったいなぜ、あんな演技をしたのだろうか?
3
通販サイトの運用を担当している文具メーカーの定例ミーティングに出席し、広報部長のお通じがヨーグルトで良くなった話に渾身の相槌を打った後、僕は立ち食いでおろし蕎麦を食って会社に戻った。
第二制作部のフロアに入った瞬間、周りから視線を感じた。シャツにめんつゆでも飛んでいただろうか。思わず窓ガラスに目をやると、
「おい」
部長が顰めっ面で手招きした。隣りには役員が二人。何事だ。
「警察から連絡があった。お前に話を訊きたいらしい」
血の気が引いた。
たった一度、出勤記録をごまかしただけで、わざわざ警察が出張ってくるのか。そんなことでサラリーマンを捕まえていたら新橋や大手町から人がいなくなってしまうのではないか。
指の顫えを抑え、渡された付箋の番号に電話をかける。すぐに男が出た。
「貴社から十分ほどの場所にいます。そちらでは人目もあるでしょう。よろしければお越しいただけませんか」
本気らしい。こちらも予定があるんだと言い返したかったが、退社するまで近くで待機されても困る。
僕はホワイトボードの予定表を前にしばし立ち尽くした後、「とりしらべ」と書いて会社を出た。
指定された喫茶店に入ると、男が二人、同時に腰を上げた。
「神奈川県警の根府川です」
もみあげの長い方が名刺を差し出す。所属は刑事部捜査第一課。階級は警部補。てっきりVシネマの敵役みたいなのを想像していたが、根府川は人の良さそうな驢馬面で、地銀の渉外担当みたいな雰囲気の男だった。
「こちらは——」
ソフトな声でもみあげのない方を紹介しようとするので、
「前置きは結構です」進行役を取られまいと、声を張った。「僕は善良な市民ですよ。ゴミは分別するし年金だって払ってる。そりゃ一度ばかし同期に社員証をピッとしてもらいましたけど——」
「我々は三浦海岸の別荘で起きた殺人事件を捜査しています」
何それ。
「各務影二さんをご存じですか」
絶対に答えを知っているくせに、根府川はそんな訊き方をした。
「大学のサークルで一緒でしたけど。まさか、影二に何か」
「安心してください。影二さんは無事です。殺されたのは野々島久さん。五十代の男性です」
「じゃあなんで」僕のところに?
「野々島さんは四年前、影二さんのお母様——各務友里さんと入籍していました。わずかな期間ではありますが、野々島さんと影二さんは戸籍上の親子だったことになります」
四年前といえば、影二の母親が亡くなり、彼が中退を余儀なくされた頃だ。その野々島という男が一連の不幸に関わっていたのか。もしそうだとすれば、影二にはそいつを殺す動機があったことになる。
「あなたたちは影二がその男を殺したと思ってるんですか」
「二十七日、影二さんと会われましたね」
質問に質問で返してくる。
促されるまま、法事で上京するから会おうと誘われたこと、午前十時に八重洲地下街のカフェレストランで会い、十一時半過ぎに東京駅八重洲中央口の改札前で別れたことを説明した。
「その日、影二さんはどんな様子でしたか。普段と違ったところはありませんでしたか」
「そんなの——」
なかった、とは言えなかった。あの日の影二はおかしかった。だが迂闊なことを言えば、影二は余計な疑いをかけられてしまうかもしれない。
「一つの証言から何かを断じることはありません。我々は必ず裏を取ります」
こちらの逡巡を見抜いたように、根府川が言う。店員がアイスコーヒーを運んできたので、僕は返答を練りながらゆっくりストローを差した。
「まあ、ちょっと緊張してるようには見えましたね」
噓ではない。
「会話の中で不自然に感じたことはありませんか」
もう一人の男が口を挟んだ。根府川が地銀ならこちらは外資の証券マンという感じで、公務員のくせに海外のセレブみたいなチャラいジャケットを着ている。SNSでサウナの感想をつぶやきながらグラビアアイドルの自撮りにいいねしていそうな男だった。
「例えば、そうですね。あなたと影二さんの記憶が食い違っていたり、影二さんが大事な出来事をすっかり忘れてしまっていたりとか」
ミステリ読者のセンサーが反応した。影二には双子の兄がいる。警察は双子の入れ替わりを疑っているのではないか。
「僕の会った影二は本物ですよ」
男は苦笑して、
「その根拠は」
「一目見れば判りますよ。光一と影二は身振りも喋り方も全然違いますから」
「練習すれば似せられます」
「僕らがミステリ研究会に入っていたことはご存じですね。影二はあの日、ミス研の連絡ノートを持って来てました。そこに当時のメンバーで決めたテーマごとのベスト10が書いてあったんです」
「それが何か」
「僕がアリバイ崩し一位の『アリバイの鐘』より『時計仕掛けの旅人』の方が出来がいいと言うと、影二はすかさず四位の『第三の鉄路』に言及しました。『時計仕掛けの旅人』が空知雅也の作品だと知らなければあんな反応はできない。あれは間違いなく僕の旧友、ミステリ愛好家の各務影二です」
自分で言いながら、確信した。あの男は真壁聖一が日本のディクスン・カーと呼ばれていることも、赤星楽の『アリバイの鐘』でアメリカ人の少年が謎解きの鍵になることも知っていた。あれは間違いなく、本物の影二だ。
根府川は隣りのグラビアいいね男に目配せすると、
「もう一つだけ。これは皆さんにお訊きしていることです。二十七日の午後三時二十分から四時にかけて、どこにおられましたか」
野々島はその時間に殺されたのだろう。僕はスマホで二日前のスケジュールを確認した。
「十二時過ぎに会社へ戻って、後は真面目に働いてましたよ。デスクで見積りでも書いてたと思います。同僚に訊いてみてください」
根府川は手帳に僕の電話番号を書き留めると、
「ご協力感謝します。何か思い出したことがあればいつでもご連絡ください」
ペン先で自分の名刺を指した。
十一月二十七日、午後四時七分。
自転車で自宅から三浦海岸駅へ向かっていた男性から、「うろこ屋根の家の扉から血のようなものが流れ出ている」と110番通報があった。
三浦海岸駅前交番の巡査が国道134号線に面した住宅を訪問し、玄関で男性が倒れているのを発見。男性は金属製の鈍器——スパナやトルクレンチなどとみられる——で頭部を繰り返し殴られており、その場で死亡が確認された。
実話誌を主戦場にしているライターが一人、被害者の野々島久が過去に多額の金銭トラブルを抱えていたことに触れていたが、ほとんどのネットニュースは捜査本部の発表をそのまま伝えているだけだった。
信じたくはない。それでも僕は確信していた。
野々島久を殺したのは、光一と影二だ。
少なくとも、影二はあの日、野々島が殺されることを知っていた。だから自身の足取りを裏づけさせるため、僕を誘ったのだ。
考えてみれば、僕ほど証言者にふさわしい人間はいない。親戚や親しい友人の証言は、容疑者を庇うため噓をついているのではないかと疑われる。赤の他人の証言は、それが本物の影二に関するものか判らない。その点、四年ぶりに再会した大学時代の友人なら心配不要だ。噓をついて庇うほど親密ではないが、本人であることは裏づけられる。わざわざ熱くもないコーヒーをこぼしたのは、僕の他にもう何人か姿を覚えていてほしかったのだろう。
影二の行動が腑に落ちると、今度はだんだん腹が立ってきた。情報商材を売られこそしなかったものの、一方的に利用されたことに違いはない。光一と影二は何らかのアリバイトリックを講じたのだろう。すると二人は、僕を事件に巻き込んでもトリックを身破られる恐れはないと判断したことになる。舐められたものだ。
平静を繕ってデスクへ戻ったものの、まったく仕事に手が付かなかった。人が死んでいるのに企画書なんぞ書いている場合ではない。定時の六時を回った瞬間、NRと書き殴って会社を出た。
東京メトロ丸ノ内線で東京駅へ。八重洲側へ向かう通路を抜け、地下街の雑踏を進む。
カフェレストランPINKY PROMISEは仕事終わりの酔客で賑わっていた。二日前、午前中に訪れたときとは別の店のようだ。こんな時間から飲める仕事が羨ましいと思ったが、リクルートスーツの女の子がおっさんに黒ビールを注いでいるのを見て浅慮を恥じた。
店内を見回し、舌を打つ。一杯くらい飲みたかったのに、席がない。祈るような気分で影二がいた奥の席に目をやると、
「あ」
見覚えのある男が一人でカレーを食っていた。海外セレブ風のジャケットを二つ折りにして椅子に掛けている。
「奇遇ですね」
とっさに目を逸らそうとしたが、遅かった。グラビアいいね男がスプーンを置く。
「あの、もう一度、一昨日のことを思い出してみようと思って、それで」
つい言い訳めいたことを口走ってしまう。男はじっと僕の顔を見つめた後、店内を見回し、「よければ」と前の椅子からジャケットを取った。
刑事と向かい合わせ。もはや取り調べではないか。思わず腰が引けたが、こんな奴に芋を引くのも腹が立つ。
「では、失礼します」
足を組んで座り、店員にコロナを頼んだ。
「あの、訊きたいことがあるんですが」
「何でしょう」
「警察は各務兄弟を疑ってますよね。でもアリバイが崩せず、逮捕状を取れずにいる」
「捜査の内容を明かすことはできません」
男は素っ気なく答えて、見覚えのある紙のカップに口を付ける。コーヒーはすっかり冷めているようだが——これはただの猫舌か。
「じゃあ勝手に喋らせてもらいます。役に立ちそうだと思ったら本部に伝えてください」
「検討します」
「影二は一人二役を演じることで、兄のアリバイを作ったんじゃないでしょうか」
ずずっ。男の口許で無作法な音が鳴った。
「事件当日、兄弟はそれぞれ東京駅の近くで人と会う約束をしておきます。でも当日、そこにいたのは弟の影二だけでした。影二はミステリかぶれの友人と別れた後、素早くスーツに着替え、ピンクのネクタイとホストのような指輪を身に着けて、兄の約束相手の許へ向かいます。そうして影二が兄の分もアリバイを作っている間に、光一が三浦海岸で野々島久を殺したんです」
男はカップを置くと、両手で口を覆い、げぼっ、と咳き込んだ。紙ナプキンで唇を拭い、ふいに顔を上げる。
「あなたは推理作家ですか」
心臓が跳ねた。
「違いますけど」
今は、まだ。
「そうですか。失礼をお許しください。気が動転してしまったようです。天の配剤なんてものはありませんが、もし私の心がもう少し澄んでいたら、ここであなたと会ったことには偶然ではない何かを感じていたでしょう」
「ということは、僕の推理が——」
「ええ」男は畳んだナプキンを置いた。「間違っています」
は?
「学生の頃、慌てず問題文をよく読むようにと言われませんでしたか? あなたが各務影二とこのPINKY PROMISEにいたのは午前十時から十一時半の間。野々島久が殺されたのは午後三時二十分から四時の間です。あなたと別れてから三浦海岸へ向かったとしても充分すぎる時間がある。これでは何のアリバイにもならない。あなたは自分の見つけた答えに跳び付くあまり、前提となる事実の確認を怠っています」
男は急に笑い出した。
「俺は病気だな。真顔で的外れな浅知恵を披露してくる相棒がいないとものを考えられない体になっちまったようだ」白髪交じりの髪を払って、「この後、時間はありますか。静かなところで飲み直しましょう。金は払います。タクシー代も」
一見穏やかだが、有無を言わさぬ口調だった。
何なんだこいつは。
「一つ訂正しておきます。神奈川県警にこんな不埒なことを言う刑事はいません。私は捜査に協力している民間人です」
名刺を差し出す。英都大学社会学部准教授、火村英生とあった。
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