栗原ちひろ「余った家」
「本当にここ?」
と問うてみたものの、ここ以外のどこでもないだろうという諦めはあった。
だらだらと続く坂の果て、広々とした区画は緑に埋もれており、中にある家の姿はさっぱり見えない。伸びすぎた庭木は一心に空を目指しているが、下の方はおざなりに枝を打たれた跡があった。近隣への配慮なのだろう。
この家の持ち主はかろうじて生きている、ということだ。
「ここだよ。美岬も見たことあるでしょう?」
たおやかな声で言い、女が小さな鞄の中を引っかき回す。ゆるく巻いたチェリーブラウンの髪にピンクのシャツワンピースをまとった彼女は私の姉だ。七つ年上で、名前は双葉。今年で四十歳ちょうどのはずだけれど、ここ二十年ほど印象が変わらない。
私はタオルハンカチでじっとりとした額を押さえつけながら言う。
「見たことないよ」
「そう? でも、きっと見たことあると思って」
「聞こえてる? 私はこの家を見るのは初めて」
「聞こえてるよ。だけど美岬ちゃんは見たことあると思う。忘れてるだけじゃない?」
双葉は私を見上げて微笑み、一本の鍵を見せつけてきた。
「あった。開けるね」
私は本当にこの場所を知らない。双葉の手の中にある古びた鍵も初めて見る。経年で黒ずんだ鍵には水色のリボンが結ばれており、マジックで『なし』と書き込まれているのが見えた。『なし』は、一体なんの『なし』だろう。私たちは長らく放置された空き家の前に立っている。
東京の春は年々暑くなり続け、四月の朝十時だというのに空気はすっかり暖まりきっていた。がちゃん、と音を立てて門の鍵が開き、双葉のスカートが門内へ入っていく。
双葉は私を振り返り、切れ長の目を軽く見開く。
「どうしたの? 美岬ちゃん、つまらなそうな顔してるよ」
つまらなそうな顔はしていないよ、双葉ちゃん、と私は思う。
私は多分さっきからずっと同じ顔をしている。
「あ、わかった。疲れたんでしょ。ずっと坂道だったもんね。でも大丈夫。中に入ったら疲れなんか吹っ飛ぶよ。きっとすごく楽しいからね」
双葉は私を労るように笑って歩いて行く。パンプスが摩耗した敷石を踏む。敷石の隙間から生えた雑草が、ワンピースのプリーツスカートに引っかかっては揺れている。まるで整った他人の家にお茶をしに来たかのような格好だ。
対する私は、薄汚れたカーゴパンツとパーカー姿で突っ立っている。空き家の掃除には、私の格好のほうがふつうのはずだ。私はいつでもふつうを選ぶ。ふつうの服を着てふつうの道を歩き、ふつう程度に働き、ふつう程度に満たされ、ふつう程度に不幸になる。それはあまり簡単なことではない。
ふつうを望む者は注意深くこの世のふつうを探り、その範囲を目指して中腰になる。あるいは背伸びをする。一度なら簡単な屈伸を二度三度、百度千度と繰り返し、私はふつうを獲得してきた。ふつうはたゆまぬ努力の上にしか成り立たない。一日でも変則的な出来事を紛れこませるのは危うい行為だ。私は今日ここへ来たくなかった。こんな家を見に来たいと思ったことは一度もなかった。ただの一度も。
伸びすぎた木々が影を作っているせいで、庭にはまだ早朝の冷気が残っている。私はひび割れたコンクリートを踏んで数歩進み、木々の懐にあったその家を見た。
骨。
鬱蒼とした緑の間に、白々と柱が浮かぶ。
もう数歩進んだところで、家の全景が見えてきた。
ことんと置かれた大きな箱だ。個人邸というよりは小規模マンションくらいの大きさの四角い建物。それで素っ気ない印象にならないのは、前面に施された数々の意匠のためだろう。黒い平屋根の下と一階と二階の間にはクラシックな花と蔓の模様が浮き出しており、等間隔で並んだ窓にはまったアイアン飾りも同じ模様だ。建物の中央に位置する玄関にかかる大きなひさしは、神殿めいた何本もの円柱が支えている。
さっき骨に見えたのは、この円柱たちだ。
彫刻と円柱で飾られた神殿を、薄っぺらくスライスして貼り付けた家。
双葉は円柱に囲まれた玄関の奥、両開きの立派な扉の前で頰を紅潮させている。
「私も中に入るのは初めてなんだ。何があるか楽しみだね」
私は双葉の背後十歩ほどで立ち止まり、彼女の背中を見た。
中に何があるかなんて決まっている。
古い家の中にあるのは、持ち主にとって要らなくなったもの。もしくは、持ち主の今の家にあっては都合の悪いもの。私が私の恋人に隠したかったすべて。
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