【前後篇同時公開!】荒木あかね の ”アリバイ崩し”ミステリー ……「壊すのは簡単」〈前篇〉
壊すのは簡単
〈前篇〉
畑の畝のように細長く波立った雲が遠くに見える。冬の空は濃い青色をしていた。
閑静な住宅街に、唸るような重機のエンジン音が響いていた。ショベルカーのバケットが重い瓦礫を廃棄用の山に落とす度に土埃が巻き上がり、地面が揺れる。傍に立っているだけで足の裏から振動が伝わって、指先まで震えるような感覚を覚えた。
梅崎工業の五名の解体作業員たちは、さいたま市西区指扇の住宅地に建つ、木造二階建ての空き家の解体工事を行っていた。
先月末に始まった解体作業は、今日で十二日目を迎えた。家屋は既に壊してしまっている。コンクリート基礎の解体が進み、地中に埋め込まれていた浄化槽や水道管などの撤去も完了した。工事と並行して廃棄物を分別・搬出しているので、敷地内の瓦礫の量はかなり減っている。
あとは残った廃材や残土を整理して、鋤取りを行わなければならないが、今日中にはすべての工程が終わる目途が立っていた。
梅崎は作業服の袖をまくって、腕時計を確認した。午前十一時五十五分。重機オペレーターの作業員にショベルカーを止めるよう指示を出す。
「そろそろ昼休憩にするぞ」
作業員たちは各々の仕事を片し始めたが、前田という若い作業員は、廃棄物の分別場所に突っ立ったままだった。心ここにあらずといった表情で、ちらちらと表の通りに視線を送っている。
「どうした?」
梅崎が声をかけると、前田は丸い目をくりくりと動かしながら、「やっぱり……」と小さく呟いた。
「やっぱりアレ、社長を見てますよ」
前田は作業現場に面した道路の方向を指差す。
通りを挟んで向かい側には、敷地内に四五〇〇平方メートルもの広さの鎮守アジサイ園を有する指扇氷川神社が見えた。毎年六月、アジサイまつりが開かれる時期になると多くの見物客で賑わうが、冷たい風が吹きすさぶ十二月上旬現在、ほとんど人通りはない。その境内を取り囲むように広がる木立の切れ間に、くすんだ灰色のスーツを着た女が一人、立っていた。髪をぴっちりとひとまとめにして、理知的な雰囲気の細いフレームの眼鏡をかけている。一見すると神経質そうな印象を受けるが、口元には穏やかな笑みを浮かべていた。
梅崎は、それが宮島香苗だと一目でわかった。
「社長の知り合いですか?」
好奇心を隠そうともしない前田に休憩に入るよう命じ、宮島のもとへと向かう。近づくと、彼女はにこやかに会釈した。
「久しぶり。私のこと覚えてる?」
忘れるはずないだろ、という言葉が喉元まで出かかって、思わず拳をぐっと握り締める。
幼馴染の宮島とは、二十歳頃までは交流が続いていたが、互いに就職してからはめっきり疎遠になっていた。言葉を交わすのは十八年ぶりだろうか。
「何かあったのか?」
まさか偶然現場の近くを通ったから声をかけたということはないだろう、という確信があった。宮島は、何の理由もなく昔馴染みの顔を見に来るような人間ではない。
「今仕事で行き詰っててさ。梅崎くんにちょっと、訊きたいことがあるんだ。作業は何時に終わる?」
「ここは午後五時までに引き上げる。それから事務所に戻ってやることがあるから、七時は過ぎると思う」
「じゃあ諸々終わったら電話して。会社まで迎えに行くよ」
「番号は?」
「変わってない」
それだけ言うと、宮島は「じゃあまた」と軽く手を振ってその場を後にした。
梅崎は握り締めていた拳から力を抜き、深呼吸をする。吐いた息はたちまち白く凍った。
午後からの作業も順調に進んだが、しかし、梅崎は集中力を持続させるのに苦労した。先ほど宮島と交わしたやり取りが、まるで壊れたラジオのように頭の中で繰り返されていた。
*
予定通り工事を終えた梅崎は、移動用のバンに他の作業員を乗せると、JR埼京線・川越線の線路を越えて県道を北上し、上尾市へと車を走らせた。梅崎工業の事務所は北上尾駅の東口側に位置していた。
雑務を終えて事務所を出ると、駐車場の隅に見慣れない白のSUVが停まっていた。運転席の窓が開き、宮島が顔を出す。
「お疲れ。乗ってよ」
躊躇いながらも助手席に乗り込む。宮島は暖房の風量を上げた。
「ご飯まだだよね。何か食べる?」
「いや」
食欲がない。というより、どんな顔をして食事すればいいのかわからなかった。
「じゃあちょっとそこまで車出すね」
北西方向に延びる県道三二三号をまっすぐに進み、大型の商業施設や飲食店などが集まった駅前を通り過ぎる。やがて大通りから逸れ、宮島はグラウンドのある大きな運動公園の脇に車を停めた。
分厚い雲が月を半分隠している。——今ここで自分は彼女に殺されるんじゃないか。馬鹿馬鹿しく、妄想的ともいえる不安がほんの一瞬胸を掠めた。
宮島はエンジンをかけたまま、腕を伸ばして室内灯を点けた。「いやぁ、ほんとに久しぶりだね」などと楽しげに笑っているが、梅崎はその口元を見つめながらつくづく不思議に思った。どうして彼女は平気なのだろう。最後に会ったときから途方もない時間が経過しているというのに。
「ミヤ……宮島さん、今いくつだっけ」
「三十八だよ。私たち同級生じゃん、何言ってんの」
「ああ、そうか」
喉が渇いて仕方がない。唾を呑み込みながら、全身の筋肉が強張っているのを感じた。
一方宮島は車内にうっすらと漂う緊張の気配など気にも留めない様子で、梅崎の顔を覗き込んでくる。
「お父さんは元気?」
「去年死んだよ」
宮島は「そう」とだけ言って、名刺を一枚出し、ダッシュボードの上に滑らせた。薄ぼんやりとした明かりが紙切れを照らす。「警部補」という階級の下には、宮島の名前が記されていた。埼玉県警察本部刑事部捜査第一課——本当に刑事になったのか。
「梅崎くんは、三時間で家屋を壊せると思う?」
何の脈絡もない問いかけだった。
「どういう意味だよ」
「家屋と言っても、小さな木造の倉庫みたいなものなんだよね。小屋と呼ぶ方がしっくりくるかな。それを解体するときにかかる時間を調べてるんだ。三時間以内に壊せるかどうか、梅崎くんに判断してほしくてさ」
事件の捜査のため、解体作業の専門家の意見を聞きに来たようだが、捜査一課の刑事が小屋の解体にかかる時間を知りたがるとは、一体どんな犯罪が行われたというのだろう。全く想像がつかない。
「小屋の大きさは?」
「そんなに大きくない。三畳くらいかな。一応写真もあるんだけど」
宮島はスマホに一枚の画像を表示させた。
背の高い雑草の生い茂る、庭か広場のような場所で撮影された写真だった。写真中央には木造の小さな小屋があり、小屋の前には男性が一人、何のポーズも取らずに棒立ちになっている。プライバシー保護のためか、男性の顔には加工が施されていた。この男性が小屋の持ち主だと宮島は言った。
「もっとマシな写真はないのか? 小屋の全体像が見えないじゃないか」
小屋の外観は何となくわかるが、男性の膝から下が見切れるほど全体的に写真がアップになっているせいで、小屋の基礎の部分が見えなくなっていた。
「ごめん、これしかないの。でもこの男性の身長は一七〇センチくらいだから、そこから割り出すと地面から屋根のてっぺんまで大体二・八メートルくらいの高さだと推測できる。梅崎くんはこの写真を見て、どんな構造の小屋だと思う?」
「シンプルなツーバイフォー工法の小屋に見えるけど……」
「ツーバイフォーって?」
北米から輸入された木造建築の工法で、木造枠組壁工法とも呼ばれている。枠状に組んだ角材に合板をあわせて組み立てて壁や床を作るという、単純な工法だ。使用する角材のサイズが「2インチ×4インチ」であるため、「2×4工法」と表記することもある。
「重機は使う想定か?」
「使わない。道具はスレッジハンマー、バール、解体鍬、ノコギリのみ」
「素人の作業ってことだよな。人数は?」
「一人で」
「廃材の片付けや搬出まで含めるのかい?」
「いや、それは考慮しなくていい。壊すだけ」
梅崎は写真の中の小屋を睨みつけ、眉間に皺を寄せた。
「そうだなぁ……五、六時間はかかると思う。プロなら三時間半から四時間でやれるかもしれない」
宮島は「えーっ」と大袈裟に驚いた。
「こんな小さな小屋なのに?」
「実物を見たわけじゃないからただの印象だけど。でも、ボロでも小屋一つを壊すにはそれなりに時間がかかるよ」
「じゃあ、どうにかして作業の時間を短くすることはできないんだ?」
「さっきから何なんだよ。前提の条件がわからなければ答えようがない」
「説明したいのは山々なんだけどさ。ほら、わかるでしょ? 一から十まで話すわけにはいかないんだよ」
名刺に記載された「埼玉県警察」の文字を、宮島の爪が弾く。
県警本部の捜査第一課に所属する彼女が捜査に駆り出されているということは、恐らく県内で重大な事件が発生したのだろう。殺人か強盗か。何にせよ、一般市民に捜査情報を易々と教えるわけにはいかないということは理解できる。しかし、それが小屋の解体とどう結びつくのかがわからなければ、梅崎には意見のしようがなかった。
宮島は溜息を一つ吐いて、「口外しないでよね、私が怒られるから」と笑った。
「今からちょうど一週間前——先月の二十九日。県内のとあるアパートの一室で、男性の遺体が発見された。他殺だった。被害者はその部屋に住む三十代のフリーター。捜査情報を詳しく話すわけにはいかないから、そうだなぁ……仮にAさんとでも呼ぶことにしようか」
「Aさん。ずいぶんと味気ない仮名だな」
「まあ聞いてよ。Aは近所のコンビニで働いていて、主に深夜勤務を担当していたらしいんだ。遺体が発見される前日、つまり十一月二十八日の夜も午後十時から勤務する予定だったけれど、Aは無断欠勤した。同僚の男性はAと連絡が取れないことを心配し、翌二十九日七時までの勤務を終えてから、Aのアパートへと向かった。鍵が開いていたので中に入ってみると、頭部から血を流して倒れているAを発見した」
「わざわざ家まで様子を見に行ってやったのか。第一発見者の彼はよっぽどAさんと親しかったんだな」
宮島は「さあ、それはわからないけど」と首を傾げ、言葉を続ける。
「死因は頭部の損傷による脳挫傷。側頭部を鈍器で殴りつけられたものと見られてる。犯人はAを殴殺した後、遺体を放置して逃げたようだった。金品を物色した形跡はなく、怨恨の可能性が高い。Aが住んでいたのは築三十年の、年季の入った木造アパートで、防犯カメラなどは設置されていなかった。周囲のカメラと言えば、近隣の喫茶店の店先にあるやつだけで、それも空振り。アパート周辺の聞き込みも成果は上がらなかった。そこで、人間関係を洗って何か出てくることを期待した。そしてAとの間にトラブルを抱えた人物として捜査線上に浮上してきたのが、ある一人の男——ここではBと呼ぼうかな」
梅崎は口を挟む。
「Bには、Aを殺す動機があったってことだよな? どういう関係なんだ?」
「大学時代のサークル仲間だそうだよ。学生の頃はよくつるんでいたけれど、就職したことで自然と疎遠になった、というのがBの主張」
「何かあったんだな?」と尋ねれば、「うん」と返ってくる。
「実際には大学を卒業してしばらく経ってからも、AとBは仲の良い友人同士だったらしい。ところが四年前、大きなトラブルが生じた。二人が外で食事をした帰り道、ひどく酒に酔ったAが暴れ、路上に停まっていた車に傷をつけてしまったんだよ。常習的な犯行ではないし、故意ではなかったから器物損壊罪には問われなかったけど、示談金を支払わなければならなくなった。その頃勤めていた会社を辞めたばかりだったAにとっては、かなりきつい額だった。そこでBがAの代わりに示談金を出してやった」
「AはBに借金をしてたのか」
「いや、Bは『返さなくていい』と言ったそうだよ。一緒にいたんだから自分にも責任の一端がある、と」
それだけ聞けば、BはAを憎むどころか、積極的に世話を焼いてやっているようにも思える。
「でも、その一件の後、BはAに対して強気な態度を取るようになった。あるとき些細なことから軽い口論になって、頭に血が上ったBは示談金の話を持ち出し、『あのとき俺が金を払ってやったじゃないか』というようなことを言った。Aが『返さなくていい、気にしなくていいとそっちが言ったくせに話が違うじゃないか』と言い返したことで殴り合いの喧嘩へと発展し、警察沙汰にまでなった。Aは顔面に切り傷を作り、Bは右手の指に罅が入るほどの怪我を負った。以降、AとBは関係を絶った」
「……ひどい話だな」
「ね、本当にひどい話だよね。返さなくていいって言ったのはBなのに、それで態度が変わるなんて。Aも災難だよ」
想定外のことを言われて、梅崎は思わず「えっ」と目を見開いた。対して宮島は「何?」と怪訝な表情を浮かべる。
「私、何か変なこと言った?」
「えっと、Bが口では『返さなくていい』と言ったのだとしても、本音は返してほしいに決まってるだろ。言いづらいから言わないだけであって。常識的に考えて、Aは生活に余裕ができてからBに何かしらの礼か補償をしようと努力すべきなんじゃないか? もしもAが『Bが返さなくていいって言ってたからこの件はもうおしまい』とでも言わんばかりの態度を取っていたのだとしたら、Bが腹を立てるのも理解できる」
宮島は二、三度瞬きをして、「そっかぁ」と口の中で呟いた。
「そっかぁ、梅崎くんもそっち派かぁ。私の周りの捜査員は全員梅崎くんと同じこと言ってたよ。だからたぶん、私がおかしいんだろうね」
Aはだらしのない人間。そしてBはその面倒をみてやっていた人物で、とうとう我慢がきかなくなって暴力沙汰になった。梅崎はそんなふうに読み取ったが、宮島にはまるで違う景色が見えているようだった。
梅崎は咳払いを一つして、話を戻す。
「それにしても、四年前の喧嘩が原因で今更人を殺すかな」
「さあ、それは何とも判断できない。犯人であるかどうかはともかく、実際にBと会ったとき、都合の悪いことを隠そうとする傾向のある人物だと思ったよ」
事件発覚の翌々日、宮島はBへの事情聴取を担当したのだという。「ここ最近Aさんとは会っていないんですか?」と質問したとき、Bは「ええ、会っていませんよ」と答えた。しかし、表情も間の取り方も不自然極まりなかったらしい。
Bは四年前に大喧嘩してから一度もAと顔を合わせていないと主張しているそうだが、噓を吐いている可能性は大いにある。
「怪しい奴だな」
「そういうわけで捜査本部は彼に大注目してる。でも、『最近Aとは会っていない』との証言が噓であるという確たる証拠は出てこなかった。AとBは四年前に大喧嘩して以来、互いに連絡先を消してしまったみたいで、AのスマホにはBの連絡先は載っていなかったし、連絡を取り合っていたような形跡もなかった。それに、Bには崩せそうで崩せない不在証明が成り立っていたんだよ」
「アリバイが成立したのか」
「そう。司法解剖をして胃の内容物を調べたところ、ほとんど消化された状態であったことから、被害者は昼食を取る前に殺害されたものと考えられた。その他の死体現象を分析した結果、死亡推定時刻は遺体が発見された日の前日午前十時から午後一時までの約三時間だとわかった。——でも、犯行現場を検分した結果と被害者の当日の行動を知る人物の証言から、Aが殺されたのは正午以降だろうと予想されたんだ。要するに、犯行時刻は二十八日の正午から午後一時までの一時間だろうと、捜査本部は見てるわけよ。
Bは犯行現場、つまりAの自宅から車で一時間ほど離れた場所に一人で住んでいる。そして、事件当日の行動については、午前十一時頃から自宅敷地内に建つ木造の小屋の解体作業を行っていたと証言したんだ。梅崎くんのようなプロの業者には頼まず、自分で解体したらしい。昼食も取らず、ぶっ続けで作業して午後四時過ぎに解体を終えたという話だったから、作業時間は約五時間ということになる。『音がうるさくて近所にも迷惑をかけますから。早く終わらせようと思ったんです』とのことでね。近隣に住む住民は確かに午前十一時頃から解体作業の音が聞こえていたと証言している。その住民は午後四時過ぎ、作業が終わったことを報告しにきたBにも会っていて、十一時前には確かに建っていたはずの小屋が壊されているのも目撃している。Bはともかく、その近隣住民が噓を吐いている様子はないし、噓を吐いてまでBを庇ってやる理由はない」
「じゃあ無理だろ。BはAを殺せない」
Bが十二時、つまり犯行時刻の上限ギリギリに殺しを行っていたとして、すぐに家に帰っても午後一時。そこから作業を行うとなると、午後四時までの三時間で家屋を取り壊さなければならない計算になる。
「たった三時間で、その小屋を全て解体できるとは思えないよ」
「逆に言えば、三時間で小屋を壊すことが可能であると証明できればBのアリバイは成立しないでしょ」
「隣の住民が、十一時からずっと作業の音を聞いていたんだろ」
「でも解体作業をしているBの姿は目撃されていないんだ。もしかしたら、音を鳴らしていただけかもしれないよ。屋根を剝がす音やバールを木にぶつける音を録音しておいて、十一時から午後一時の間はスピーカーで隣家に向けて流し続ける。それで午後一時に戻ってきて、大急ぎで解体するってのはどう?」
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