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ピアニスト・藤田真央エッセイ#24〈満員のコンセルトヘボウから、一転――ミラノのペペロンチーノが教えてくれたこと〉

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 3月上旬のアムステルダム・コンセルトヘボウでの演奏会後はコロナに感染してしまい、自宅療養を余儀なくされた。2週間静養できたおかげですっかり快復し、さて次のコンサートはというと、今度はモーツァルトのピアノソナタ・リサイタル、場所は再びアムステルダム・コンセルトヘボウだった。

 アムステルダムは昼と夜で完全に印象が変わる興味深い街だ。日中はカラフルな建物が目に鮮やかで可愛らしいが、夜はピンクや紫色のぎらぎらしたネオンが輝く。
 前回の公演で訪れた際にも、ソワレ後の帰り道で激昂したカップルが大喧嘩をしている間をひょっこりくぐり抜けて歩いたり、公演のない日に散歩をしているといきなりディープなお店が立ち並んだ場所に迷い込んでしまったり、不思議な思い出がたくさんできた。

 今回のリサイタルは3月25日(土)で、私はその前日の24日にアムステルダム入りした。基本的にフライトの予約やホテルの手配など、事務一般は素晴らしく有能なマネージャー達が担い、私は彼らから送られてくる旅程に目を通すだけだが、今回ばかりはイエスマン藤田真央が初めてノーと言った。 
 前回1週間泊まっていたホテルは、コンセルトヘボウから徒歩15分ほど。シャイーのようなマエストロには送迎の黒塗りメルセデス・ベンツが用意されていたが、私は歩いて通うしかなかった。大雨の日も大雪の日もだ。朝は天気が良かったので傘を持たずに会場へ出掛けてしまい、公演後ずぶ濡れでホテルへ帰ることが2日続いた。
 どんなに良い宿舎であろうと体調を崩してしまっては元も子もない。今回は前回の反省を活かして、コンセルトヘボウから歩いて1分の簡易的で便利なビジネスホテルを自分で手配した。

 コンフォータブル(comfortable)という言葉がぴったりのいいホテルだったが、私はホテルで朝食はつけなかった。前回アムステルダムを訪れたときに「行きたい店ランキングトップ10」を作成し、コロナ静養時にはそのリストを眺めながら毎日耐え忍んでいたのだ。
 その一つがベーカリーである。公演当日の朝、お店に向かうと、ショーケースの中にたくさんのパンがずらりと並び、芳醇な香りが漂っている。ベーシックなパンから菓子パン、ケーキまでバラエティ豊かだが、私はこういう時には同じものをいくつも頼む癖がある。例えばバスキン・ロビンス、いわゆるサーティワンアイスクリームに行くと、好物の抹茶だけを二つ、三つと盛り付けてもらう。店員さんにとったらいちいちアイスクリームのディッシャーを洗わなくて済むのでありがたい客だろう。
 このベーカリーでも大好物のレーズンパンを見つけることができた。1個0.85€という、アムステルダムの物価の高さを考えると驚異的な安価だ。無事にレーズンパンを4個購入することができ、足どりも軽くコンセルトヘボウへと向かった。

 前回のロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団とのコンサートは大ホールで行われたが、今回のリサイタル会場は小ホールだった。小ホールといっても全430席と規模が大きく、非常に心地よい響きを持つ、ピアノリサイタルや室内楽に適したホールである。
 会場に行くとステージ上には2つピアノが並んでいた。大ホールでは3台のピアノから選べたが、小ホールでも2台のピアノを試弾できるとは、有名なホールは選択肢が多くありがたい。

 今回の演目は3月5日にバンクーバーで行った公演と同じく、モーツァルトのピアノソナタから《KV309》《KV310》《KV333》《KV311》である。
 オール・モーツァルト・プログラムなので、キラリと輝くような高音や、あたたかく包み込むようなハーモニーを出せる低音の響きを重視し、ピアノを選定した。


 3時間ほどリハーサルを行ったのちは、再び「行きたい店リスト」から今度は地元で人気のレストランを選んだ。オランダ名物「クロケット」(オランダ風コロッケ)を満喫し、またリハーサルに戻る。
 開演1時間前の19時ごろリハーサルを終えると、ステージマネージャーや主催者が何やらステージの上で忙しなくしていた。
 ありがたい事にチケットが完売になったため、ステージの上にも座席を用意してより多くのお客様を迎える事になったらしい。コンセルトヘボウ管とのラフマニノフが好評だったためだろうか。
 ステージの下手にぎっしりと椅子が並べられ、大して広くはないステージが、より密接に感じた。一番近い席は私から1メートルもない。ボリュームの大きな曲ではなく、繊細なモーツァルトのリサイタルで本当によかった。

 いよいよ本番がはじまった。少し鍵盤の低音の方へ目をやると、お客さんの顔がすぐ目に入る。集中力が散漫になるのではと心配していたが、杞憂だった。これ以上ないほど曲へ入り込み、ピアノの特徴を十二分に活かすことができた。これが"ゾーンに入る″というものなのかという手応えすらあった。自分が自分でない、それは自分をどこかで操っているような――まるで指揮をしているような感覚だった。このような境地になるのは非常に稀で、一年に一回あるかないかだろう。それがこの日は開花し、また一つモーツァルトの奥行きが深まったと感じられた。

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