「図書館の魔女」高田大介、新連載! 『エディシオン・クリティーク』#002
元夫の修理を訪ね、嵯峨野家にやってきた編集者の真理。
愛想のない文献学者・修理にどうしても尋ねたかったこととは…
二、猿橋の合い口行き違いのこと
食べっぷりの良さだけが取り柄の私は、山盛りのブルギニョンを平らげて妙さんを喜ばせ、私は修理はもういらないの、真理ちゃんの方がいいんだけど戻ってこない? 修理は追い出すから、などと返答に詰まるようなことを言われて困惑したりなどしていた。
クミンパウダーを振ったコンテのチーズをつつきながら、ワインの残りを主に私がやっつけていると、妙さんが不意に訊いてきた。
「修理を待ってるの?」
自然にしていたつもりだが、ついつい、空いた席に一瞥くれるところを見とがめられたか、あるいは今にも目に隈をつくった修理が蔵からよろけ出て、フランス窓の向こうのテラスに這い上ってくるのではと振り向いていたのを知られていたのか。
「待ってるっていうか……」
「そろそろ燃料が切れるころよね」
ぜんまいがぜんぶ戻って停まったところで捕まえるというか、息継ぎに浮かび上がってきたところを掬い上げるというか、まあ修理と顔を合わせるには偶々のタイミングが合わねばならない。
「ちょっと訊きたいことがあって。修理なら判るかなって」
そう言いながら、書類かばんを持ってきた。
「こうしたものなんだけどさ」
私は仕事用のタブレットの画面に写真を一枚表示してみせた。
なんです、これはと訝しむ妙さんに簡単に画像の由来をお伝えする。
「大学の後輩がね、襖張りサークルっていうのに入っていたんだけど……」
「襖張り? 変なサークルね。襖なんか張って楽しいの?」
「いや、なんていうか、レジャー系じゃなくて、仕事系というか」
「仕事? 仕事で襖張りするの? それは単にアルバイトなんじゃない?」
「これね、カテゴリーとしては新聞奨学生ってあるでしょ」
「下宿と新聞配達の仕事がセットになってるやつね」
「それと同じで、貧困学生の生活支援っていう面のあるサークルなのね。苦学生を下宿人として引き取って、手に職というか、表具屋の作業手順を仕込んでやって、それで襖張りの仕事を斡旋するという……」
「じゃあサークルっていうよりは飯場の人足回しみたいな……」
「いやいや、勤労学生の搾取みたいな話じゃなくて、もっと全うな社会事業みたいなもんなのよ。まあ中核メンバーは寄宿生なんだけど、実家通いの子とかもいて。それで襖張りとか障子張りとか、建具の修理、ペンキ塗りなんかを請け負うわけ」
「リフォームセンターじゃない」
「そうなの、そこまでの玄人仕事じゃなくていい修理、改装なんかを割と安めに引き受けるっていう」
「やっぱりサークルっていうよりはアルバイト寄りなんじゃない」
「そりゃそうかな。でもこういうサークル、修理のとこにもあるよ。東大襖クラブ」
「そうなの? どこの大学にもあるの? えぇ、じゃうちにもあったのかな」
「いや、ないでしょ」
妙さんが本務校としていたのは件のミッション系女子大だ。さすがに襖張りの苦学生はいそうもない。インターカレッジとやらで他大のサークルに入部する女子大生の方々も、好き好んで襖張りサークルを選びそうなイメージはないかな。もっとも私の母校である早稲田の襖張りサークルも、今日のコアメンバーは実は苦学生ではなく、劇団員だそうだ。学生演劇の劇団員が小屋代(劇場の施設利用料)を稼ぐ都合で、襖張りサークルと兼部している例が多いとか。授業と稽古の合間に襖を張っているという……。
「いまどき襖も障子もそんなに多くないんじゃない? 和室も少なくなってるし」
「それでなんだけど、普段は一般家庭の建具営繕を請け負って、一人、二人で出向くっていうかたちなんだけど、たまに大量動員がかかることがあるのね」
「そんなに需要があるの?」
「その日は草津の温泉宿の老舗でね、ぶち抜きの宴会場の襖を一遍に新調しましょうっていうことになったらしくて」
「あぁ、それは二、三枚だけきれいにしても仕方ないものね」
「なんだか重要な宴席の予定が入ったとかで動員があったっていうの」
「なにかしら、与党大派閥の決起集会でもあったのかな」
「なにかの襲名式だとか……」
妙さんは、ああ、そういう、と訳知り顔に頷いた。そっちの話でしたか。
「それで劇団の子がね、建具専門の大道具はもちろん、主役、端役、脚本、演出、衣装までラグビーのチームみたいに温泉に乗り込んでいってね」
「一気に片づけちゃおうっていうのね、なるほどね」
「それで私の後輩っていうのがその脚本家なんだけど、そいつは表具屋仕事はそんなにこなしてきていないんで、スタッフスペースというか、ようするに布団部屋の襖の担当になったと。宴会場の襖は慣れている人がやるということで」
「なんだか話が見えてきたような気がするわ」
「優先度が低いから、従業員の目にしか触れない布団部屋の襖張り替えは久しぶりも久しぶり、しかも表はともかく、襖裏の雲華紙っていうのかな、それがもう戦前からのままだったって」
「大事に使ってたのね」
ものは言い様である。こういう品のある発想が私には欠けている。
「で、その雲華紙の下に襖の下地があるんだけど、雲華紙を剝がしてみたら下地の下張りに大穴が開いていたんだって。それを反故紙でね、つまり書き損じか何か、要らない和紙でまず穴埋めというか、下張りの修繕がしてあったと」
「それがこの写真の……」
「『四畳半襖の下張』ってわけなんだよね」
「永井荷風の顰みに倣えば……」
「いや、春本が出てきたっていうんじゃないんだけど……」
古い襖の襖紙の張り替えはだいたい次のごとくである。まず襖を外してきたら、一番に解体するのは引手金具で、薄い箆……というかインテリア・バールで抉ってやると、内側の隠し釘の頭が僅かに浮くので、これを鋏……というかラジオペンチで引き抜いてやる。次いで左右の黒い木枠は「折れ合い釘」で止めてあるだけなので、当て木をして上から下へ叩いてやると斜めにスライドするようにすぐに外れる。上下の木枠はバールを差し入れると釘がついたまま上下に外れる。必要なら古い襖紙は剝いでもいいが、そのまま新しく張り重ねても構わない。
新しい襖紙は、襖より大きめに切って、スポンジで水を満遍なく拡げて、紙が伸びるのを待つ。ここがポイントで、この後乾くのを待たずに張りつけた襖紙は、仕事が確かなら乾くにしたがって縮んできて、最後には表具がまっすぐ皺なくぱりっと仕上がるという寸法だ。
従来工法なら襖紙の余りの部分は折り込み、後で木枠が折り込み部にかぶさってその上を押さえる形になるわけだが、昨今ではタッキングと言って、ホチキスのお化けみたいなのでぱちぱちと襖の中枠に折り込み部を留めてしまうことが多い。
裏の雲華紙も必要なら張り替えるが、今回の脚本家氏、文学部四年の野町なにがしは、表は黄ばみ、裏はくすみと、ずいぶん年代物になっている布団部屋押し入れ襖の両面を張り替えることにした。とくに襖裏は手で押さえるとへこむ部分があったので、下張りの補強をしようとして一部雲華紙を剝がして見たら、件の「襖の下張り」を見ることになったというのである。
よもや匿名古人の手になる好色文学の原稿が貼り付けられていると思ったわけではないが、やけに達筆なところのある問題の半紙半分ほどの大きさの「反故紙」に、何が書いてあるのかが気になった。とは言うものの、もともと仕事が遅くて布団部屋担当になっている自分であるから、ここで引っ越し中に畳の下の古新聞を読みはじめる陸でなしのような真似を決め込むわけにもいかない。ひとまず襖の下張りを携帯電話で写真におさめて、所定の作業を済ませることにした。
木枠の傷は大きくなかったので塗り直しの必要はない、小さく欠けた部分に墨を入れ、外したのとは逆の手順で枠を組み立て、引手をおさめる窪みを手探りに探って、カッターで十字に切れ込みを入れ、引手を押し込んで釘を打ってやる。
襖紙が乾くのを待つ間に、敷居の溝を掃除して、必要ならささくれを紙やすりで磨り取って、あとはこれも必要なら溝に蠟を垂らして擦り付けておく。表裏の襖紙が乾いてぴんとなったら、建具を敷居に戻して引き違いがスムースであるか確認する……。
以上で襖の張り替えは完了だ。
劇団大道具係の襖張り主力メンバーは遺漏なく宴会場の十数間におよぶ戸襖、押入襖を張り替え終えていた。なにかの襲名式とやらを恙なく賑々しく執り行いたいなんらかの団体に対して、老舗旅館の方も面目を施すところ大であろう。
劇団一同はかくして襖張り大会の巡業を済ませて、数台のワゴン車に分乗して温泉地を後にした。解散は東京に戻って大学の学生会館前だったが、もちろんその日の手間賃は小屋代ではなく打ち上げの酒代に消えてしまった。
さて後日、野町なにがしは忘れかけていた携帯の写真を矯めつ眇めつ、裏返しに透けている反故紙の文言を辿っていった。写真は二枚、二枚目の写真に写っている反故紙の断簡は二通あった。つまり都合、断簡は三通だ。
先ほど妙さんに見せたのは第一の写真をレタッチしたものだ。レタッチから釈文起草まで野町の仕事である。裏返しに張り付けてあった反故紙の写真を鏡写しに反転し、二階調に調整したのが問題の一枚だった。こちらは撮影情況が良く、文言を読み取るのは容易だった。野町の翻刻によれば次のとおりである。
文意をとれば春本でこそないものの、いわゆる「はじめの方は、ちぎれてなし」というやつだ。野町による現代語訳は以下。
「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!