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文・森見登美彦「わたしの熱帯」

 二〇一九年の二月、国立民族学博物館で西尾哲夫教授と公開対談をした。
 西尾先生には「千一夜物語」に関する著作が多数あり、『熱帯』を執筆するにあたって、いろいろとお世話になった。京都で過ごした学生時代の思い出を聞いたり、マルドリュス本人の書きこみがある「千一夜」の写本を見せてもらった経験は、『熱帯』という作品に反映されている。

 イベント終了後、西尾先生や関係者のみなさんと千里中央の居酒屋で打ち上げをしたのだが、そこには小説家の深緑野分さんも同席していた。当時『ベルリンは晴れているか』が話題になっていた深緑さんだが、『熱帯』に関心を寄せてくれ、わざわざ大阪まで観覧に来てくださったのである。打ち上げが終わって西尾先生や他のみなさんは帰路についたが、深緑さんは近くの千里阪急ホテルに宿を取ってあるというので、「せっかくだから、ホテルの喫茶室でもう少し話しましょう」ということになった。

 千里阪急ホテルは千里中央駅から歩いて五分ほどの距離にある。

 深緑さんや担当編集者とぶらぶら歩いていき、暗い夜道の行く手にそのホテルの輪郭が浮かんできたとき、不思議に胸がざわついた。大きなイベントの余熱で神経が過敏になっていたのだろうか。どことなく古めかしいそのホテルが、長い旅路の果てに辿りついた異国のホテルのように見えたのである。冬枯れの街路樹に煌めく淋しげな電飾、空っぽのテーブルがならぶレストラン、半円形の不思議な窓から洩れている喫茶室の明かり……。そんな夜の情景が好奇心をそそって、いたるところに物語のかけらが散らばっているような気がした。

「まるで『熱帯』の中にいるみたいだなあ」

 と私は思った。

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