有栖川有栖「捜査線上の夕映え」 序章
序章 お召し
1
旅に出ることにした。
独りで。
いつものショルダーバッグを肩に掛けて部屋を出かけたところで、マスクをし忘れていることに気づいて引き返す。外出時には必ずマスクをすることが励行されて半年は経つのに、粗忽だからいまだによくこうなる。「また忘れてるよ」と注意してくれる同居人はいない。
JR天王寺駅へと向かった。私・有栖川有栖の自宅マンションがある夕陽丘からはなだらかな下り坂になっている。地下鉄だとひと駅の距離。所要時間は歩いて十分ほどだから、外出自粛による運動不足の解消にはほど遠い。残暑がまだ厳しいので、ゆっくり歩いても額に汗が浮いた。
大阪市内にしては珍しく坂の多い近辺を日常的に散歩するよう心がけていたが、公共交通機関に乗ることは控えており、JRを利用するのは四月の初め以来だ。
自宅に引きこもったまま仕事が完結する作家という職業だから、ここまで外出自粛を徹底できている。三十四歳という年齢からすると、新型コロナウイルスに感染しても大事に至る確率は低いらしいが、用心するに越したことはないし、きつめの風邪ぐらいの症状で済むとしても、罹患するのは真っ平ごめんである。
四月七日に政府が緊急事態宣言を発した時は、蟄居を自分にとっては好機と捉えて執筆に専念し、懸案の書き下ろし長編を一気呵成に仕上げよう、と誓ったのだが――五カ月かけても果たせていない。
途中で長めの短編の締切が挟まっていたせいもあるが、世界中が異常な事態に陥ったことで調子が狂ってしまったらしい。甘っちょろい話で、何の落ち度があったわけでもないのに経済的危機に直面している飲食・観光といった業界の人たちの前ではとても言えない。
どうにか態勢を立て直しかけているが、今一つすっきりしないので、気分転換のために旅に出ることにしたのだ。といっても、政府が実施しているGoToトラベルなる観光客優遇政策に乗って遠出をするわけでもない。遠方への旅行は新型コロナの感染が終息してから心置きなく楽しむとして、今回の目的地はごく近場だ。いや、目的地すらなくて、ただ大阪市の輪郭の一部を撫でて戻ってくるだけなので、実態は旅というより移動に近い。
久しぶりの天王寺駅。五月二十一日に大阪で緊急事態宣言が解除されて以降、感染者数はしばらく落ち着き、街の人出はかなり恢復したとはいえ、行き交う人の数は明らかに少なかった。海外からの旅行者が消えたので、キャリーケースを引いて歩く人の姿もない。
マスク、マスク、マスク。
奇態な風習が蔓延したかのごとく、誰もが顔の下半分を隠している。
厚生労働省が発表した二〇二〇年八月二十八日の新型コロナウイルスによる死者は一二五四人。感染の第二波は鎮静化しつつあるが、じきに秋がやってくる。そして冬が。第三波が到来するのは目に見えている。
私は大和路線のホームに降り、区間快速をわざと避けて鶯色の普通列車に乗り込む。久宝寺駅までは各停でもわずか四駅。ものの十分だ。かつては広々としたヤードがあった久宝寺だが、現在は貨物の扱いがなくなって様相をがらりと変え、高層マンションが目立っている。
おおさか東線に乗り換えた。城東貨物線を旅客線に改良した路線で、大阪市の東側をなぞって新大阪駅に至る。奈良方面からの乗客は、この線の開通によって大阪市の中心部に入ることなく新大阪を目指せるようになった。全線開業は二〇一九年三月。今回企画したのは、用事もないのにそれに乗る、というだけのことである。ほら、旅というより単なる移動だ。
晩い午後という時間のせいもあってか車内は空いていて、〈密〉は回避できていた。電車が動きだし、初めて乗る線路に入る。学研都市線と合流する放出駅の近くまで、まっすぐ北へ進路を取った。いつもは電車に乗ると読書タイムだが、車窓風景を観賞するために乗っているのだから、今日はバッグから本を出すこともない。
右手の車窓には生駒の山並みが近く見え、左手の車窓は建物の間から大阪の市街地が遠望できた。ふだんとは違う方角からわが街が見られて面白い。太陽は高度を下げつつあるが、にょきにょきと聳えるビル群が夕陽で染まるまでは少し間がありそうだ。
絶景と言うほどでもないので、気がつくと意識がよそに飛び、ミステリのことを考えていた。昨今、人気を博している〈特殊設定ミステリ〉と呼ばれるものについて。
現実世界にはないモノやコトを取り入れつつ、あくまでも作中世界の物理法則やルールに則って論理的に事件が解決されるミステリのことで、多くの読者を獲得しているのは優れた作品が次々に発表されているからだ。おそらくミステリファンの幅を広げることにも寄与しているだろう。
SFやファンタジーとミステリの興趣を合体させた作品は従来から書かれてきたが、この頃はやりの作品の特殊設定は千差万別で、超能力やタイムマシンが存在したり幽霊や吸血鬼が実在したりという次元に留まらない。作中で極めて特殊な法則で時間が流れていたり、生死の境が無効になっていたりで、奇想の博覧会の様相すらある。そんな設定を巧みに利用して謎解きが行なわれるから、読者は新鮮な驚きが得られるわけだ。
私は、〈ミステリはこの世にあるものだけで書かれたファンタジー〉と捉えている者で、特殊設定ミステリは好みの中心から外れてはいるが、よくこんなことを考えつくものだ、と感嘆しながら楽しんでいる。
SFやファンタジーとミステリを合体させたというよりも、ゲームとミステリを掛け合わせる感覚で書かれるのかもしれない。採用されるのは一度限りのルールで、「どうしてそんな法則が発動するのか?」「何故そんなものが存在するのか?」の説明はないのが普通であり、読者もそれは所与の前提として問うことはないし、作中人物はそんな世界に生まれ落ちたことも多く、「なんでこんなことに」とくよくよ悩んだりもしない。
純粋なゲーム空間の中で、いちいち悩まれても鬱陶しいだろう。特殊な状況を通して小説として思弁的なテーマを織り込んだ作例は知っているが、私が読んだ範囲では、「この世界の意味は何だ?」「どうしたらこのルールを破壊できるのか?」と作中人物が奮闘するものは思い出せず、誰もがゲーム空間を受け容れていた。本格ミステリらしい潔さであるが ――
ふと思う。特殊設定ミステリが歓迎されているのは、作中の世界がどこまで特殊であろうと、むしろ突拍子もないものであればあるほど、作者が懇切丁寧にルールを説明してくれるからではないか。説明に遺漏があったら大変だ。読者から「ソレができないのにアレはできるのか。恣意的だな。作者がやりたい放題ではないか」とクレームがつくのは必至である。よって作者は曖昧さを排し、隅々まで見通せるように物語世界を描かなくてはならない。
翻って現実世界はどうか。社会は複雑さを増し、科学技術は進歩するほどにブラックボックス化が進んで、私たちの見通しは悪くなるばかり。世界的に格差の拡大や固定化が問題となって、近年の日本では上級国民・下級国民という嫌な言葉も生まれた。どの階層に属しているかで法律を破った時の処遇も変わるとなれば、ルールなどあったものではない。こんな世界こそ、理解困難な特殊設定でできていると言えるのではないか。
そこへもってきて、今度のコロナ禍だ。中国・武漢で発生した新型コロナウイルスは未知のもので、治療法やワクチンが開発されていないどころか、まだその全容が明らかになっていない。さらにいつどこでどんな変異を遂げるかも判らず、さながらジョーカーのごとき存在となって、人類が営々と築いてきた社会を毀損し続けている。呪わしいウイルスは、その設定が不明。
特殊設定ミステリが歓迎されている理由は、現実世界が特殊設定化していることも一因に思える。こんな世界より、いかに歪であっても確たるルールが確立した物語世界の方が受容しやすく、かえって安らげるかもしれない。
などと雑考しているうちに電車は左に大きくカーブして学研都市線に乗り入れたかと思うと、京橋駅の手前で再び元貨物線の新線に進入して頭を北西に転じる。淀川を渡り、新幹線の高架橋をくぐり抜け、新大阪駅に着いた。
出版社のパーティが中止となったため東京に行く機会もなくなり、新大阪駅に足を踏み入れたのも今年初めて。やはりいつもとは様子がだいぶ異なり、人が少ないため駅全体が静かだ。夏に東京と大阪を行き来した編集者から、新幹線のホームの売店はすべて閉まっていると聞いた。
構内にあるエキマルシェの店は営業していたので覗いて回り、書店では棚も平台もじっくり見てから文庫本を何冊か買う。たったそれだけの買い物で、いくらか気分が晴れた。あちこちの飲食店からいい匂いが漂ってきていたが、夕食には早すぎる。とりあえず梅田に出ようか、と京都線のホームに降りた。
また淀川を渡って大阪駅へ。新大阪駅の構内でのんびりしていたため存外に時間が過ぎており、西の空が夕陽で眩しい。私は改札を出て、五階にある時空の広場で佇み、ガラスのフェンス越しに夕焼けを眺めた。うちのマンションからも夕陽はよく見えるが、ここからのものはスケールが段違いに大きい。
九月初めの落陽が放つ光は強烈で、各ホームを覆う蒲鉾形の屋根も、複雑に絡みながら西――地図に当たって正確を期すと南西――へ延びる幾本ものレールも、その先に見える超高層ビルのガラス窓や壁も、黄金色にギラギラと輝き、今にも発火しそうだ。全身を灼かれながら入線してくる電車は、火炎地獄から逃れてきたかのよう。かと思えば、そちらに向けて進撃していく電車もある。上空に残った淡い青色が、夕陽との対比で爽やかなこと。
この駅が大改修によって現在の形になってすぐに、私はこんな夕景が出現したことに驚いたのだが、傍らを行く人は関心がなさそうに見えたし、テレビで新しい駅舎が紹介される場合も、言及されることはなかったように思う。職場や学校や家庭で、「うん、あれはすごいね」とみんな話題にしているのだろうか?
周辺に立つビルの屋上展望台や高層階のレストランからの夕陽が美しい、とは聞く。しかし、そんなところに上がらずとも、駅構内で足を止めれば、負けず劣らずの風景を目にできる。なんでもない日常にこんな恩寵が紛れ込むから、現実世界も油断がならない。
「有栖川さん」
ぼおっと立っている私に、誰かが呼び掛けてきた。聞き覚えのある声だな、と思いながら振り向く。
「こんなところでばったりお会いできるとは。いつものような雑踏だったら気がつかなかったかもしれない。――お久しぶりですね」
東方新聞社会部の因幡丈一郎が立っていた。マスクで口許は見えないが、垂れ目が愛想笑いで糸のように細くなっている。外を飛び回ることが多いだろうに色白の記者だ。名前と結びつけて〈因幡の白兎〉と呼びたいほどなのだが、その顔が今は夕陽の色に染まっていた。
取材でしつこく絡んでくるので初対面の時から好印象を持てないでいる。とはいえ彼は彼なりの職業意識で動いているのだし、節度を示してくれたこともあるので、丁寧に挨拶をした。
「お久しぶりです。お仕事の帰りですか?」
「いえいえ。こんな時間に家に帰らせてくれる仕事ではありませんよ。あっちからこっちへ、と走り回っている途中です。――有栖川さんの方は?」
「短い旅から帰ったところです」
「にしては軽装ですね。近場にいらしていたんですか?」
旅などと洒落て言ったのがまずかった。「実は」と説明しなくてはならない。
「息抜きの外出でしたか。最近もずっとお宅にこもりっきりですか?」
「ええ。おかげで仕事をするしかない毎日です」
自然と立ち話になった。好印象を持てない人物に出くわした、と思いかけていたが、他人と顔を合わせてしゃべる機会が激減しているので会話に飢えていたらしく、人恋しさが慰められる。
因幡はソーシャルディスタンスを保ち、私から二メートルほど離れて立っていた。ここで二人が同時に拳銃を抜き、相手に銃口を向けたら香港製アクション映画だな、とつまらぬことを思う。私が決死の潜入捜査をしていた刑事で、彼がマフィアの首魁。燃える夕陽を背景に、いいシーンにならないものか。
「火村先生はどうしておられますか? 英都大学も全面的にオンライン授業を行なっているようですね」
「当初は苦労していたようです。まだ夏休みが明けていませんけれど、後期の準備で忙しくしてるかもしれません」
「フィールドワークの方は?」
やはり訊いてくるか。これは雑談ではなく取材だ。
大学時代からの友人であり、犯罪社会学者の道に進んで母校の准教授となった火村英生は、京阪神の警察に協力して犯罪捜査にあたることをフィールドワークにしている。いわば〈臨床犯罪学者〉。そんな彼に社会部記者の因幡が関心を寄せるのは無理もない。火村と警察がどういう関係でつながっているのか、准教授は具体的にどんな助言をしているのか等々、知りたくて仕方がないようだ。助手として火村と行動を共にする私からも吸い出せる情報があるのでは、と隙あらばすり寄ってくる。
「外出は極力控えているみたいですよ。詳しくは知りません」
「有栖川さんにお声が掛かることもない?」
「すっかりご無沙汰しています。春以降、一度も会っていません。彼に関する最新情報は持ち合わせていないわけです」
「せっかく有栖川さんとばったり遭遇できたのに、残念ですなぁ」
〈ばったり遭遇〉は重言だし、〈遭遇〉というのはよくないことに出くわすことが本来の意味だろう、と突っ込みたくなる。正しい日本語を使うために記者ハンドブックというのを持っているはずだ。
「しかし、あの火村先生のことだから、腕が疼いているでしょうね。自粛を解きたくなる頃では? 警察も捜査協力の要請を遠慮してきたようですけれど、最近はコロナの感染拡大もひとまず落ち着いている。事件の現場にお誘いしたがっているかもしれません」
「どうなんでしょうね」と応え、私はそろそろ話を打ち切りかける。人恋しさは消えていた。
因幡が両手を後ろにやって、体を西に向けた。芝居がかった動作で、どうしたのかと思った。
「ここから眺める夕陽は最高です。有栖川さんもご存じでしたか? さっき立ち止まって見ておられましたが」
そう言って彼は、私のシンパシーを引き戻す。嫌いにさせてくれない男だ。
「夕陽の名所だと思っています。意見が一致しましたね。……ああ、もう沈んでしまう」
部屋で担当編集者と電話をしていた時、毒々しいまでの強烈な夕焼けを見たことがある。「すごいんですよ」と東京にいる相手に興奮を伝えた後、あまりの凄絶さに不吉な予感を覚えたのだが――数日後の未明、火村と私は他殺死体と〈遭遇〉し、『朱色の研究』とでも題したい事件にぶつかった。今日見たのはあれほど妖しい夕陽ではないが、かつての異様な日没を思い出させた。
「東大阪市内のマンションで男が殺された事件があります。死体が見つかったのは八月二十八日。五日前です」
因幡が唐突に言うので、反射的に顔を見た。真剣な目をしている。
「ニュースで聞いた気がします。それが何か?」
「被害者は、頭を鈍器で殴られていました。凶器は現場にあった御影石の置物。犯人は殺害後に死体をスーツケースに詰め、クロゼットに押し込んでいました。推理小説に出てくる鬼面人を驚かすといった要素は皆無で、こう言ってはなんですが、よくある平凡な事件ですよ。ところが、この捜査が難航している」
「五日経っても、目鼻がつかないんですね?」
彼がぽんと投げてきた話に、われ知らず応答していた。
「捜査員に食い下がって様子を探ったら、そのようですね」
「押し込み強盗という線は?」
「否定されています。室内に物色された跡はなく、被害者の所持金にも手がついていませんでしたから。捜査本部は顔見知りの犯行との見方を固めていて、疑わしい人物が浮上しているらしいんですけれど、そいつが犯人だと絞り切れない。大きな壁があるらしい」
「なるほど」とでも応えるしかない。
「そんな具合で、厄介な事件になりかけている。担当しているのは船曳班です」
大阪府警にあって、これまで幾度となく火村にフィールドワークの場を与えてくれているのが船曳警部だ。私もよく知っている。火村が何度も事件解決の手助けをした警部とも言える。
見事なスキンヘッド――どこまで攻めて剃っているのか、攻めずにそうなっているのか実は不明――で、太鼓腹にサスペンダーと、トレードマークが多い人でもある。あの警部に会ったのも随分と前のことになる。
「これは私の直感ですが」因幡の目が細くなる。「そろそろ火村先生の許に応援要請の電話が入るんじゃないでしょうか。ひょっとしたら、有栖川さんが聞いていないだけで、もうかかってきているのかもしれませんよ」
「どうなんでしょうね」同じ言葉をさっきも使った気がする。「まだ死体が見つかってから五日しか経っていないそうですし、もしそんな要請がきても、あいつは断わるんやないですか。自粛を解除するとしても、まず地元の京都府警への協力からでしょう」
「ふぅん。やっぱりそうですかね」
案外、あっさりと退いた。直感というほどのものもなく、私に鎌を掛けただけのようだ。
それにしても、この男は侮れない。大阪駅で出会ったのは偶然だとして、折しも今夜、私は火村と連絡を取ろうとしていた。まるでそれを見透かしているかのようだ。このタイミングで「そろそろ火村先生の許に応援要請の電話が入るんじゃないでしょうか」なんて吹き込まれたら、火村に「ところで」と水を向けてしまうだろう。
因幡はまた両手を後ろに回して組み、今しがたまでとは違う気安い調子で言う。
「きれいですよ、有栖川さん。この季節では珍しい」
促されて、そちらを見た。
残照に彩られた空が、いくつかの層に分かれて染まっている。高いところは藍色から澄んだ青色へとグラデーションを成し、その下の層は緑色を帯びたラベンダー色、その下がピンク色、地上に接するあたりは白味がかった朱色という具合に。
見た覚えのない空だ。
色だけでなく、光が違う。黄昏の予兆が隈なく景色を包んでいるせいか、現実感が失われている。すべてをリセットするスイッチが押されたかのよう。
「写真家がマジックアワーと呼ぶやつです。いやぁ、不思議な感じですね。これは見事だ。魔法にでも掛けられたかのように、何もかもがきれいに映る。いつもどおりの風景なのに、まるで別世界だ」
美しくて、優しくて、どこか懐かしい。
世界はこんな貌も持っているのか、と私は見惚れる。言葉がなかった。
思いがけず因幡と感動を共有してしまったが、スマートフォンで撮影を始めた彼の横で、私は動かなかった。ことあるごとに写真を撮る、という習慣がないからだ。これは火村も同じだ。
「もっと美しくなりますよ」
因幡は自分の業を誇るように言う。私たちの他にも、立ち止まる者がちらほら現われた。今ならばカメラを向けてシャッターを押すだけで、さぞや幻想的な写真が撮れるだろう。
夕闇が降りてきて、夢のような光景をたちまち塗り潰していくのかと思ったら、魔法は思ったよりも効き目が長い。緩やかに色調を変え、明度を落としていきながら、小さな奇跡はなかなか去らなかった。
2
高柳は十階建ての賃貸マンションを見上げた。築十五年と聞いているから、管理が難しい時期に差し掛かっているのだろう。オーナーの富井氏は来年中に外壁の塗装をし直すことを予定しているという。
エントランスアーチには片仮名の金文字で〈トミーハイツ〉。高台にあるでもないのにハイツと名乗るのは、オーナーの自由だ。管理人室や駐車場・駐輪場がある一階以外は各階に八室で、全七十五室のうち六十三戸に入居者がいる。稼働率八十四パーセント。
顎を引くと前髪がはらりと落ちて、両目にかぶさった。美容室に行くタイミングを逃したまま、この事件にぶつかってしまったのを彼女は悔やんでいた。少しでも困っている業界の力になりたくて、〈爆笑ライブ コロナをぶっ飛ばせ〉を優先させたせいだから仕方がない。
右隣に目をやれば、外壁の再塗装工事が完了して間がなさそうな〈マッキービル〉。こちらは十一階建ての雑居ビルで、築年数は〈トミーハイツ〉と似たようなものか。一階は中華料理店が入っており、〈テイクアウトあります〉と張り紙が出ていた。
フェンス一枚を隔てて寄り添っている二棟は兄弟のようだが、土地の境界が原因でオーナーの富井氏と松木氏は不仲らしい。トミーとマッキー。ネーミングのセンスが似ていて名前もコンビが組めそうな取り合わせなのだから、仲よくすればいいのに、と漫才好きの刑事は思った。
〈モノづくりのまち東大阪〉らしく界隈には町工場が多く、倉庫や大小のコインパークも目立つ。広い通りから二本奥まっていることもあり、夜間はぱったりと通行人が絶えるであろう、と容易に想像できた。
まだ九月の初めだが、陽が短くなっているのを感じる。五時にならないうちにもう太陽が低い。
風に乗って、背後と右手から車の走行音が物憂く聞こえていた。東西に走る阪神高速13号と南北に延びる近畿自動車道からのものだ。工場の機械音もしているが、これはまもなく止まる。
いくら外観を眺めていても、事件解決の手掛かりは得られない。高柳はアーチをくぐって、〈トミーハイツ〉の中に入った。オートロックではないが、エントランスホールの天井には防犯カメラが設置されている。古い型で解像度はあまりよろしくないものの、出入りする人間の顔がぼけていたりはしない。
入ってすぐ左手の管理人室に、人の影がある。「こんにちは」と声を掛けた。
「ああ、高柳さん。ご苦労さまです」と応えたのは、黒いベレー帽をかぶった管理人の染井だ。初老の洋画家のようだが、銀行を退職して再就職したばかりだと聞いた。彼女の父親の世代にあたる。
初動捜査の時に事情聴取をしたので、顔見知りになっていた。あらためて警察手帳の記章を出して見せる必要もない。
「現場で確かめたいことがあるので、鍵をお借りできますか?」高柳は腕時計を見て「染井さんがお仕事から上がる五時までにお返しにきますので」
「かまいませんよ。ちょっとぐらい過ぎても」と言って、管理人は快く鍵を貸してくれた。
礼を言って、一基だけのエレベーターを呼ぶ。ボタンを押す時は指の腹ではなく、用心のため爪を使った。
エレベーターの中にも防犯カメラ。この映像も画質はよろしくない。とっくに減価償却が終わっていそうだから新しいものに替えた方がいいですよ、とトミーを指導したくなる。
五階で下りれば、目指す508号室はすぐ目の前だ。規制線の黄色いテープで封印された犯行現場。今は誰も張りついていない。解錠し、室内に踏み入った。
――まだ臭う?
窓を全開にして空気をすっかり入れ替えたはずなのに、腐臭が残存しているように思えてならない。錯覚にすぎないのかもしれないが。
入ってすぐ左手にトイレと浴室、右手に四畳半ほどの洋室。奥にLDKと寝室という間取りだ。徹底的な捜査が行なわれた後で、今さら新たな証拠が見つかるとは思えない。それでも足を運ばずにおれなかった。思考の盲点に入って見落としていることに気づくかもしれない、と期待して。
被害者は自炊を苦にしない男で、冷蔵庫の中身はお茶やビールといった飲み物だけ、というタイプではなかった。キッチンも調理器具もよく使い込まれている。カップ麵などインスタント食品も大いに活用していたらしく、買い置きがたくさん残っていた。コロナに感染することを恐れ、外出を極力避けていたせいもあるのか。
リビングのテーブルとソファは簡素なもので、テレビの型も旧い。テレビよりパソコンに親しんでいたわけでもない。被害者はパソコンを持っておらず、何でもスマートフォンで済ませていたという。
――ここ。まさにここが現場。
遺体詰めスーツケースが見つかったのは寝室のクロゼットだが、被害者が鈍器で殴打され、絶命したのはリビングだというのが鑑識の下した結論だ。フローリングの床に残った微量の血痕その他から総合的に出されたもので、まず間違いはないとのこと。
凶器となったのは、御影石でできた臥龍の像。犯人は龍の首を握って振り下ろしたと見られる。その台座が被害者の頭蓋骨を陥没させ、脳挫傷による死に至らしめた。
ドアや窓に異状がなく、被害者が犯人を招き入れたらしい点。手近にあった置物が凶器になっている点。この二つから推して、顔見知りの人間による発作的な犯行であるとの見方が有力だ。
――喧嘩になってガツンと殴った? それにしては揉み合った形跡がない。
口論ぐらいはあったのかもしれない。その中で、被害者が犯人の逆鱗に触れる言葉を発したとしたら? 被害者は自分の言葉の重大さに無自覚で攻撃を予想できず、犯人に隙を見せたところで一撃を食らった――というふうに高柳には見えた。捜査本部の大方の見解でもある。
そうであれば、被害者の交友関係を洗っていけば犯人にたどり着くはずだ。それなりに濃密な間柄であったからこそ起きた事件に思える。
探すと疑わしい者がいた。いたが、自分は事件と無関係だと言い張っている。犯人と決めつける根拠もなく、アリバイを主張され、捜査は停滞していた。遺体が発見されて、今日で六日目である。
まだ六日目とも言えるが、犯人の目星がついた上で証拠固めに苦労しているのではない。容疑者が犯人なのかどうか、本部でも意見がまっ二つに分かれていた。
ソファの脇のラックに、ここの住人の志向を語るものがあった。とある宗教団体が発行・配布している書籍・雑誌とパンフレット類が、〈完全なる瞑想〉へと誘っている。被害者は、この教団が創案した独特の呼吸法に凝っていたのだ。
しかし、印刷物やスマホの動画をテキストに独習していただけで、教団が催すイベントに参加した形跡はない。複数の知人の証言によると「お布施させられそうで怖いから」だそうだ。スマホの通信履歴を見てもそれらしい記録は一切なく、容疑者リストに教団関係者は含まれていない。もとより瞑想普及会といった趣の平和な教団で、別段、怪しい団体ではなかった。
瞑想に凝っていた被害者はシンプルな生活に憧れていたのだろうな、ということは各部屋を見ただけで知れる。リビングだけでなく、どこも物が少なくてさっぱりしたものだ。寝室などベッド以外に何もない。遺体が詰まったスーツケースが発見されたクロゼットも、客用だか予備だかの布団の他には衣類の入った段ボールが数個あるぐらい。
スマホが顫えた。誰からの架電かを確かめてから出る。
「森下です。コマチさん、今どこですか?」
後輩の声。何の用事があってか、自分を捜していたらしい。
「現場。ふらっと見に」
コマチこと高柳真知子は軽い調子で答えた。
「そんなことかな、と思うてました。僕も行きます。近くにいてるんで」
現場に立ち寄っているのだろうと推量し、すでに近くまできている? 船曳班最年少のはりきりボーイも勘が鋭くなったものだな、と感心した。
五分と経たないうちにドアホンが鳴った。ああ、鍵を掛けたままだった、と彼女は開けてやる。
聞き込みの際も、年齢を問わず女性から「ドラマの刑事さんみたい」と評されることが珍しくない森下恵一の入場。先日は、マスクをしていても「目許が爽やか」と言われていたので、横で聞いていて噴き出しそうになった。刑事が爽やかさを褒められても仕方がない。場合によってはなめられる。
本人は愚直なまでに仕事熱心で、ポカもやらかすが二十代前半で捜査一課に引き抜かれただけに筋はいい。自分と同じく阿倍野署からスカウトされた、という点でも親近感があったし、彼から姉貴分として慕われているのも感じていた。
「また単独行動ですか。最近、多いですね」
開口一番、彼は言った。
「とっておきのネタを独り占めしようとしてるわけでもないよ。現場にそんなもんが落ちてるはずないでしょ」
刑事も漫才師と同じだ。大切なのはネタ。外を回ってどれだけ重要な情報を摑んでくるか。ネタという言葉に馴染みがあるのは、小説家もか。
「相方はどうしたんですか?」
「捜査の効率を考えて別行動。喧嘩したわけやないよ」
相方とは、捜査本部が設置された布施署捜査一係の飄々とした巡査部長だ。二時間ほど前に別れ、今頃どこで何を調べているのかは知らない。別々に動くことを提案したのは高柳だが、それは相方も望むところのようだった。よい意味での刑事臭さをまとった刑事だから、これ幸いとサボってパチンコ店に向かったのではあるまい。
「どうして私を捜してたの? 君こそ相方は?」
訊かれた森下は、けろりとしている。
「残暑の中でがんばりすぎたせいかダウンしてしまいました。熱中症というほどではないんですけど、布施署に戻って休んでます。僕一人になったら現場を踏みたくなって、そこで虫の報せです。もしかしたら、コマチさんが行ってるんやないか、と」
「おお、凄腕刑事。気持ちが悪いぐらい冴えてたね」
「種を明かすと、昨日の捜査会議の後、コマチさんがぶつぶつ言うてたからですよ。『現場が見たいな』って。変な顔をしますね。無意識のうちに言うてたんですか。――で、何か気がついたこと、ありました?」
「ちょっと覗いただけで大発見があったら苦労はないね」
二人して、あらためて室内を見て回ったが、高柳が得られたのは、気が済んだ、という感覚だけだった。
「スーツケースに遺っていたあれは、関係ないんでしょうか?」
部屋を出ようとしかけたところで森下が言う。捜査陣の誰もが気になっている点だ。
「関係ないとは言えないでしょう」
「犯人のものですか?」
「近いうちにはっきりするんやない」
「そうやったらええんですけどね。なんか長引きそうな嫌な予感が……」
「長引く、か。君がそう思うのもコロナの影響かもね。マスクと縁が切れるまで、だいぶかかりそうやから」
密閉・密接・密集の〈三密〉を避け、人とは充分な距離を取って接する。漫才のライブを以前のように楽しめないだけでなく、捜査もやりにくくてかなわない。
だいたい捜査というものは、この三つの密の中で為されるものではないか。人の耳がない狭いところで関係者から濃密な事情聴取を行なったり、重要な証言をしてくれる者を求めてできるだけ多くの人間に会ったりするのが欠かせない。
「なんでもコロナのせいにしたら、コロナも気を悪くするんやないですか。今回の事件については、〈海坊主〉と鮫やんも楽観してませんよ」
班長たるスキンヘッドの船曳警部と、森下に愛情ある厳しさで接している鮫山警部補のことだ。
「うん、まぁ。楽観できる状況ではないね」
玄関のドアを前にして高柳が足を止めると、さらに後輩は言う。
「あのお二人も嫌な予感がしてるんですよ。『相談してみるのはどうでしょう?』『あかんかもしれへんけど、打診してみよか』とこそこそ話してました」
「相談してみるって、誰に?」
「言うまでもないでしょう。火村先生ですよ」
「先生は蟄居閉門してるやないの。大学の講義はリモートやし、下宿の大家さんがご高齢やから気を遣うて外出は最低限に抑えてるって聞いてるよ」
「それは四月、五月の話です。だいぶ感染状況が落ち着いてきてるやないですか。外食しよう、旅行しよう、って政府が莫大な予算を組んでキャンペーンをやってるんですよ」
「火村先生はGoTo殺人現場? どんな反応が返ってくるやろ」
「GoToフィールドワークです。先生が犯罪捜査に加わるのは研究のためですから、こっちが声を掛けるのを待ってはるんやないですか?」
彼女は人差し指を立て、後輩の胸許に突きつけた。
「そこ、同意。デートのお誘いみたいに待ってそう。ほんまは現場に立ちたがってると思う」
「ね? 火村先生とも有栖川さんとも、今年に入ってから一回も会うてない。そろそろ顔が見たいなぁ」
「サークル活動みたいに言うてるんやないよ。――それで、鮫山さんはアクションを起こした?」
「もう電話してるかもしれません」
大学が夏季休暇中とはいえ、急に言われたってすぐには動けないだろう。しかし、二、三日後には犯罪学者とミステリ作家に会える予感がした。
3
「顔を見ながら話せるいうんは、やっぱりよろしいなぁ。便利な時代になったもんやわ」
パソコンの画面の中で、篠宮時絵婆ちゃんが笑っている。オンラインの通話でもマスクをはずさないのは、傍らに火村がいるからだ。大家さんとたった一人の店子――学生時代からの――が、一つ屋根の下で互いを気遣いながら生活しているのが窺える。
「こちらこそ、お元気な顔を見られて安心しました」
血色がいいし、声にも張りがあった。友だちとも会えず不自由な毎日だろうが、車での買い出しなどで火村がしっかりサポートしているらしい。
「有栖川さんと長いこと会わんうちに齢とってしもうた。ああ、齢とってるんは前からか。ほほ」
二十歳の頃から火村の下宿に顔を出しているので、私と婆ちゃんも十四年来の知己だ。当時の彼女はまだ還暦を迎えたばかりだったのに、下宿生たちから親しみを込めて〈婆ちゃん〉と呼ばれていた。老けて見えたからではなく、むしろ若々しかったからついた仇名だ。当時、初孫が生まれて自ら「私は、もうバアちゃん」と称していたのだ。
「有栖川さんからも火村先生に言うてくれはるかな」
〈火村君〉は、准教授になった時点で〈火村先生〉に変わった。
「何をです?」
「警察の捜査に出たらええんやで、と。先生、私に遠慮して部屋に引きこもったままで、外へ出たがってはるはずや。京都府警から電話で相談を受けて、なんや見事なアドバイスをしたりしてはったけど、大阪でも神戸でも出向いたらええ。行っといなはれ。私ら、ふだんから充分気ぃつけて暮らしてるよって大丈夫。言うてあげてな。ぼちぼち代わりまひょか。――ほな、お元気でね。お仕事がんばって」
時絵さんが画面を去り、火村が現われた。彼の部屋に婆ちゃんを呼んで、私と話をさせてくれていたのだ。
オンラインでやりとりするのはひと月ぶりだが、変わった様子はない。理髪店から足が遠のいているのか、若白髪まじりの髪がいつになく伸びたぐらいだ。
「婆ちゃんが元気そうでよかった。君も変わりないみたいやな」
准教授はマスクをはずした。
「有栖川先生も息災のご様子で。執筆やつれはしていないようだな。捗ってるか?」
「牛の歩みやけど着実に前進はしてる。――京都府警からの相談を受けたりはしてるんやな」
「現場に出られない旨を伝えたら、南波警部補が研究室まで資料持参でやってきた。『見事なアドバイス』ってほどのことはしていない」
対面での講義がなくても、研究室には出入りしているようだ。
「酒の肴に聞きたい。どんな事件やったんか」
私はノートパソコンをリビングに持ち出してソファによりかかり、テーブルの上に缶ビールを置いて通話していた。
「聞いたってミステリの題材にもならないぜ」
「何を今さら。ネタには困ってないし、君のフィールドワークを俺が意地でも小説に書けへんのは知ってるやないか」
ビールをグラスに注ぎ、話すよう急かす。
「面倒くせぇな。『オンライン授業はどれくらい準備が大変ですか?』とか訊いてくれないのかよ」
「そんな話は、わざわざ臨床犯罪学者から聞かんでもええ。事件の話を」
「じゃあ、お前が喜びそうなところだけご紹介するよ」
府下のさる民家で傷害事件が発生した。被害者は意識不明の重体に陥ったが、幸いにも命は取り留めた。ところが頭を殴られたせいで記憶に一時的な障碍が生じてしまい、何者に殴られたのか証言できない。身内で相続上のトラブルを抱えていたことから複数の容疑者が浮かんでいた。
「夫婦二人暮らしの家で、事件当時、妻は日課のジョギングに出ていた。夫の方は、その前から自転車で近所に買い物に行っていたそうだ。帰宅した妻が、頭から血を流して倒れている彼を発見した」
妻は近隣の多くの人に走っている姿を見られていて、アリバイが成立しているとのこと。
「現場になった家の写真を見て、俺はまずこう言ったんだよ。犯人はオートバイに乗ってきたらしい、と。そうしたら、『あいつか』となって、そこから捜査が進み、警察が目をつけたオートバイの男の行動を調べ上げて証拠を摑んだ」
「お手柄や。火村英生の新たな功績か。何を見て、犯人がオートバイに乗ってきたと判ったんや?」
「犯行現場はリビングだったけれど、俺が引っ掛かったのはカーポートの写真だ。口で説明するのが面倒だな」
「何回も面倒と言わずに、そこは言葉で何とか」
火村の方は缶ビールの一つも用意していない。かわりに愛飲のキャメルに火を点け、ふっと煙を吐いた。
「被害者の男性は車を処分していて、ふだんはカーポートに夫婦の自転車が置いてあるだけ。夫が乗っていたのがロードバイク、妻は電動アシスト自転車。ロードバイクは奥の壁に立てかけてあって、電動自転車はその手前にロードバイクと直角に駐輪させることになっていた」
彼が煙草をふかす間に、私は言う。
「ロードバイクにはスタンドがついてないから壁に立てかけてたんやな。妻は、その出し入れの邪魔にならないよう、手前に縦に駐めてた、と」
「手前に縦に駐める際は、心持ち右寄りにしていた。右利きだったら駐輪させる時に自然とそうなりがちだ」
「細かいな」
「奥のロードバイクはいつも前輪を左に向けて壁にもたれさせる。だから、手前の自転車は右に寄せた方がロードバイクの出し入れがしやすい、という事情もある」
「いよいよ話が細かい。――んっ。奥のロードバイクがいつも前輪を左に向けて駐めてある、となんで決めつけられるんや?」
「右利きの人間なら、これまた自然とそうなるだろ」
「……なるな」
「ところが、事件直後に警察が撮った写真を見ると、前輪が右を向いていた。被害者しか乗る者がいないのに、いつもと違った駐め方だ。どうしたらそうなると思う?」
「気まぐれ……ではないわな。右利きの人間の駐め方として不自然なんやから」
「妻の自転車の左隣に何かがあったとしよう。買い物から戻った夫は、ロードバイクを押しながらその左横をすり抜けなくてはならない。奥の壁にもたれかけさせる際に前輪を左に向けようとしたら、手前の何かが邪魔で切り返しができず、右向けに駐めるよりなくなる。カーポートに何かあったのさ。何かとは何か? 別の自転車ならちょっと押すだけで移動させられる。そうしなかったのは、動かすには重いオートバイだったからではないか。ここは不確かだ。訪問者の自転車をちょっと動かすのが面倒だったので、そのままロードバイクを切り返さず奥まで押した可能性もあるけれど、オートバイと聞くなり南波さんが『あいつか』。――まぁ、そんなことがあった。その後のことは省略する」
いたってスケールが小さいが、宮本武蔵が涼しい顔で飛んでいる蠅を斬ったようなエピソードである。いや、武蔵は蠅を箸で挟んだのだったか。
「火村英生らしい近況報告やったわ。――ところで、オンライン授業は大変か?」
「取ってつけたように訊いてくれなくてもいい」
と言ったところで、彼の顔が真横を向く。画面の外から「行っといで」という婆ちゃんの声がした。階下から猫を連れてきたのだ。
「こいつらも元気にしているよ」
犯罪学者は、笑いながら茶トラの瓜太郎を抱き上げる。白黒の小次郎もやってきて、彼の背後をゆっくりと横切った。もう一匹の桃はどうしたのかと訊くと、彼女を雨の日に拾ってきた男は「どこかで寝ているんだろう」と答えた。
「三匹揃って見られへんのが残念や。オンラインで講義してる時、ちらっと猫が出演したりは?」
「厳粛さが失われるから、それはない」
「可愛い猫が映ったら、火村先生はますます女子に人気が出るやろうな。動物好きの男子の好感度もアップしたりして」
「そこまで猫の力を信じているのなら、お前も飼ったらどうだ。猫を抱いた著者近影を表紙にすればいい。タイトルは『猫は知っていた』とか」
「あかん。そういうタイトルの有名な作品がすでにある」
こういう他愛のない話を望んでいた。話題にしたくなかったので、因幡と会ったことは言わなかったのだが、それでもあの記者の言葉が気になって尋ねてしまう。
「大阪府警や兵庫県警から捜査協力のリクエストがきたら、どうする? 婆ちゃんは、『行っといなはれ』やったぞ」
抱っこはもういい、と瓜太郎がもがき始めた。解放してやってから、火村はまた煙草をくわえるが、火は点けない。
「六月頃からあんなふうに言ってくれているんだ。気をつけて動けば大丈夫かな、と思ってはいる。想像力さえ発揮すれば――」
「想像力とは?」
彼は黙って右手を顔の高さに上げ、しげしげと見つめる。何のパフォーマンスが始まったのかと思った。
「感染したくなかったら、ウイルスを含んだ他人の唾の飛沫を避ける。どこで誰と会うかを自由に決められたら、これはそう難しくない。注意を要するのは、ウイルスが付着したものに触った手指でうっかり自分の鼻や目に触れてしまうこと。こっちは想像力を使って避ける必要がある。目に見えなくても、これは汚れているんじゃないか、と想像してかわす」
「せやな」
彼は自分の手を見つめたままだ。
「人を殺した奴は、犯行の後で想像力を徹底的に駆使するだろう。『ここに触ったかな。血が付いているんじゃないか。服や靴はどうだ』とか『指紋は全部消したか。あそこも触ったんじゃないか』とかいう具合に。あれに倣えばいいのさ」
「たとえが不穏やな。ウイルスを避けるぐらい、わざわざ殺人犯になり切らんでもできるわ」
話が重くならないように、私は笑ってみせた。
犯罪学の道に進んだのは、十代の頃に人を殺したいと思ったことがあるから。その記憶が消せずに、人を殺して手が血みどろになっている夢にうなされる、と彼は言う。ひどい悪夢が続いた時は、階下で寝ている婆ちゃんから「心配やわ」と連絡が入ったこともあるが、その後は「治まってる」とも聞いた。厄介な友人なのだ。
人を殺したいという願望は珍しくもない。程度の差こそあれたいていの人間が持つものだろうから、どうして彼がそれしきのことに呪縛されているのかは判らない。そんな記憶があるから人を殺める者が赦せず、フィールドワークとして警察の捜査に協力して殺人者を狩る。厄介で、理解が難しい友人だ。
〈狩る〉というのは露悪的に響くが、彼がよく使う表現だ。〈はたき落とす〉と言ったこともある。犯罪そのものより、彼は犯罪者――端的に言うと人を殺す者を憎んでいる。殺人を犯した者がその罪を自らの命で償うのは当然だとも考えている。理由は、自分が人を殺したいと思ったことがあるから。
何故、そこまで過去に拘泥するのか? 殺意がとんでもなく激烈だったから。実行寸前まで行動を起こしたから。試みたが失敗に終わったから。色んなケースが考えられるが、いずれも違うように思う。問題は彼の精神の形にあるのだろう、としか私には言えない。
「二時間ほど前に、鮫山さんから電話が入っていた」
驚かずにいられない。因幡の予想したとおりだ。
「用件は?」
「電話に出られなかったんだ。『これから会議なので、こちらからまたお電話します。晩い時間になるかもしれません』というメッセージが残っていたよ」
晩い時間。今は九時二十分だ。
「執筆の手が止まるのは困るか、アリス?」
フィールドへのお誘いだろう、と火村も予想しているのだ。そして、私が行動を共にできるかを尋ねている。
「いや、締切が目の前に迫ってるわけでもないし、俺は大丈夫や。鮫山さんがかけてきたのがお召しの電話やとしたら、行こう。せやけど、最近の大阪では奇怪な殺人事件なんか起きてへんぞ。マンションの一室で独り暮らしの男が殴り殺された、とかいう地味な事件があったぐらいで」
「派手とか地味とか、そんな問題じゃない。奇怪でなくていい」
彼がライターの火を煙草に運ぼうとした時、スマートフォンの振動音が聞こえた。傍らに置いていたそれを、犯罪学者は素早く取る。
「ご無沙汰しています。先ほどは電話に出られず失礼しました」
事務的に応える火村の口許には、微かな笑みが浮かんでいた。
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