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ピアニスト・藤田真央エッセイ #76〈2024年のベスト公演を振り返る〉

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『指先から旅をする』が書籍化しました!
世界中で撮影された公演&オフショット満載でお届けします。

  2025年3月で、とうとうこの連載も3周年を迎える。ドイツに渡ったばかりのころの私に、まさか自分の文章を皆さんに読んでいただくことになるなど、想像出来ただろうか。
 最近、韓国での公演に向けたインタビューで、現地のプロモーターに「毎月連載を執筆するモチベーションは何ですか」と尋ねられた。モチベーションは様々だが、ピアノではなくPCのキーボードを叩く静かな時間は、毎日の驚きや発見の記録のみならず、日本語で言葉を紡ぐ訓練という意味を帯びてきている。

 私はもともと(我ながら)無類の記憶力を持ち合わせていたのだが、最近その能力に陰りが見え始めてきた。譜読みにはより多くの時間を要するようになってきている。10代からレパートリーにしている作品は手が勝手に覚えているが、20代に譜読みをした楽曲を再度取り上げるのは毎度一苦労だ。加えて、英語やドイツ語を中心とする生活の中で日本語の語彙が痩せてきたように思う。先日は「すれ違う」という言葉がなかなか出てこず、「向こうから歩いてきた誰かが私のそばを通り過ぎる瞬間を、なんと呼ぶんだっけ!」と周囲に尋ねてしまった。自分の気持ちを日本語で綴る時間が日常に無かったとしたら、私の日本語能力はもっと衰えていただろう。毎月目を通してくださる皆様には感謝でいっぱいだ。
 今回は、未来の私に送るタイムカプセルとして、今更ながら《私的2024年ベスト3公演 〜リサイタル編と協奏曲編〜》を記そうと思う。唐突だがお付き合い願いたい。なお、ランキングは自身の演奏の出来についてであり、主催プロモーターの待遇やお客様のリアクションには一切依らない旨をご理解いただければ嬉しい。

【リサイタル編】

第3位
9月13日 チェコ・プラハ公演

 厳かな雰囲気に包まれた〈ルドルフィヌム〉で行われた本公演。特徴的な音響を味方につけるべく、たいへん苦心した。どのように音が届くかを確認するためにリハーサル時に録音を行い、客席とステージを行き来しながら研究をした。

 だがこの日は嵐が接近しつつある記録的な大雨。本番時には音は完全に湿気に吸われてしまった。分析を重ねたリハーサル時の音作りは全く役に立たなかったが、その分舞台上でアンテナを張って音の飛び方、方向性を瞬時に把握しながら演奏をした。こんな風に、コンディションに恵まれない時に却って神経が尖り、集中力が増すことがある。曲を進めるごとに会場のボルテージがじわじわ上がり、最後には熱狂的なエンディングを迎えた。

 終演後、主催者が私に語った言葉は忘れられない。「私はピアニストであり、評論家でもあり、音楽祭の主催者である。だがあなたの演奏を聴いている瞬間はこれらのどの自分でもなかった。ただ一聴衆として熱狂し感動した。ありがとう」

第2位
8月19日 スイス・ルツェルン公演

 23/24シーズン最後のリサイタルとなるこの公演では、これまでの集大成を出し切ろうと武者震いしていた。ルツェルン音楽祭への参加も今年で三度目となり、精神的に余裕が生まれたのだろう、良い緊張感で本番を迎えることができた。大舞台のプレッシャーに屈することなく高い水準の音楽を作れたことは、今後の自信にもなった。繊細さとダイナミックさの両方を兼ね備えた演奏で、七色の音色を響きの良いKKLホールに充満させることができ、私自身もその美しさに聞き惚れてしまった。

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