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【最終回】大前粟生「チワワ・シンドローム」#006

笑うキズさんの正体を知った琴美の心に、ある疑念が兆していく。
そしてついに新太との再会の時が……!

〈チワワテロ〉からはじまった事件と新太失踪の真相がついに明かされる。
そのとき、琴美とリリは——

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 次の一斗くんの月命日である十一月七日は、金曜日だった。
 琴美は陽が出る前に起床し、始発でよこせんのとある駅へと向かった。
 事件現場は、駅から歩いて数分の十字路だった。まだ花は供えられていなかった。
 駅併設の喫茶店に入り、窓際席に陣取った。開店したばかりで、店内に客はほとんどいない。目の前の通りには、朝のウォーキングや犬の散歩をする人がちらほらいるだけだった。琴美は、ここで何時間でも粘るつもりだった。
 モーニングセットを少しずつ口に運びながら、そういえば、前もこんな風に喫茶店で待ち伏せみたいなことをしたな、と考える。
 あの時はリリがいっしょだった。高校時代の「迷子のハサミ事件」のことを話していたら、彼によく似た後ろ姿を見つけたんだった。それから、たくさんの犬がやってきて、リリは楽しそうだったな。うん。リリとした探偵ごっこ、私も、楽しかったな。
 たった二か月とちょっと前のことだというのに、懐かしく感じる。
 同時に、疑念も増していく。
 あの時の、リリに甘えている私のままでいられたら、良かったんだろうか。
 その答えはわからない。でもまずは、私たちの探偵ごっこにケリをつけないと。
 彼が現れたのは、午前十時前だった。駅のロータリーで、花束を抱えて信号が変わるのを待っていた。琴美は急いで会計を済ませると、お釣りも受け取らずに喫茶店を出た。ここに来たら会えるかもと予想していたものの、いざ目の前に現れると、現実感がなかった。琴美は、信号が変わるぎりぎりで横断歩道を渡った。すぐには声をかけず、彼がそっと花束を置いて手を合わせ終わるまで、そばで待っていた。
「おひさしぶりです」
 琴美が声をかけると、三枝さえぐさあらは悲しげな顔を見せた。
「琴美さん……」
「少し、痩せましたね」
 無精髭が生えているせいでそう見えるだけかもしれないが、頰のあたりがやつれていた。新太は、ジーンズに灰色のセーターという格好だった。
「僕のこと、見つけて欲しくなかったな」
 新太は動揺しているというより、なにか諦めているようだった。
 聞きたいと願っていた声だった。でも、ここから、なにを話そう。
 私たち、なにを話してきたっけ?
 なにで笑い合っていたっけ。
「ここにいるっていうことは、もう全部知ってるんですね」
「……八月七日。この日付で繫がりました。観月一斗くんの命日と、新太さんひとりだけがチワワのピンバッジを付けられた日。新太さんは、『八月七日』から逃げたんだ。あなたは、三年前のその日、ひき逃げを撮影して、MAIZUに提供したんですよね」
 胸が詰まる思いだった。好きだった人の過去を暴くのも、新太さんのことを「あなた」なんてよそよそしく呼んでしまっていることも。
 新太は琴美の問いには答えず、「そこの公園に行きましょう」とスタスタと歩き出した。新太さんの歩くスピードってこうだったなと思い出したけれど、どうしても、彼と歩幅が合わない。
 公園のベンチに腰掛けると、新太は「MAIZUの動画に出てましたよね」と切り出した。
「新太さんのこと、捜してたんです。その過程でMAIZUに会うことになって、家に行きました。そしたら、隠し撮りされたみたいで」
「隠し撮り? あいつ、なに考えてんだ」
「やっぱり、新太さんはMAIZUと知り合いなんですね」
 再び沈黙が訪れた。琴美は辛抱強くその静寂に耐えた後、こう口にした。
「話してくださいよ。私は、聞いてあげることしかできないかもしれないけど。ほら、いつか新太さん言ってくれたじゃないですか。自分なりにちゃんと聞いてあげられたなら、それがベストなのかもしれない、って。私なりに、新太さんの話を聞きますから。私のこと、ベストな私にさせてください」
「それ、すごいワガママじゃないですか」
「ええ。ワガママです」
「琴美さん、変わりましたね」
「え?」
「なんというか、たくましくなったような」
「図太くなったの間違いじゃないですか?」
 新太は虚しく笑った。それからため息を吐き、「いつのことから話しましょうか」と遠くを見た。

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