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武田綾乃・最新作!『世界が青くなったら』プロローグをご紹介

 3月7日(月)に発売される、武田綾乃さんの待望の最新作、『世界が青くなったら』
 先日は六七質さんが手掛けられた、美しいカバーイラストをご紹介いたしました。



『別冊文藝春秋』で本作の連載がはじまる際、武田さんはこんな意気込みを綴ってくださいました。

 恋愛ファンタジー小説が書きたい。それも、ちょっとミステリっぽいやつ。
 そんな衝動に駆られ、あれよあれよという間にプロットが出来上がったのがこの小説だった。作家デビューして以降、初めて書いた恋愛小説となる。
 主人公は女子大学生。大好きな彼氏ができ、毎日が楽しい! これからもずーっと一緒にいようね! ……などというハッピーな物語を書こうとしていたのだが、プロットを書き始めて早々に大きく脱線した。

 武田さんがいう大きな「脱線」とは……? そう、『世界が青くなったら』は、規格外の恋愛小説なのです。まずは本作の「プロローグ」で、その意味をご確認ください。


プロローグ


 昨日の夜、上手に塗れたマニキュアを可愛いねって褒めてほしい。
 飾り棚に置かれたガラス瓶を手に取りながら、はちらりと隣に立つさかはしりょうの顔を見上げた。店内の飾り窓から差し込む光が彼の柔らかな髪に透けている。すらりと通った鼻筋、垂れ目がちな二重まぶた、シャツに包まれた細いたい。その全てが好きだと思った。
 身体の内側で暴れ回る心臓の動きがバレないように、佳奈はそっと鼻で息を吸った。四月に相応ふさわしい生をみなぎらせる花の香りが店奥に設置された棚から漂っている。付き合って二年経つというのに、まだこんなにもドキドキしていると知ったら亮は呆れるだろうか。
「店員がいないな」
 店内をキョロキョロと見回し、亮が少し困ったように言った。そういえばどうしてこの店に来たんだっけ。夢の中にいるみたいに、前後の記憶があやふやだった。
「ここ、何の店だった?」
 佳奈の問いに、亮はあっさりと首をすくめた。
「分かんない。佳奈が歩いてて入りたいって言ったんだろ? 『気になるから入っていい?』って言ってさ」
「そうだったっけ」
「そうだよ。それにしても変な店だよな、最近出来たようには見えないけど」
 ダークブラウンを基調にした店内の柱は年季が入っていて、とてもじゃないが新築には見えない。入り口付近には飾り棚が、その足元にはラタン素材のカゴがずらりと並んでいる。棚に置かれているのは少し高級そうな品で、光沢のある将棋セットやアクセサリーが陳列されている。一方、カゴには近所の遊園地のマスコットキャラクターのキーホルダーや誰かが使った形跡があるレターセットなどのガラクタとおぼしき品が乱雑に押し込まれていた。
「分かった、アンティークショップじゃない?」
「俺にはリサイクルショップに見える」
「それって何が違うの?」
「さあ。名前の響きとか」
 亮が歩く度に、スニーカーの靴底が床板を蹴った。佳奈はその後を追い掛ける。店内の奥で何かを見付けたのか、亮が急に足を止める。
「すげぇ」
「何が?」
 彼の身体の横から、その先にあるものを覗き込む。そこにあったのは、巨大な鉄道模型だった。平面という意味でも立体という意味でも、複数のレールがあちこちで交差している。レールは鉄を思わせる銀色をしていて、その上をいくつものブリキの汽車が走り続けていた。それらはあちこちで交差しているが、決してぶつかったりしなかった。
「あ、なんか書いてある」
 一台の列車を佳奈は指さす。黒のボディの側面に、金字で『Kassiopeiaカシオペイア』と刻まれていた。
「亮、こういうの好きでしょ?」
「うん、好き」
「素直だね」
 亮の腕を軽く叩くと、彼は照れたように目線を落とした。細い黒のスキニーが膝の辺りでうっすらとしわを作っている。
「もう少し見てる?」
「あとちょっとだけ」
「分かった。他のところ見てるね」
 鉄道模型を凝視している亮を置いて、佳奈はさらに奥へと足を進めた。奥は通路のようになっていて、その壁にはブリキ製のバケツが吊るされている。ドライフラワー、生花、鉢植え。それぞれに適した形で加工された植物が、壁を鮮やかに彩っていた。
 通路の先には重々しい扉があり、クラシカルなデザインの銅製錠でしっかりと施錠されている。物置なのかもしれない。その横にはカウンターがあり、その奥にもいくらか空間があるようだ。
 もしかしたら店員はこの奥にいて佳奈たちの来店に気付いていないのかもしれないが、買うものが決まっているわけではないのでわざわざノックするのははばかられた。
 花も売り物なのだろうか。バケツにぼんやりと映り込む自身の顔を見て、佳奈はそっと髪を整えた。肩までの長さのボブヘアはきちんと内巻きのままだ。眉を隠す前髪を小指で軽く流し、佳奈はにやつきそうになる口元を軽く引き締めた。亮といるといつもこうなる。一緒にいるだけで幸せで、だからこそこんな日々がいつまで続くのかと不安になる。
 シャツ越しに、いつのまにか自身の肘をつかんでいた。はっ、と唇からこぼれた吐息で、佳奈は自分が息を止めていたことに気付く。しんと静まり返った店内で、ブリキの列車がレールを走る音だけが響いている。
 ぞっと肌があわつ感覚。沈黙がうなじを刺激した。
「亮」
 とっに佳奈が振り返ったのと、扉が開いたのは同時だった。先ほどまで店内で鉄道模型を眺めていたはずの亮が、入り口の前に立っていた。出て行こうとしているのではない。扉を背にし、彼はただこちらをじっと見ていた。まるでたった今この店に入ってきたばかりだとでもいうように。
 見開かれた彼の目に、小さく水が張る。天井から吊るされた星を思わせるペンダントライトが、両目にある小さな海に光のさざ波を立てていた。
「……亮?」
 尋ねた佳奈に、亮は唾を呑んだ。その顔色は随分と悪かった。あおめた唇を動かし、亮は「佳奈」と静かに名前を呼んだ。
 違和感に、佳奈は自身の手をぎゅっと握り締める。昨晩塗ったターコイズブルーのマニキュアが両手の十個の爪を彩っている。
 亮はこちらへ歩み寄ると、ぎゅっと花奈を抱き締めた。二本の腕が、佳奈の身体を包み込む。その力の強さに、佳奈はパシパシと彼の背を叩いた。じゃれつかれたのかと思った。
「どうしたの?」
 尋ねても、亮は何も言わない。甘えるように、佳奈の肩口に鼻先を押し付けている。くすぐったくて、佳奈は思わず笑ってしまった。
「ねえ、亮ってば」
 もう一度背中を叩けば、今度こそ亮は顔を上げた。前髪の下で、彼の少しやつれた両目が細められる。亮は佳奈の手を取ると、その指先をそっと握った。
「俺、佳奈のこと幸せにするから」
 その言葉を聞いた瞬間、世界が一瞬で遠のいた。喜びが身体の奥底から噴き出し、内側からにじむ熱が頰を赤く染める。
 もしかして、これってプロポーズってやつなのだろうか。亮に握り締められたままの自分の左手の薬指を、佳奈は静かに見下ろした。大学生で結婚なんて早いって親には言われるかもしれない。でも、二人で一緒にいられるなら反対されたって構わないって思ってしまう。
 亮は真っ直ぐに、佳奈の目を見つめた。
「今度こそ、ずっと一緒にいよう」
「今度こそ? 今までもずっと一緒なのに」
「……うん。そうだった」
「変な亮」
 笑う佳奈の頰を、亮の指先が静かに撫でた。少しだけ乾燥した彼の指が肌にこすれてピリピリする。
「俺、佳奈が好きだ。本当に」
 屈託のない『好き』の二文字は、日常で聞くには少しくすぐったい。熱くなる自身の頰を手の甲で押さえ、佳奈は照れを隠すように唇をすぼませた。
「本当に今日は素直だね」
「素直になるべきだったって、後悔してるから」
「何か後悔してることがあるの?」
 佳奈の問いに、亮は困ったように眉尻を下げるだけだった。彼の少し大きな手が、そのまま佳奈の手を摑む。お互いの五つの指が交差して、手の平同士が密着した。
「さ、早くここを出よう」
 アンティーク調のドアノブに手を掛け、亮は繫がっている手を引いた。隙間から差し込む光がやけにまぶしい。店の内側と外側。その境界線を、佳奈は自身の意思で踏み越えた。
 そして気付いた時には、世界から坂橋亮が消えていた。

(プロローグ・了)


 気になる展開は3月7日に刊行される単行本で☆ お楽しみに!


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