一色さゆり「音のない理髪店」
——祖父は日本初の、ろう理容師です。
デビュー以来三年間筆が進んでいなかった小説家・五森つばめは、作家としての再起をかけて、自身の家族の物語を書くことを決める。つばめの祖父・正一は、大正時代に生まれ、日本で最初に設立された聾学校理髪科を一七歳で卒業し、徳島市近郊で自身の店を営んだ人物だ。聴覚障害を抱えながら、生涯鋏を持ち続けた彼の人生は、果たしてどのようなものであったのか。つばめは、当時の祖父を知る五人の視点から、その実像に迫ろうとする——。
著者の一色さゆりさんは、現代美術市場を舞台にした『神の値段』で第一四回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞し、二〇一六年にデビュー。その後も多くのアート・ミステリーを上梓してきた。そんな一色さんが新刊『音のない理髪店』で挑戦したのは、ろう者とその子どもたちの関わりを描いた心温まる人間ドラマだ。
「デビュー作が美術を扱った物語だったので、その後もアート小説のご依頼をいただくことが多かったのですが、私自身は色々なジャンルの小説を書いてみたいと思っていました。『音のない理髪店』はもともと、『光をえがく人』という短篇集のために提出した、コーダ(『親のどちらか、あるいは両方がきこえない・きこえにくい』という、耳がきこえる子ども)にまつわるプロットが基になっているんです。編集者さんにそのプロットを見てもらったところ、このお話は短篇ではなく長篇にして、じっくりと取り組んだほうがいいのではないかとご提案いただきました」
『光をえがく人』とほとんど同時並行で書き進めたという『音のない理髪店』。そのため、発刊に至るまでには、構想を始めてから六年が経過していたそうだ。
「プロットを考え始めた六年前は、まだ『コーダ』という言葉も今ほど一般的にはなっていなくて。書き始めた当時は、一部の人にしか興味を持たれない題材ではないか、読みたい人はあまりいないのではと悩みました。ミステリーなどのエンターテインメントの枠組みに嵌めることにも抵抗があったんです。でも『小説現代』に一挙掲載されるように頑張ろうと編集者さんから言われた段階で、これは今の自分が持っている以上の力を出して、自分を信じて書こうと覚悟を決めました」
主人公のつばめは、迷いと焦りの渦中にいる二三歳の小説家。書くべきものがわからないという壁にぶつかり、前に進めなくなったつばめは、編集者との打ち合わせの中で、日本初のろう理容師だった祖父の物語を書くことを勧められる。
「実は私の祖父も、ろう理容師だったんです。つばめの祖父は彼女が生まれる前に亡くなっている設定なのですが、そこも自分自身の経験と共通しています。ただこう言うと、パーソナルな『私の物語』を書いたように思われることもあるのですが、実際は人物造形も家族構成も全然違っていて。あくまでもフィクションとして物語を紡いでいきました」
執筆にあたって手話講座にも通われたという一色さん。本来は一年間のカリキュラムの予定だったが、コロナ禍で授業が延期されるなどして、結果的に三年間ほど手話と向き合った。
「一つの言語を習得するのはとても大変で、三年間講座を受けた今でも、身になったとはとても言えません。ただ、『文字表現ではない言語』を小説として『文字』で表現するというのは、美術小説と同じくやりがいのある作業で、腕の見せどころだと思いました。作中にも登場するのですが、ろう者の方は頭でものを考えるときに、映像を思い浮かべながら思考しているように感じます。それをどれだけ自分自身が想像でき、読者の方に追体験していただけるかということには、ものすごく心を砕きました。
『光をえがく人』もそうだったのですが、今回の『音のない理髪店』は特に、読み終わったとき、面白いストーリーだったということ以上に、映像的に印象に残る場面を書き残したいという思いがありました」
なぜ祖父は理容師になったのか、どうして耳がきこえないという逆境の中でも挫けずにいられたのか。つばめは祖父の足跡を辿るため、手話講座に通ったり、父や伯母、祖母などに話を聞きながら、当時のろう者を取り巻く環境や、聴覚障害について理解を深めていく。そして取材を進めていけばいくほどに、「なぜ私が祖父の物語を書かなければならないのか」という、作家としての根本的な問いに行き当たるのだった。
「本書を執筆しているとき、私もつばめと同じように、なぜこの物語を書くのかということを考え続けていたように思います。ノンフィクションではなく、小説として障害を扱う意味は何なのか。その問いを胸に筆を進めるうちに、悲惨な歴史を知らしめるためではなく、その現実のなかにある人間ドラマを描くことにこそ、自分の関心があることに気がつきました。今回扱った聴覚障害のように、『困難な状況にある人をどう支えていくか』というテーマを突き詰めるのは難しくもありますが、だからこそ今後も挑戦していきたいと思っています」
写真:深野未季
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