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大前粟生「サウナとシャツさん、ふつうの男」後篇

WEB別冊文藝春秋

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モブキャラのような俺の前に現れた十六万円の最高のシャツ。
あの日から、俺の生活は「シャツさん」一色になってしまい…

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 シャツさんとはじめて出会ってから一年が経った。買えるだけの金はなんとか貯まった。
 八月の、台風が去って晴れ渡った日だった。俺は、まるでなにかの主人公にでもなった気分で、「買いにいく」「買いにいく」「買いにいく」鏡に向かって何度もつぶやいた。
 シャツさんを買いにいくための服は、どうしようか散々悩んだ末、普段と変わらないコーデにした。つまり、これが無難だろうと思える服を選んだ。感染症が流行してからはファッションのトレンドもあまり変わっていない。
 無地のTシャツにパンツ。パリッとしたいか、だらっとしたいかだけ調整する。線で描いただけのようなネックレスに、たまにバケットハットを被ったりする。同年代の多くはこういう格好だから、俺もこうしている。ゲームの初期アバターみたいだなと思う。その中でどれだけの存在感を出せるかということと、どれだけ周囲に溶け込めるかということは、なぜだか少しも矛盾せず、イコールに思えた。
 俺はもう三年生なのに、一年の頃とそこまで大差ない格好をしている。
 成長してないってことなのかな。
 でも、金だけは貯まった。
 百貨店にいくと、いつもの店員さんがいた。
 通路に立った俺がゆっくりうなずくと、店員さんは、うやうやしく、「ようこそお越しくださいました」なんて言ってくれる。
 俺は緊張のあまりわけわからなくなって、噴き出すように笑った。
 店員さんも、礼儀からはみ出ない最大限の範囲で笑ってくれた。それで俺は緊張がゆるんだ。いつも見ていた服を買いにきたと伝えると、店員さんは俺を店内のスツールに座らせて奥へと消えた。
 なんだこの椅子人生でいちばんふかふかする、と感動していると、目の前にパッとシャツさんが広がった。
 オレンジと青とブラウンの色味が、木漏れ日のように降り注いできた。
 いや、店員さんが手袋をした手で丁寧に掲げてくれているだけなんだけど、俺はそう錯覚する。心が見せてきた景色だ! そんな発見が、今この瞬間に俺自身が生まれ直したみたいに新鮮だった。
 店員さんに促されるまま立ち上がって鏡の方を向き、Tシャツの上からシャツに袖を通させてもらう。
 俺は金を貯めたから、がんばったから、ものすごくがんばったから、シャツさんを着ることができるんだ……。
 なんだこの手触り。なんだかいいにおいまでする。左腕から順に店員さんが袖を通してくれるこの瞬間、時間が止まってくれって思う。
 シャツを着ると、燃えるように心が熱くなった。
 お、おお。おおお。
 一六万っ! 一六万でーーーーす! 頭の中で、高校生の時によく見てたネタ番組でブレイクした一発ギャグばかりする芸人が、真っ黄色のスーツを着て叫んでいる。
 おおおおお。
 まさか俺に高級ブランドの服を買う時がくるとは。孫の代まで語り継ぎたい……。
 うおお……。
 鏡にうつる俺の姿を見てみる。ほんとに、いいシャツだ。オレンジと青で構成されたラインは自分でも驚くほど目を惹く。それでいて、交差する鳥のブランドロゴは近くで見ないとわからないから、いやらしくない。こうして着てみると、シャツの色味に引っ張られるように俺の顔が少し土色っぽく見える。オーラのある服に、本当にどこにでもいるモブキャラのような俺。俺が服を着ているというより、服が仕方なしに俺を着ているみたい……。
 お、おお……ああ……うん……正直、似合ってるかどうかは微妙だと思った。
 それでも! 胸はいっぱいだ……。
 なあ! シャツさん!
「これください」と俺は言った。
 現金で払って財布がスカスカになった。その分なにか、憑き物が落ちたように体も軽くなった。俺はシャツさんを着て帰ることにした。
 ズボンのポケットに手を入れ、店員さんからもらった、いかにも高級そうな質感の名刺を指の腹で何度も撫でながら街を歩く。鏡やショーウィンドウにうつる度に、ひらりと翻るような調子で姿を確かめる。ヤバい肯定感が出てくる。それと同時に、自分の体つきが安っぽいおもちゃに見えて恥ずかしくなる。気に入った服を着てることで感情の振り幅が増したみたいで、ぐわんぐわんと気持ちが揺れ動く、そのこともまた楽しかった。子どもの頃ってこんな風に買い物のいちいちに一喜一憂していたよな。俺はやっぱり生まれ直したんだ、としみじみ感じ入ってると、車道を挟んで向こう側に、一美と流星がいた。
 ふたりともTシャツとパンツのラフな姿で、一美はグレーの色付きメガネをして、流星はクリームソーダみたいな色のバケットハットを被っていた。テンションの高さを表すかのように、会話に合わせて流星の手はぐるぐると輪を描いていく。そして、ふたりともスケートボードを脇に抱えていた。いつの間にか一美もスケボーはじめたんだな。知らなかった……。
 俺は声をかけようとしてためらい、「おまえそんな服持っとったっけ?」と言われるところを想像する。気まずかった。俺だけもう「俺ら」ではないみたいな。それは嫌だ。車の走行音にかき消されないよう声を張ろうとすると、体が一気に汗をかきはじめた。慌ててシャツさんを脱いでTシャツ一枚になる。丁寧に折りたたんでかばんの中にしまい、ジッパーをきっちり閉じると声が出た。
「おーい!」
 足が勝手に駆け出していく。クラクションを背中に受けながら車のあいだを縫って車道を渡る。大丈夫かよ、と青ざめるふたりに「だいじょぶだいじょぶ」と早口で笑ってみせる。三人で会うのはひさしぶりだった。近況報告は尽きなかったけど、一美と流星は夕方から予定が入っているらしく、この日は早々に解散した。俺は一六万の服を買ったことを言わなかった。
 俺はその夜、はじめてマッチングアプリに登録してみた。人の顔が次々画面に現れるのをスワイプし、好みかそうじゃないかを選別していく。それはちょっと、服を選ぶみたいで、だんだんと、選別の作業を続けていることが気持ち悪くなってきた。
 こういう話ってウケたりするんじゃないかな、とその日の夜勤で高崎さんに話してみた。
 するとどういうわけか、高崎さんはきれいなフォームで俺のふくらはぎを蹴ってきた。
「ええ⁉ なんで蹴るんすか」
「なんで蹴るんだろうね」
 そう言われたから、俺なりに考えてみた。人を服みたいにたとえたのがキモかったのかな。
 三時から四時までの休憩時間のあいだ、デスクチェアを三つ並べた上に寝転びながら、またマッチングアプリで人の顔を忙しなくスワイプしていった。そうしているうちに、歳も、趣味も、住んでる場所も近くて、諸々の関係を築いていくにあたってかかってくるストレスが少なそうで、かつ顔も好みな感じの人とマッチングした。
 そのことを、やっぱり仮眠取れませんでしたけどね、と休憩明けに冗談混じりで高崎さんに話した。
「ふーん」
 高崎さんの素っ気ない様子に俺は、またなにか失敗したかな、と若干不安になる。
「どんな人。見せてよ」
「はあ。えっと、この人」
「私の方がかわいいと思うんだけど」
「え」
「どう思う?」
「それは……」
「まじまじと見るな」
「まあ、そうなのかもしれないですね?」
「キモ」
「いやいや、どっちがっすか」
「話、どこまで進んだ?」
「え?」
「まだことわれる感じ?」
「ああ……。まあまだ、会ってもないし……」
「ことわる?」
 見知らぬ相手への謝罪の文面を俺が打ち込むのを高崎さんは無言で見つめた。それから子ども同士のおふざけのように俺に肩をぶつけてくるから、俺もそうする。俺らはしばらくそうする。

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