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透明ランナー|「李禹煥」展――代表作から新作まで、現代美術界の巨匠の絵画と彫刻の“変遷”を楽しむ

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 1960年代から現在に至るまで、絵画と彫刻の両面で戦後日本の現代美術を牽引し続けてきた巨匠、李禹煥(リ・ウファン、1936-)。国立新美術館の開館15周年記念展として、彼の業績を振り返る大規模個展「国立新美術館開館15周年記念 李禹煥」が開催されています。

 李は韓国で生まれ、日本で文学や哲学を学んだ後、1960年代後半から本格的に絵画・彫刻作品の制作を始めます。初期には物質にほとんど手を加えずそのまま作品として提示する「もの派」の一員として活動。並行してカンヴァスに余白をとった水墨画を思わせる絵画「点より」「線より」シリーズを制作し、世界的に知られる存在となります。

 香川県・直島の李禹煥美術館(2010)、韓国・釜山の李禹煥スペース(2015)に続き、2022年4月にはフランス・アルルに彼の3つ目の個人美術館「Lee Ufan Arles」がオープンしました。近年ではニューヨーク・グッゲンハイム美術館(2011)やヴェルサイユ宮殿(2014)で個展が開かれています。国際的に高い評価を受ける李ですが、意外なことに国内での彼の大規模個展は2005年(横浜美術館)以来17年ぶり、東京では初となります。

 本展では李自身の構成により前半が「彫刻」、後半が「絵画」と大きく2つのセクションに分かれており、それぞれの変遷を時系列順にたどることができます。「彫刻」セクションでは彼が長年作り続けてきた石やガラスなどの素材を存分に活かした作品が並び、近年はステンレスなど新たな素材にも取り組んでいます。「絵画」セクションでは、当初は単色を用いていた画面が複数の色彩に変わり、空白の使い方がダイナミックになっていく様子を見ることができます。

 はじめ文学や哲学の研究を志していた李は、自身の作品に関する印象的な文章を数多く残しています。この記事では彼の豊富なテクストを手がかりに、「彫刻」と「絵画」それぞれの変遷を見ていきたいと思います。

国立新美術館開館15周年記念 李禹煥
関係項―エスカルゴ 2018/2022 石、ステンレス
国立新美術館の入口で最初に出迎えてくれる作品です。撮影:透明ランナー

 筆者自身も1960~70年代の日本現代美術について継続的にリサーチしており、李の作品に興味を抱いてきました。余談なのですが、昔通っていたゴールデン街のバーでよく「もの派」について話していたところ、ある日マスターに「近くのバーに李禹煥来てるらしいよ」と教えられ、30分ほど話す機会を得たことがあります。そのときのことを記事に入れようと思ったのですが、何を話したのかまったく覚えていませんでした(泣)。ただ、若造とも真摯に話してくれる優しくて紳士的な方だったことは記憶に残っています。


李禹煥の生い立ち

 李禹煥は1936年6月24日、韓国南部・慶尚南道(キョンサンナムド)の人里離れた地域で生まれました。父は満州、中国、日本を渡り歩きながらジャーナリストとして生涯を送り、母は韓国の古典小説に精通する文学一家でした。高校では新聞部で活動しながら韓国や世界の文学作品を読み漁ります。文学青年だった李は20歳の夏、変わったきっかけで日本を訪れます。横浜に住む叔父を見舞うため、漢方薬をこっそり携えて密航船で入国したのです。叔父の半ば強引な勧めでそのまま日本に残ることになり、1957年から日本語を学び始めます。

 「お前、日本の叔父がどうも具合があまり良くないらしいので、夏休みに漢方薬でも持って行ってあげないか」と言うので、「ああ喜んで」ってね。それで夏休みになった途端に、僕は釜山に行って密航船に乗って日本に来るようになった。これを機会にもう学校はおさらばしたい気持ちだったようですね。始めから、美大に行くとか、絵描きになるということはこれっぽちもないから。しかも高校の時に僕は詩や小説を書いてましてね。新聞に応募して文学やることが夢だった。
 ……夏休みだからちょっと行って帰ってくるっていうつもりで乗って来たんだけども、日本に来てみたらすぐ帰ることが出来なかったの。叔父はアカだったので、「お前は、李承晩の、あんな独裁の下で勉強してもろくなことがない。日本で勉強していきなさい」って、帰してくれないんですよ(笑)。


李禹煥オーラル・ヒストリー  2008年12月18日
中井康之と加治屋健司によるインタヴュー
日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ[1]
https://oralarthistory.org/archives/lee_u_fan/interview_01.php

 1958年に日本大学哲学科に編入し、ニーチェ、ハイデガー、そしてリルケの研究に傾倒していきました。1961年に哲学科を卒業してからも、大学の講義にもぐり込みながら学問への関心を持ち続けました。
 李が日本の美術界で本格的なデビューを果たしたのは、実は絵画でも彫刻でもなく美術評論でした。美術出版社の芸術評論募集に「事物から存在へ」を応募し、1969年に佳作入選します。

 李は最初から絵画や彫刻を志していたわけではなく、そのバックグラウンドは美術よりむしろ文学や哲学にありました。この関心はその後の哲学的な作風に繋がっていきます。

 ライナー・マリア・リルケが指摘しているように、「われわれはわれわれの意識のとった独自の方向と意識の高まりのために、世界の中にいず、世界を前にして立っている」(『書簡集』)のだ。自分は世界のもろもろの存在するものと関係し共にいるのではなく、世界の外に世界を前にして立つ認識者であり支配者であるという、それはいわば近代ブルジョワ自意識の自立精神を表すものだろう。

李禹煥『出会いを求めて 現代美術の始源』(みすず書房、2016)P.15

 彼は1960年代に南北朝鮮統一運動・軍事政権反対闘争に身を投じますが、社会・政治運動はどうも肌が合わないという思いを感じるようになります。この頃から次第に文学や哲学を離れて現代美術の世界に身を投じる決心を固めていきます。李がこの決断について「逃げ場」「挫折感」というネガティブな言葉を使っていることは注目されます。

 「何か心情的には、美術の方が逃避というか逃げ口、逃げ場としてそれを選んだという気持ちがあるんです」(李禹煥オーラル・ヒストリー、2008)
 「学問、文学、政治の世界での挫折感から逃げるように現代美術を選んだようなもの」(「李禹煥 余白の芸術」展カタログ、横浜美術館、2005 P.91)
 「絵は子供のときから習っていたし、言葉ができなくても表現可能な世界ですから、なんとかなるかもしれない」(『美術手帖』1983年3月号 P.127)

李禹煥と彫刻

 彼にとって大きな刺激となったのが、1968年に開かれた「Tricks and Vision―盗まれた眼」展(東京画廊・村松画廊)でした。ここで「もの派」の代表的作家となる関根伸夫(せきね のぶお、1942-2019)と出会います。

関根伸夫「位相-大地」1968 大地、セメント
©Nobuo Sekine, Photo by Osamu Murai
「もの派」のエポックメイキング的な作品。大地に深さ2.7m、直径2.2mの円柱型の穴を開け、掘り起こした土を穴と同じ形に固めて置いています。2008年には40年ぶりに「再制作」されました。

 もの派とはどのような動向だったのでしょうか。李自身はこのように説明しています。

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