ピアニスト・藤田真央エッセイ #71〈パリのメロンパン――ピリスの代役で〉
『指先から旅をする』が書籍化しました!
世界中で撮影された公演&オフショット満載でお届けします。
11月6日(水)
2日間のリハーサルを終え、本番を迎えた。
ピアノから始まる前奏。息を一度吸い、指先以外の全身の力を完全に抜く。上から優しく毛布をかけてあげるように手首を下ろしながら放ったト長調の和音。劇場中に至高のト長調のハーモニーが響き渡った。
ドイツの偉大なピアニスト、ヴィルヘルム・バックハウスはこう述べている。「私が愛して止まない作品の、この部分を今まで毎日練習してきたが、完全に満足できたことは未だ一度もない」と。それほどに繊細であり、シンプルでありながら、あらゆる技術が必要なフレーズなのだ。私も例に漏れず本番前にこの5小節間ばかり練習していたが、素晴らしいピアノのお陰か、肝心の本番では得も言われぬ美しい弱音が出せた。すると、思いがけないことに、続くオーケストラの第一音目に驚いた。リハーサルでは聴いたことのなかったような極上の音色が引き出されたのだ。このように私のピアノの音色をオーケストラが感受し、応えてくれるコミュニケーションが出来たのは、6月のゲヴァントハウスでの演奏以来だった。ここに来て初めて楽団と心が通った気がした。
この作品ではベートーヴェンは強弱記号を詳細に設定している。百戦錬磨のマーラー室内管は私の音を十分に聴き、こちらが音色を変えれば瞬時に私に合う音色を作ってくれた。その後も繊細さの極致に達した音楽で流れを紡ぎ、気品高い演奏で終演した。
終演後は再びイタリアン……とはならなかった。イタリア滞在も3日目を迎えると、そろそろお米が恋しい。気づけばホテル近くの中華屋さんに足が向き、春巻き、麻婆豆腐、チャーハンを無我夢中で食してしまった。これもまた至福のひとときであった。
11月8日(金)
私はフランス・パリに到着した。今朝まで「グラツィエ」と言葉をかけられていたのが突然「メルシー」になり、ああ国を跨いだんだな、と実感する。一週間でさらに「ダンケシェン」「センキュー」と、4か国語圏を渡り歩くのだから、目がまわりそうだ。
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