イナダシュンスケ|ファーストコンタクト晩餐会
第27回
ファーストコンタクト晩餐会
「料理は味が全て。うまけりゃいいんだよ」ということが世間ではよく言われますが、僕は主に料理を作る側の立場として、これは一見正論めいてはいるけれど、実際は暴論だと考えています。「うまけりゃいい」はその通りだとしても、じゃあそれはいったい誰にとってうまいのか。どういう時にどういう気分で食べたらうまいのか。
誰にとっても、いついかなる場面でもおいしいものなんて、世の中にそうそうはありません。単純な嗜好の違いもありますが、それ以上に、おいしさとはあくまで文化や文脈の上に成立する概念だからです。
じゃあ普遍的なおいしさっていったいどういうものだろう? 僕はこの疑問に、大袈裟でなく日々向き合っています。むしろそれが僕の仕事でもあります。
作り手はよく「自分が本当においしいと思えるものだけを提供しています」と言います。もちろんそれは誠実な態度、というか、作り手たるものそうでなければいけないと思います。もちろん僕も可能な限りそうするようにしています。
しかし現実問題、あくまで僕自身が一番おいしいと思うもの「だけ」を提供する店があったら、それは多分あっという間に潰れます。なぜならば、普遍性からの距離が大きすぎるから。都会で、かつ、ごく小規模な店なら、それでもなんとかなる可能性はあるかもしれませんが、それは針の穴に糸を通すようなものです。
とにかく、おいしいってどういうことだ、自分はどういうおいしさを提供すべきなのか、みたいなことを考え始めるとキリがなく、それは最終的に哲学とか観念論みたいな世界に至ります。こうなるともう仕事になりません。そんな時僕は、「これを宇宙人が食べたらどう思うだろう?」という想像をすることがあります。つまり、文化や文脈の共有を前提としない、普遍的なおいしさとはいったいいかなるものなのか、という話です。
SFの世界には、「ファーストコンタクトもの」と呼ばれるジャンルがあります。どこぞの星から宇宙人がやってきて、初めて我々地球人と接触する、そんな時のてんやわんやを描いたものです。そこで描かれる宇宙人は、機械生命体だったり形のない思念体だったりと、ブッ飛んだ設定であることもありますが、たいていの場合は一応人間っぽい姿形をしており、「ヒューマノイドタイプ」と呼ばれます。つまり、生物学的にはおおむね我々人類に似ているけど、根本的に異なる歴史や文化、価値観を持つ存在として描かれます。
映画『未知との遭遇』におけるファーストコンタクトは、穏やかで心温まる、幸福なそれでした。しかし『インデペンデンス・デイ』では、いきなりのっぴきならない事態に陥ります。『マーズ・アタック!』に至っては、物騒を通り越して、もはや滅茶苦茶です。
僕が想像するのは、とりあえず初手では平和的に話が進む流れです。そして僕は大統領に直々に指名され、そのヒューマノイドタイプ宇宙人との初の晩餐会の料理を任されるのです。いったい何を使って、どんな料理を出すべきか。責任は重大であり、僕は夜も眠れないほど頭を悩ませることになります。
現実世界の僕がお店で二ヶ月に一回内容を変えながら出している、極めてマニアックな内容のコースがあるのですが、それをそのまま出すのは絶対にダメです。あんなものを出した日には、晩餐会は阿鼻叫喚、即ニューヨーク上空に物騒な母船が下りてきて、訳のわからない怪光線が射出されます。先ずは自由の女神から木っ端微塵です。
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