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2024年1月の記事一覧

ピアニスト・藤田真央エッセイ #45〈23000人の観客を前にして――チャイコフスキー第1番〉

『指先から旅をする』が書籍化しました! 世界中で撮影された公演&オフショット満載でお届けします。  8月19日のコンサート当日、私は午前中のうちに会場であるブロッサム・ミュージック・センターに向かった。ここは野外舞台で収容人数は23000人と桁外れの規模だ。関係者によるとチェロ界の英雄、ヨーヨー・マはバッハ《無伴奏チェロ組曲》公演にて、一人で5万人もの観客を会場に呼び寄せたという。しかし駆け出しのピアニスト・藤田真央は23000人収容の会場なぞ埋められないだろうと思っていた

岩井圭也「われは熊楠」:第五章〈風雪〉——天皇への御進講

第五章 風雪 和歌山の町の空を、黒灰色の雲が塞いでいる。一昨日から降りはじめた雨は昨日の朝に止んだものの、依然、分厚い雨雲は居座っていた。漂う空気は存分に湿り気を帯びており、いつまた降り出すかわからぬ気配である。  一九二五(大正一四)年一月。  和歌山城からほど近い湊紺屋町の屋敷の一室では、差し向かいに座した兄弟が互いに沈黙を守っていた。障子と襖は閉ざされ、外から他者が様子を窺うことはできない。  兄は南方熊楠五十七歳、弟は南方常楠五十四歳であった。  熊楠も常楠も、土色の

ピアニスト・藤田真央エッセイ #44〈トラブルつづきの旅――アメリカ・クリーブランドへ〉

『指先から旅をする』が書籍化しました! 世界中で撮影された公演&オフショット満載でお届けします。  ソロ、協奏曲、室内楽と多岐に亘る様々な作品の中で、一際異質だと思うのは協奏曲というジャンルだ。なぜならリサイタルにおいては自ら取り上げたい作品を選択出来るが、協奏曲は基本、オーケストラ側からの要望で演目が決定されるからだ。稀に私に選択が委ねられる場合もあるが、マニアックな作品は敬遠されがちだし、演奏時間や前後のプログラムとの調整で却下されることもしばしば(例えばラヴェル《ピア

ピアニスト・藤田真央エッセイ #43〈ファインダー越しの会話〉

『指先から旅をする』が書籍化しました! 世界中で撮影された公演&オフショット満載でお届けします。  8月2日、ついに夏の旅の終着点、フランス南部・プロヴァンス地方にある田舎町ラ・ロック=ダンテロンに着いた。マルセイユ空港から車で1時間ほど、のどかな道を抜けたところにある小さな町だ。この地で行われるラ・ロック=ダンテロン国際ピアノ音楽祭に参加するのは去年に続き2回目である。  到着翌日の朝10時からピアノ選定が始まる。昨年と同様、ステージ上には5台のピアノがずらっと並んでいた

ピアニスト・藤田真央エッセイ #42〈言葉を介さずとも〉

『指先から旅をする』が書籍化しました! 世界中で撮影された公演&オフショット満載でお届けします。   ベートーヴェン・ツィクルスの最終公演では《第5番 へ長調 作品24「春」》《第10番 ト長調 作品96》《第9番 イ長調 作品47「クロイツェル」》を演奏する。前回のデュオから1週間ほど間が空いたこともあり、テンポを落とし、全ての音の連なりを意識して丁寧にリハーサルをする時間を設けた。  本番ではいつものようにマルクと舞台袖でグータッチをしてステージへ上がった。スプリング・

発売目前! 大前粟生さん最新刊『チワワ・シンドローム』冒頭先行無料公開&先読み書店員さんのご感想をご紹介!

 大前粟生さんの最新刊『チワワ・シンドローム』がついに、2024年1月26日(金)に発売になります!  25歳、入社3年目・人事部の琴美は、新卒採用業務に苦心しているところ。マッチングアプリで知り合った新太とも良い感じ。ところがある〝奇妙な事件〟が起きて――。  『別冊文藝春秋』での連載からさらにパワーアップした物語、その冒頭と、先読み書店員さんのご感想をお届けします! 先読み書店員さんからも共感の声、続々! 第1章 チワワテロ  朝から複数のグループ面接をこなし、今

今井真実|帰りの空港で味わった、つるつる博多うどん

第6回 帰りの空港で味わった、つるつる博多うどん 「なぜ、母親は子どもが体調を崩した時に自分を責めるのか」という言葉が頭に浮かぶ。うーん、これだと主語が大きいかも。なぜ「私」は、子の不調の時にいたたまれない気持ちになるのだろうか。  連泊している博多のホテルの部屋から、朝いつものように家に電話をかけた。出張中は、毎日電話越しに「いってらっしゃい」と出かける家族に言うのが習慣なのだ。もうそろそろ登校時間だと思い電話をすると、子どもたちに熱があるんだよと、夫が疲れをにじませな

一穂ミチ「アフター・ユー」#002

『もしもし? 大丈夫ですか?』  大丈夫って、この上なく漠然とした言葉だと思った。気遣いっぽく聞こえるだけで、中身は空っぽだ。何について訊いとんねん。この状況で大丈夫なわけがあるとでも思うんか。「大丈夫じゃありません」って言うたら、何かしてくれるんか。いちゃもんのような問いを溜め込んだまま、青吾は「はい」と答えた。 『中園多実さんという女性が、三日前に長崎県の五島列島で転覆した小型船に乗っていたかもしれません』 「え、あの、すいません、」  舌が前歯の裏に貼りついてうまく発音

矢月秀作「桜虎の道」#005

第4章1  村瀬はその日も、目ぼしいスナックやバーを覗いては、レインボーギャングと平尾についての情報を集めていた。  しかし、思ったより情報は集まらない。  ギャングについて饒舌に語る年配者には出会うものの、レインボーギャングの話になると、誰もが途端に口が重くなる。  平尾の名前を出すと、それまで語っていた人たちが飲みを切り上げ、逃げるように村瀬の前から立ち去ることもしばしばだった。  一方、村瀬がレインボーギャングのことを聞いて回るにつれ、周りに怪しい連中がちらほらと姿を

伊岡瞬「追跡」#003

6 火災二日目 葵(承前)〈先生、何をなさってるんです——〉  電話の向こうで、新発田信のものとは違う声が聞こえた。  通話口から少し離れていて聞き取りづらいが、葵にはそれが誰の声かすぐにわかった。新発田の私設秘書、加地由伸だ。  がさごそと、もみあうような音が聞こえる。加地が受話器を取り上げようとしているらしい。 〈おやめください〉加地が冷静に、きっぱりとした口調で諫める。 〈しかし、こいつが——〉という、新発田の声が聞こえたが、尻すぼみになった。加地が取り上げたらしい。

古代エジプトの密室トリックにミイラが挑む!|『このミス』大賞受賞作・白川尚史『ファラオの密室』インタビュー

「経営者としての日々を送るなかで、心のどこかにいつも〝作家への憧れ〟がありました」  スーツに身を包んだ白川尚史さんは、そう穏やかに語り始めた。東京・赤坂の高層ビル25階に位置した、近未来を思わせるガラス張りの会議室。「GALAXY」と名付けられたこの空間は、証券ビジネスを展開するマネックスグループの本社オフィスだ。白川さんは東京大学工学部を卒業後、AIベンチャー「AppReSearch(現在は「PKSHA Technology」)」を東大の先輩と共に創業し、代表取締役に就任

イナダシュンスケ|牛丼官兵衛

第20回 牛丼官兵衛 僕が初めて𠮷野家の牛丼に出会ったのは、大学生になり一人暮らしを始めてからでした。そしてその後の全生涯を通じて、大学生時代が最も頻繁に𠮷野家のお世話になった時期でもあります。お金は無いけどいつもやたらと腹が減っている、そんな貧乏学生にとって、牛丼はまさに福音。  その当時の僕の牛丼の食べ方は、今思えばずいぶん若々しいものでした。下品だったと言ってもいいかもしれません。往々にして、若々しさは未熟をも意味します。  目の前に牛丼が置かれると、僕はまず肉を奥

門井慶喜「天下の値段 享保のデリバティブ」#002

第1章(承前)「あんたら」  と、口をはさんだのは松右衛門だった。周囲へさっと目をやって、 「見てみい」 「へ」  と、おけいもつられて左右を見る。いつのまにか庭には野良着の百姓が14、5人いて、少し距離を置いて、まるで巨大な毒虫でもいるかのように怪訝な顔をこっちへ向けている。松右衛門が、 「きょうは米搗きさせとったから、帰りが早いんや。聞かれとうない。剣呑な話は、家のなかで」  体の向きを変え、母屋のほうへ歩きだした。松右衛門は庄屋である。庄屋というのは代官のかわりに年貢を

岩井圭也「われは熊楠」:第四章〈烈日〉——熊楠、父に

第四章 烈日 一九〇九(明治四十二)年の真夏。  田辺湾にある扇ヶ浜には、烈しい日差しが降り注いでいた。炎天から射られる陽光は、砂浜に色濃い木陰を生み出してもいる。光が熱を帯びるほどに、明暗の対比は際立っていく。  浜辺から歩いて十分ばかりの距離に、中屋敷町中丁の借家はあった。潮まじりの風がそよぐ縁側で、一人の男が顕微鏡を覗いている。広袖の白襦袢を着て、下半身には腰巻をまとっている。  紙巻き煙草の「朝日」を吸いながら、熱心に顕微鏡を覗いているのは、齢四十二の南方熊楠である。