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伊岡瞬「追跡」#006

謎多き放火事件の裏側にはフィクサーと与党幹事長の暗闘が。幹事長のボンクラ息子も参戦し、事態は混迷へ向かう——

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15 火災二日目 アオイ

 油断がなかったといえば噓になる。
 あの『B倉庫』で初めてぐちと手合わせしたとき、アオイがあっさりと一本取った。
 樋口が手加減しているようには見えなかった。あの男にも華やかな時はあったのかもしれないが、この仕事の〝現場〟に出るにはそろそろピークを過ぎているし、順当な実力の差だと理解した。だから、再び対峙することがあったとしても、そして向こうに多少の〝もの〟のアドバンテージがあったとしても、充分制圧できるだろうと踏んでいた。
 その油断がこんな結果を招いたのか、あるいは、やはり樋口は手加減をしていたのか。
 すでに『組合』の本部から、ほかにも警察車両が追っているという情報を得ていた。樋口をSAサービスエリアに置き去りにしてわたるを連れて逃げることに成功したにもかかわらず、すぐに都留ICで降りたのは、追手をくと同時に彼らの実力を測る狙いもあった。彼らとはすなわち、樋口を含めた『I』とは別動隊として追ってくる警官たちだ。
 追加で得た情報は——その都度、決して安くない代金を支払っているにもかかわらず——いささか拍子抜けだった。追ってくる警官たちは、訓練を受けたSITの隊員などではなく、ごく普通の刑事だという。航の命などどうでもいいと思っているのか。あるいは、何か意図があるのか。
 たしかに、いくら大物とはいえ、いなまさあきは公人ではない。警察に圧力をかけているのが民和党幹事長のまこと一派だとすれば、航の生死はあまり重要ではないかもしれない。衆議院選挙まで、航の〝身柄〟を押さえておければ、そしてその事実を因幡側に切り札として提示できればそれでいい。
 だとすればなおさら、〝裏切った〟アオイたちをとことん追い詰めるはずだ。
 これは泳がされているのだろうか——。
 それを確かめる狙いもあった。
 追ってくる連中がそのまま河口湖方面へ向かったなら、ただの間抜けだ。おざなりに追っているだけだろう。今後はほぼ警戒するにあたらない。
 あるいはまた、中央道の上り方面へ先回りしたつもりで待ち伏せするのであれば、それも問題外だ。
 やっかいなのは、大月JCTジヤンクシヨンを直進して、下り方面へ追う、あるいは待ち伏せする場合だ。アオイたちの本当の狙いに気づいている可能性がある。
 そこで、いくつかある案のうちこの計画を選んだのだ。結果次第では、早めに決着をつけておく必要がある。
 アオイの主張に、同行者、というより「相棒」と呼ぶほうがふさわしい『リョウ』も同意してくれた。
 同時に、航のトイレ問題も解決しなければならない。アジトを出てから、まだ一度もトイレに立ち寄っていない。そろそろ限界だ。〝追手〟もその事情は摑んでいるだろう。
 本来、このような場面なら、都留IC出口にある事務所に併設された公衆トイレで済ませたいところだが、潔癖症の航は嫌がるだろう。面倒なのは、表立って嫌がらないことだ。彼の性格なら、おそらく「まだしたくない」と言う。アオイにとって航は、いわば「腹違い」の甥だが、そんなところは似ていると感じる。
 ならば、トイレに入れ入らない、などと押し問答せずに、さっさと高速道へ戻り、下り方面へ向かう。そして最初の初狩PAパーキングエリアに立ち寄る。それもひとつの選択肢だ。
 そこまで読んで彼らが先回りしているかどうかは、今後を占う賭けになる。
 果たして、彼らはいた——。
 大型トラックの間にうまく潜り込んではいたが、それらしき臭いのする一台を見つけた。
 まったく無警戒でも怪しまれるから、形ばかり駐車エリアをぐるっと一周流した。
 問題の車の脇を通り抜ける際、視線を動かさずに観察した。乗っているのは男二名、知らぬ顔だったが、覆面PCとそれに乗った刑事だと確信した。これが例の追手だろう。樋口の姿はない。さすがに、この短時間で追いつくのは無理なはずだ。
 ならば偶然に違いない。刑事が航のトイレのこうまで計算するはずがない。
 やや緊張が解けた。
 特殊訓練を受けた隊員ならともかく、刑事二名ではためらう価値もない。さすがにこちらから声をかけることはしないが、いっそここで襲撃してくれれば、決着をつけて小うるさい蠅を追いはらうことができる。
「付き添うからトイレを済ませよう」と言えば、航は「女性用」に入るのを嫌がるだろう。手間のかかる獲物だ。しかたなくリョウと一緒に行かせた。すると、間をおかずさきほどの車から降りた二人の刑事らしき男たちが、それを追うのを見た。偶然見つけて、幸運に胸躍らせているかもしれない。ならばアオイがさらに彼らの跡を追い、挟み撃ちにし、制圧する——。
 踏み出そうとしたとき、背後から声をかけられた。
「置いてけぼりはひどいですよ。指揮官」
 驚いて振り返る。刑事二名だけではなかった。樋口もいた。これが第一の誤算、いや油断だった。
 ばかめ、と内心あざけった。余裕を見せて声などかけずに、背後からいきなり襲えばまだ勝算はあったかもしれないのに。わずかに、そんなれんびんさえ湧いた。これが第二の油断だ。いかなる場合も、相手に情を移してはならない。
 すぐに気を取り直して向き合った。あの身のこなしの刑事二名なら、拳銃でも使用しなければ——おそらく使用したとしても——リョウ一人で大丈夫だ。ならばこちらはこちらで、きっぱりと白黒をつけておこう。
 立ち寄り客の絶対数が少ないPAを選んで正解だった。野次馬は邪魔でしかない。素早く周囲にひと気がないのを確認し、間合いを取った。
 樋口の顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。怒りも、べつも、疑念も、ちようしようも。ただ、こちらの目を見ている。アオイも樋口に呼吸を合わせ、睨み合う。
 刹那の隙を突いた。右手に持った特殊警棒を、一度フェイント気味に右から左へと振る。樋口は当然見切ってかわすはずだから、アオイはあえてバランスを崩してみせる。その一瞬の隙に樋口が踏み込んでくる。アオイは、ひねった体を戻しつつ、左手に隠し持った棒を樋口の右のこめかみに叩き込む。
 振る。かわす。よろける。踏み込んでくる。そこまで読み通り。
 取った——。
 そう思った。今度は寸止めせずに、特殊警棒を本気で打ち込んだ。樋口は何を血迷ったか、それを右手の前腕で受けた。ちょうど肘と手首の中間あたりだ。このままでは骨が砕ける。そうは思ったが、相手もプロだ。覚悟はあるだろう。
 ガシッ。
 打ち込んだ特殊警棒がおかしな音を立てた。樋口は、いつの間にか防護具をつけていた。この蒸し暑いのにスーツの上着を着ていたのは、伊達ではなかった。
 目が合った。
 切り札は取っておかないとね——。
 そう語っているように見えた。樋口が突き出した特殊警棒の先が、アオイのみぞおちに埋まった。おもわず前かがみになったアオイの首に、樋口の手刀が打ちおろされた。
 世界が暗転した。

16 過去 葵

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