『あのこと』――映画史に刻まれる衝撃的な映像体験|透明ランナー
2021年9月のヴェネツィア国際映画祭。パブロ・ラライン『スペンサー ダイアナの決意』やジェーン・カンピオン『パワー・オブ・ザ・ドッグ』といった有力作が争う中、さほど有名でない監督の作品が審査員の満場一致で金獅子賞に選ばれたという結果は驚きをもって伝えられました。オードレイ・ディヴァン(1980-)の長編2作目『あのこと』です。
舞台は1960年代のフランス。大学の寮に暮らす文学部生のアンヌは教師になる夢を持つ成績優秀な学生でしたが、ある日予期せぬ妊娠が発覚します。出産すれば学業を中断しなければなりませんが、労働者階級の貧しい家庭に生まれたアンヌには大学を中退する選択肢はありません。なんとかして中絶の方法を探りますが、本人のみならず協力者にも刑事罰が科される時代。医師も親も友人も協力しようとはしてくれません。刻一刻とタイムリミットが迫る中、彼女は自分の将来を切り開くためにある決断をすることになります。
当時のフランスは工業化の進展でLes Trente Glorieuses(栄光の30年)と言われる時期にあたり、生活の都市化・近代化が急速に進んだにもかかわらず、中絶は違法とされ、女性の権利は著しく制限されていました。1971年に中絶合法化を求める宣言文「343人のマニフェスト」が文化人たちにより発信され、1975年にようやく合法化(ヴェイユ法)されましたが、本作はその10年ほど前の時代を扱っています。
『あのこと』は2022年のノーベル文学賞受賞者、アニー・エルノー(1940-)の自伝的小説『事件』を原作としています。12月10日(土)にストックホルムで授賞式が行われ、そのライブストリーミングを観ながらこの記事を書いています。
『事件』はエルノーの代表作と目されていたわけではありませんが、近年評価が高まり、2019年に英国の出版社フィッツカラルドから英訳が再出版されました。2019年の映画『燃ゆる女の肖像』は『事件』からインスピレーションを得たと監督のセリーヌ・シアマ(1978-)は語っています。
エルノーが自身の体験を小説に昇華するまでには長い時間がかかり、それが評価され映画化されるに至るまでにはさらに長い時間が必要でした。この記事は過去の作品と比較対照しながら本作を映画史の中に位置づけようとする試みです。
映画史に位置づける試み
2022年12月2日(金)、全世界の映画ファンが注目するランキングが発表されました。
英Sight and Sound誌が10年に一度、世界中の映画関係者の投票を集計して選出する「Greatest Film of All Time」です。対象の幅広さから世界で最も参照される映画オールタイムベストのひとつです。前回2012年は1位の『めまい』(アルフレッド・ヒッチコック、1958)を筆頭に30位まで男性監督の作品が占めていましたが、今回は順位に大きな変動がありました。
1位に選ばれたのは、シャンタル・アケルマン(1950-2015)の『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975)。見えざる家庭内労働や女性の自意識の抑圧、暴力性の発露など、映画史においてほとんど語られることのなかった主題を扱った作品です。淡々とした長回しで観客が主人公の生活と同化していく約3時間半の大作です。10年前の36位から大幅なジャンプアップとなりました。2023年1月に早稲田松竹で特別上映されます。
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