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ピアニスト・藤田真央エッセイ #72〈2度目のカーネギーホール〉

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11月9日(土)

 明朝5時半に起床し、午前8時の飛行機でニューヨークへ向かう。フライト時間は7時間だが、ニューヨークへ到着したのは現地時間午前10時。なんとも不思議な感覚だ。ヨーロッパからアジアへの長距離便をよく利用するので、7時間の旅は比較的楽に感じる。だが関門はそれからだった。

 空港にて1時間強の長い列に並び、入国審査を行う。その後荷物を受け取ってホテルへ向かおうとしたが、マンハッタン区内はデモの嵐。数日前に行われたアメリカ大統領選挙の結果に抗議するべく、市民が道路を封鎖している。カーネギー・ホール近辺にはかのトランプタワーが位置しているため、私の乗るタクシーはひどい渋滞に巻き込まれた。街角の観光客に"How do you get to Carnegie Hall?"(カーネギー・ホールにはどうやって行けば良いですか?)と聞かれたルービンシュタイン(またはハイフェッツ、もしくは名もなきミュージシャンなど、諸説有り)が"Practice, Practice, Practice"と答えたという逸話はあまりにも有名だが、今日に限っては「デモを迂回しなさい」と言うだろう。通常1時間ほどでJFK空港から区内まで到着するものが、この日は2時間を要した。ホテルへ着いたのは結局14時ごろ。幾分疲労を感じてはいたが休む暇はなく、すぐにホールへ向かい練習を行った。ランチに出かける間も惜しく、大戸屋のカツ定食をUber eatsで頼むと、ほかほかの日本食が楽屋口に届いた。

11月10日(日)
いよいよカーネギー・ホールでの2度目のソロリサイタルの日を迎えた。強行スケジュールの中、無事ここまでたどり着いたことに一先ず安堵した。

 この日は14時開演のため、朝9時からピアノセレクションが行われる。いつもより早い時間だが、昨晩は22時過ぎには眠りに入って朝7時まで熟睡できたため、頭は冴え渡っていた。1年10ヶ月ぶりに足を踏み入れたカーネギー・ホールは、変わらず美しい。これまで世界中のホールを数え切れないほど訪れたが、赤い絨毯と蝋のような白い壁、温かい電飾が織りなすこの空間は、やはりどことも比べられない特別なものだ。2023年1月のデビューはポリーニの代役だった、その後すぐにリサイタルのオファーを頂き、満足頂けたのだとホッとした。今回NYに来る1週間ほど前にも、チケットの売れ行きが順調だとカーネギーホールからメールがあったという。「貴方はもう誰かの代役じゃないのよ」とマネージャーが喜んでくれた。

 舞台に立つと、前回同様ニューヨーク・スタインウェイとハンブルク・スタインウェイが並んでいる。去年と同じ調律師と、再会を祝して握手を交わした。まず弾き慣れているハンブルク・スタインウェイを試弾してみると、この大きな空間に響き渡るよう設計されているのか、よく音が通る。それでいて味わいもあるが、ピアノ本来の音色はあまり好みではなかった。そこでニューヨーク・スタインウェイの方を試してみると、案の定マシンガンのように体に突き刺さる強い音質だ。巨大な音の粒が降り注ぎ、弾いている自分も参ってしまった。やはり私のピアニズムにはハンブルク・スタインウェイが合っているようだ。13時までのリハーサル時間でなんとかこのピアノと心を通わし、様々な音色を引き出そうと試みた。だがどうしたことか、完全にピアノと一体になることができない。これは楽器との相性か、はたまた私の状態が悪いのだろうか。

 どうも納得がいかないので、息抜きにメインエントランスに掲示されたポスターを見に外に出た。すると当日券のため長蛇の列ができているではないか。有り難く思いながら列に並んでいる方々に少しスペースを空けてもらい、自分のポスターの写真をカメラに収め、足早に楽屋へと帰る。楽屋は前回と同じ、マエストロ・スイートだ。部屋のTVに映し出されたステージをふと目にして、違和感に気づいた。心なしか……いや確かに、ピアノの位置が少し上手に寄っている。つまりピアノの鍵盤の位置がステージの中央に位置していたのだ。

 一見これは正しいポジションのように思われるが、ピアノの構造上音が鳴る響板がステージの中央に来なければ、音の飛びが変わってしまう。すぐにピアノの位置を移動して貰い、リハーサルを再開した。するとみるみる音が整っていき、自分が思い描く響きになってきた。ほんの数センチの違いで、音が多様に変化する。ここでは自分の音楽を奏でること以前に、カーネギー・ホールの特別な音響を味方につけなければならないようだ。

 13時までみっちりステージ上で調整を行い、その後は楽屋に帰って昼食を取った。この日の勝負飯は、お湯を注ぐだけで食べられるフリーズドライのご飯が入ったカップタイプのお茶漬け。本番前の切羽詰まった時に心安らぐ日本の味を得てホッとして、楽屋のソファーでつい寝てしまった。気づいたら開演15分前のアナウンスが鳴り、急いで衣装に着替えウォーミングアップを開始。その後伊藤園のプレミアム玄米茶のティーバッグを手に取り、お湯を注ぎ一口飲んだ。身体中に沁み渡る玄米の風味。よし、と自分に活を入れ、バックステージへ向かった。

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