イナダシュンスケ│僕は「その国の料理」が大好きなんです
第2回 食いしん坊のルーペは世界を覗く
食べることが好きです。
人間誰しも食べることは好きかもしれませんが、その中でも自分はいささか常軌を逸しているという自覚もあります。
なぜこんなことになってしまったのか。
いやそこには別段反省も悔恨も無く、何ならむしろ誇らしさのようなものすら感じているのですが、同時に「なぜ自分はそうなるに至ったのか」という単純な自問も常にあるというわけです。
それはおそらく「グルメ」というものとも違います。グルメというのは食べ物に対するある種の理想主義。自分の中にももちろんそういう要素が無いではないのですが、その理想主義が必然的に導く完璧主義、もっと言えば潔癖主義みたいなものとは縁遠いような気もしているのです。
話がちょっと観念的になりすぎたので、あえてものすごく嚙み砕いて言うと、僕はおいしいものが食べたいけど、おいしくないものも食べたいのです。もちろん、おいしくないものばかりを食べ続けるのは嫌です。金輪際嫌です。断固拒否します。でも、おいしいものばかりを食べ続けるのも、それはそれでけっこうつまらない。
なぜおいしいものだけでなくおいしくないものも食べ続けたいのか。それを考え始めると思考の迷宮に入り込んでしまいます。
普通に考えれば、「人生で食事の回数は限られているのだから、マズいものなんて絶対に食べたくない」なんていうグルメ的な潔癖主義の方が、はるかにわかりやすく、そして理にかなっています。基本的には僕もこの考え方に異論はありません。なのに同時に「しかしおいしくないものも食べたい」とも度々思うわけです。明らかに矛盾しています。少なくとも合理的な判断ではありません。
なぜそうなるのかについて、いくつか自分なりの仮説はあります。
食べることに対する欲が深すぎるあまり「おいしいもの」だけでは飽き足らず「おいしくないもの」にもついつい手を出してしまう、という『強欲説』。ある人にこの話をしたら、「それは強欲と言うのではない。スケベと言うのだ」と返され、ぐうの音も出ませんでした。
別の説もあります。かつて苦手だった食べ物が、あるきっかけで好きになったという経験が少なからずあるのです。そして往々にしてそれは、もともと好きだったものより自分にとってむしろ大事なものになる。今「おいしくない」と感じているものに対しても、いずれそうなる可能性を感じているのはあるかもしれません。『先行投資説』です。
まだあります。人の好みはそれぞれですから、僕にとって「おいしくないもの」であっても、他の誰かにとって、それは「おいしいもの」であるはずです。自分が理解できない良さを知っているその人のことが羨ましくなることがあります。羨ましさを通り越して悔しさすら感じることもあります。だからその良さを自分も知りたいと思う。これが『嫉妬説』です。
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