見出し画像

【4夜連続公開】朝倉かすみ「よむよむかたる」#010

まちゃえさん夫妻の息子・明典に、かつて何が起きたのか。美智留は彼と過ごした青春時代について語り始めた。

▼第1話を無料公開中!

#009へ / #001へ / TOPページへ / #011へ

 マンマがそうしたように、やすこぶしを突き上げてみせた。口角を思い切り上げて拍手すると視線を合わせたまま、その手を下ろし、胸にあてがう。「控えめに言って」と前置きし、
「こころがふるえた」
 と目を細めた。同じ目をしてうなずく美智留に浅い笑いを返して言う。
「六月に読んだ課題本の文章がパワポみたいに浮き上がってきた。ぼくはこぼしさまの国の番人を引き受けよう、ってやつ」
 正確には、と安田はカウンターの下の引き出しに入れていた『だれも知らない小さな国』を美智留に取ってもらい、読み上げた。
「ここをだれにもおかされないこぼしさまの国にしてやるのだ。そして、ぼくはその国の番人をひきうけよう。そうすれば、こぼしさまも安心して出てくることだろう」
 ね、というふうに美智留を見た。
「いいんじゃなーい」
 美智留はとても簡単にあいづちを打ち、
「こぼしさまが安心して出てこられるお手伝いができるって、アナタ、とっても」
 とほおづえをつき、「いいネ!」とサムズアップしてみせた。安田も親指を立てる。ちょっと力んでいた表情がヘラッとした照れ笑いに流れ、ふと、きつシトロンをこっそり覗きにきた文学館の事務員さんを思い出した。あれも六月のできごとだった。
「そういえば」
 こんなことがあった、と、美智留にあらましを話した。ちょっとした珍事を披露するといった感じで、美智留のリアクションもそんなふうだった。安田としては事務員さんの強めなキャラをなるべく立たせないようニュアンスに気を配った。美智留と一緒に面白がりたい気分はなきにしもあらずだったが、それは、なんというか、いささかしなくだるように思えた。
 さざなみほどの笑いが治まり、美智留が訊いた。
「ちなみにその事務員さんの名は?」
「あーたしか聞いたはず」
 安田は美智留に課題本を入れていた引き出しを指差し、今度はノートを取ってもらった。ぱらぱらとめくり、走り書きを見つける。「あった」と独りごちて告げる。
いのうえさん」
 下の名前までは知らないけど、と目を上げたら、美智留は「ああ、そう」と応じた。「ああ、そう」ともう一度つぶやいてから、「さて」と腰を浮かして、「もうひやむぎ茹でていい?」と訊ねた。
 その言葉で安田のまぶたの裏に「冷麦のシーン」が鮮明によぎった。こどもの頃だ。お昼に冷麦を急いで食べて、「ごちそうさま!」と言うが早いかダッとどこかに出かける場面。「いってきます!」と靴を履き、つま先をトントンさせながら玄関の戸をガラッと開けたら、白くて明るい陽射しがいっぱいに溢れていた。わあっ、と目をつむり、太陽に顔を向けるようにして大きく口を開けると、そこにも陽射しが入ってきた。夏休みだ。喫茶シトロンをベースキャンプとし、美智留の冷麦で腹ごしらえを済ませてから、そこらを駆け回るのがほとんど日課になっていたような気がする。
「や、もうちょっと」
 安田は言った。頭の中には氷水に浸した冷麦の絵が浮かんでいた。タライのような大鉢に泳ぐ冷麦の赤いのと緑の。
「もう少し話したいことがあって」
 と続けたら、美智留は腰を下ろし、どうぞ、というような目の動きをした。

「……二十周年記念事業の話し合いを始めます」
 安田の声はまだ少しうわっていた。安田だけでなく、一同の顔つきも似たようなものだった。まだ肩で息をしているようすがある。なにしろマンマの放った、こぼしさまの新たな「読み」がこの場を席巻したばかりだった。どの人の目も潤んでいて、白髪交じりの短いまつ毛についた露玉がきらきらと輝いている。シン・こぼしさまとでもいうべき存在に魔法の粉を振りかけられたようだった。
「それとも、この勢いで後半の読みもやっちゃいますか!」
 安田が提案すると、「異議なし!」「やっくん最高!」などなど元気いっぱいの返事が拍手とともに沸き上がった。今日はまだ時間に余裕があったし、安田にはせっかく盛り上がった空気を逃したくないとの思いがあった。
 第三章の後半で〈ぼく〉は仕事で幼稚園に行き、小山で会った〈おちび先生〉と再会し、彼女もこぼしさまの味方になるかもしれないと考える。なぜなら、彼女も小山のふしぎさ(秘密ともいう)に気づいているようだからである。〈ぼく〉は小山周辺の地図を額に入れて小屋に飾った。地図には矢じるしが書き込まれている。小山を指し示していて、そこを〈ぼく〉とこぼしさまは「矢じるしの先っぽの、コロボックル小国」と呼び合うようになった。

「え待ってコロボックル?」
 美智留が割って入った。ああ、そうか、というふうに安田はうなずき、説明した。
「三章の前半で〈ぼく〉はこぼしさまにルーツを確認したんだ。で、こぼしさまの祖先はコロボックルらしいということが分かる。これを機会に『だれも知らない小さな国』でこぼしさまは『コロボックル』呼びとなる、んだけど、読む会では『こぼしさま』のまま進む」
「『旧こぼしさま』とかじゃなく?」
「じゃなく」
 というか、と安田はカウンターに両肘をついた。前腕をクロスし、息をつく。
「意気揚々と後半に入ったものの、またお通夜状態に逆戻りしてしまった」
 ついさっきまでの盛り上がりはどこへやらで、と頰をゆるめた。
「小屋を城と呼ぶとか、〈ぼく〉がこぼしさまにもらった短剣とか、『読み』が広がりそうなタネはいくらもあったのに、なんだかしんとしちゃってね、うん。ついさっきまでみんなの頭上で鳴り響いていたシン・こぼしさまの鐘の音がふっつり消えて、その残響がそれぞれの鼓膜を揺らしていて、なんにも手がつかないというか上の空というか、そういうこう——」
 言いあぐねていたら、美智留が助け舟をだした。
「エア・ポケット?」
「まーそうなんだけど、空白感はそんなになかったんだよね。イラスト化すると、みんなの頭から水玉みたいなのがプカプカ浮かんでいって、それが空中で繫がって、ひとつのかたまりになってるみたいなさ、分かりづらくてごめんなんだけど」
「空中におやいもがあって、その蔓がみんなの頭に伸びてって小芋をつくってるみたいな感じ?」
「は?」
「イモ・ポケット」
 思いついたから言ったまでよぅ、と美智留はひとりでゲラゲラ笑った。安田も愛想笑いはしたものの「言っとくけど、それ、そんな面白くないからね」と断りを入れずにいられなく、「なんだと若造」とニヤつく美智留に「くらえパワハラ爆弾」とおしぼりを投げられた。安田はおしぼりを片手で受け、畳みながら「言っとくけど、今のまじパワハラ案件だからね」と脇に置き、「めんどくさ」と襟足を搔く美智留にかまわず話を続けた。
「二十周年記念事業の話し合いに入ったら、みんな、普通にオヤツを食べ始めたんだよ」
「えっ」
 早くない? と美智留が口元を押さえた。
「エーイこんなもの! ってみんなが押しつけてきたオヤツはまだぼくのテーブルに置いてあったんだ。三章後半の読みあたりから、なんかチラチラ見てるなーとは思ってたんだけど、ひと息ついて、話し合いに入った途端にもう当然のようにワッと手が伸びてきて」
「オヤツ無用の誓いを忘れちゃったのかな」
「や、たぶん誓いの骨抜き化」
「どっちにしても早い」と言う美智留に安田が話した。
 ムグムグ、ポリポリ、ムチャムチャといったしやくおんと、ベリベリ、カサカサといった個包装を扱う音を立てながら、安田の司会進行を見守るみんなのニコニコ顔からは「やっくん、なにを言うかナ?」という興味しか読み取れなかった。安田はほんの少し怖くなった。最初はまったくもう、と苦笑していたのだが、みんなが「自分らだって様子見のからだだ」、「元気でないと読む会に来れない」と覚醒しオヤツを手放したのはついさっきだ。こんなに早く忘れるものか、しかも集団で、とそこそこ動揺していた安田の表情を見て取ったらしく、みんなは「なんもだ、やっくん」「そうサ、二十年来の習慣を年寄りが変えられるわけないって!」「オヤツも生きがいですので」「食べられるうちが花サァ」「食欲があるうちはダイジョブってネッ」「そーそー」と言い募った。勢いづいたらしく、「だから、なんもなんだワ、やっくん」「なんもなのサァ」とドンマイみたいな調子で安田を慰め、「そろそろ話し合いするかい?」「そだね、二十周年記念事業はあたしがたの最後の打ち上げ花火だからネェ」と話を進め、「ほんとにマァやっくんにはナンもカもお世話になって」「やっくんがいい人でよかったネェ」「ありがたいネェ」と急に感謝を捧げたのだった。

ここから先は

17,877字

《読んで楽しむ、つながる》小説好きのためのコミュニティ! 月額800円で、人気作家の作品&インタビューや対談、エッセイが読み放題。作家の素…

「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!