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ピアニスト・藤田真央エッセイ #39〈プレトニョフの贈り物――ヴェルビエ音楽祭〉

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『指先から旅をする』書籍化!
12月6日(水)発売

 7月17日、マルクとの最初の公演が始まった。11時開演のため、9時には教会に到着していた。慣れ親しんできた会場とピアノで、一度鍵盤に触れれば想像していた通りの響きを確認することができる。一方、マルクは幾分緊張気味だ。それもそのはず、今回は全10曲の《ピアノとヴァイオリンのためのソナタ》が配信される。ミスや雑音が入った箇所は終演後にパッチング(修正)を行えるので、それほどナーバスにならなくても良いとスタッフたちがマルクを諭すが、それでも彼は落ち着かない表情だった。私も2年前の自分のモーツァルト:ピアノ・ソナタ・ツィクルスの収録を思い出すと、彼の気持ちが痛いほどわかるため、そっとしておくことにする。
 だが本番になるとそんな不安は杞憂きゆうに終わった。最初こそ双方互いの音に聴き入って足踏みしてしまう箇所があったが、5分もすると完全に自分たちの音楽が形成されていく。リハーサルでマルクはこんなことを言ってくれた。「私たちは生まれ育った環境、テクニック、音楽の捉え方、それら全てが異なっているのに、音楽をともに響かせるとなぜだか調和するんだよ」と。この言葉通り、私たちはステージ上で音を通して対話を重ね、時にジョークを交えながら、最後まで弾き切った。途中になんとも情けない私の粗相があったが、彼は気にすることなく続けてくれた。その後、彼が休符を余分に多く取った時には私が合わせることができたのでお互い様ということにしておこう。終演後にはレストランに場所を移し、私たちは大きなハンバーガーを頰張りながら今後の展望を語り合った。

 こうした同世代のアーティストとの交流も、ヴェルビエでの楽しみのひとつだ。チャイコフスキー国際コンクール以来親交があるアレクサンダー・マロフェーエフやアレクサンドル・カントロフ、そしてブルース・リウとは毎晩のようにディナーでテーブルを共にし、いまの音楽界について若手目線で語り合った。
 今回ブルースは単にバカンスでヴェルビエを訪れていたのだが、ダニール・トリフォノフが食中毒で1公演キャンセルしたため、急遽代役を担った。ブルースに代役の依頼が来たのは本番当日の朝だという。早速ヴェルビエの、いやマーティンの洗礼を受けたのだ。昨年マルタ・アルゲリッチの代役で寿命を縮ませた私は、「Welcome to Verbier」と言って彼を労った。
 最初の公演を終えると、すぐ翌日から2回目の公演へ向けたリハーサルが始まる。プログラムは《第3番 変ホ長調 作品12-3》《第4番 イ短調 作品23》《第6番 イ長調 作品30-1》《第8番 ト長調 作品30-3》の4曲だ。前回と同様リハーサルは10時から18時まで行われ、細部にわたり様々に議論し、演奏を練り上げていく。
 みっちりリハーサルをしたあとは、キーシンのリサイタルや、ブルースが代役を務めた公演を聴きに行き、その後ディナーへ向かった。一方、マルクは公演どころかディナーにさえ行かず、ひたすらにベートーヴェンと向き合っていたようだ。

 ここでヴェルビエでのディナーの解説をしよう。私たちアーティストにはコンサート後の22時過ぎから毎晩ディナーが用意されている。このディナーはレストランやホテルだけでなく、音楽祭に出資しているパトロン邸で開催されることも多い。パトロン邸に足を踏み入れると、まず屋敷の規模に驚かされる。広い駐車場から数分かけて大きなエレベーターで移動し、エレベーターの扉が開くとヴェルビエの夜景が一望できる――そんな映画に出てくるような豪邸や、レトロな木造シャレーの外観に反してモダンな内装の邸宅など、建物も個性豊かだ。
 ディナーは前菜、メインディッシュ、デザートまで盛りだくさん。キーシンやマイスキーといった一見強面のアーティストもデザートが来た瞬間笑みを浮かべて、名物のチョコレートムースを頰張っている。そして0時を過ぎると各々解散をする。こういった流れだ。

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