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ブックレビュー:源氏物語と平安貴族の時代〈前篇〉|白石直人

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 2024年1月からのNHK大河ドラマ「光る君へ」は、紫式部と藤原道長を描き出す。彼ら・彼女らが生きた平安時代は一体どのような時代だったのだろうか。この記事では、摂関政治全盛期の前後の時代まで含め、平安時代がどのような時代だったのかを教えてくれる本を紹介していきたい。なお、平安時代の歴史を読む際には天皇家や摂関家の複雑な姻戚関係が重要となるので、天皇家の系図摂関家の系図を適宜参照していただきたい。

平安時代通史~権力闘争の視点から

 平安時代全体を一望する本としては、保立道久ほたてみちひさ・著『平安王朝』(岩波新書)が、天皇を主人公として平安時代を描き出す読みやすい通史である。本書は権力争いという視点に絞り込んで記述しているため、平安時代の入り組んだ権力闘争全体の流れが理解しやすくまとめられている(ただし逆に言うと、権力闘争以外の統治機構や庶民の状況などの側面を知りたいならば、他の本を読む必要がある)。

 まず著者は、平安時代における天皇の理想は、自身の血統への王家継続を確保したうえで、早期に譲位して院として後見の地位に就くことだと主張する。それが多くの場合に実現しなかったのは、適切な後継者や補佐人材の不在、あるいは王統の迭立[1]などの要因のためである。特に天皇親政はしばしば好意的に語られるが、それは院として後見の地位に就くことが出来なかったという、当人にとっては望ましからざる選択なのだと論じられている。逆に、摂関家が権力を握るのは、王統が迭立状態であり、皇位をめぐる争いを利用できる場合である。

 桓武天皇は、子供たちの間で異母兄妹婚を行い、複数の子供たちが王家を継ぎうる状態とした。それは半ば必然的に、兄弟同士による王位をめぐる争いを引き起こした。平城上皇と嵯峨天皇の間の対立である薬子の変は、上皇と天皇の間の序列が未確定な状況で生じた兄弟間の権力争いでもあった。薬子の変に勝利した嵯峨ともう一人の兄弟である淳和との間では、嵯峨・淳和の両血統の間で両統迭立を図ることで決着がついたように見えた。しかし結局、承和の変[2]によってこの迭立は解消され、嵯峨直系王統が実現した。

 この嵯峨直系王統はしばらく安定していたが、しかし陽成天皇が清涼殿で殺人を犯すという前代未聞の事態により、陽成は廃位されこの系譜は潰えた。王位は大幅に遡って継承され、その後は宇多、醍醐(菅原道真左遷の際の天皇)、村上などの時代に至る。これらの天皇は天皇親政を行ったため、寛平の治(宇多の扱いは??)、延喜・天暦の治などと肯定的に語られることもしばしばだが、特に後者について著者は、当人たちにとっては「譲位出来なかった」という不本意なものでもあると指摘する。醍醐天皇の場合、摂政につくべき位置にあった藤原時平が若くして死んでしまったために譲位が出来なくなった。村上天皇も、摂政につくにふさわしい藤原師輔が死んでしまったために、冷泉への譲位が出来なくなった。

 その後、再び円融系と冷泉系に王統の分裂が起き、両統迭立状態に入る。藤原摂関家は両者を天秤にかけ、それを仲介する形で権力を行使した。藤原道長の全盛期を経て、道長は天皇家に余すところなく子供たちを配置することに成功したが、その結果天皇家と道長家が融合して王統分裂が解消されることとなり、分裂した王家を天秤にかける形での権力行使は出来なくなった。また皇統が統一されると、皇子を生みうる男子は一人に限定されるので、娘を嫁がせる先も限定され、摂関家が外戚になれない可能性が高まってしまった(実際、頼通は外戚になれなかった)。

 白河院政以降の院政期には、これまでの「天皇―皇太子」関係が「院―天皇」関係へとスライドした。その結果、この時代には天皇は幼いことが一般的となり、その帰結として皇太子空位が常態化した。これは、天皇の病気が即王統の不安定性をもたらすという問題を抱えていた。実際、白河院政の際に堀河天皇が病気となり、白河の王統は一時期危機に陥った。これとともに院政期は、養子・養女の増加や政治的手段としての男色の広まりなど、宮廷が人工的な関係を帯びていく時期でもあった。

平安初期:律令制の動揺

 平安京への遷都を行い、平安時代の始まりを作ったのは桓武天皇である。西本昌弘にしもとまさひろ・著『桓武天皇 造都と征夷を宿命づけられた帝王(日本史リブレット 人 011)』(山川出版社)は、薄い本だが簡潔にまとまっている桓武天皇の評伝である。桓武天皇は、当時の主流である天武系ではなく天智系であり、また母が百済系という不利な出自を抱えていた。しかし、天武系に子孫ができないという状況と、藤原百川らを中心とする政治工作の帰結として、期せずして皇位につくことになる。本書副題にもある「造都と征夷」は、そのような不利な出自を覆して権威を獲得するために、桓武にとって必要なことであった。

 平城京から長岡京への遷都の理由や、長岡京を放棄して平安京へと移った理由などは、諸説あって今でも研究者間で決着はついていない論点である。本書では可能性のある説を複数列挙しつつ、著者が有力と考える説はどれかを説明する、という方法をとっている。特に平城京を去った理由としては、天武系の伝統の濃い平城京よりも新しい場所の方が、天智系の新王朝を築くうえではふさわしいという判断を著者は有力視している。

 平安時代初期の歴史を概観するならば、目崎徳衛めざきとくえ・著『平安王朝』(講談社学術文庫)は、原本は古い(1969年出版)が読みやすい通史である。国家体制の問題(律令制の危機)、権力をめぐる政争、文化面での展開などがバランスよく押さえられている。

 国家体制の視点から平安初期の歴史を見るならば、律令制の機能不全の深刻化というのが最も大きな論点である。公地公民制が前提とする「国家による人民の捕捉」が、浮浪・逃亡や戸籍の偽装登録などによって成り立たなくなり、また徴税も円滑に行えない状況に陥っていた。もともと藤原家は律令制維持を使命としてきたが、それも平安時代に入ると次第に困難に陥り、現実と妥協しながら制度を機能させようとする改革が繰り返し行われた。本書では、菅原道真左遷の元凶として悪く言われることの多い藤原時平を、こうした政治改革への意欲と力量を備えた人物と好意的に評している。醍醐天皇の「延喜の治」の功績もまた、もっぱら時平在任時の最初の約三分の一の期間のものだという。しかしこうした様々な延命の努力にもかかわらず律令制の無理はいたるところで現れ、結局中央国家による全面的管理という目標そのものが放棄された。

 著者は『古今和歌集』の再評価を行った人物でもあり、和歌と漢詩の話にも紙面を割いている。著者は「漢詩から和歌へ(唐風から国風へ)」という対立的な捉え方は正しくないという。和歌は漢詩に対抗するために生まれてきたものでもないし、和歌が流行する平安中期以降でも男性貴族の中心は相変わらず漢詩だった。ただし和歌は、紀氏や在原業平、惟喬親王といった中央の政治闘争で敗れて去った人々を中心として育てられていった、という意味での対抗性は有している。『古今和歌集』は、天皇の勅命によって編まれる勅撰が、従来低俗なものと見られていた和歌を対象に、紀貫之という身分の低い者によって行われたという点で画期的なものであった。しかしこのようにして和歌が晴れの舞台に昇った後も、公的な世界の中心はあくまでも漢文・漢詩であり、和歌は私的な世界の表現という位置づけは変わらなかった。そして和歌が貴族の間で広まっていくことは、貴族たちが政治への関心を緩やかに失っていくという傾向に対応するものでもあった。

坂上康俊さかうえやすとし・著『律令国家の転換と「日本」 (日本の歴史05)』(講談社学術文庫)は、律令制度と統治機構の変化を中心にこの時代を詳述した高度な本である。通史シリーズの一冊だが、時系列ではなくトピックス別に並行して話が進んでおり、また人物ではなくもっぱら制度を焦点としているので、平安初期の歴史があらかじめ頭に入っている人でないと、本書を読みこなすのは難しいだろう。

 著者は、そもそも日本で律令制が導入されたのは、唐や新羅に対抗するためには強力な中央集権国家が必要とされたためだという見方をとる。しかし九世紀に進むと唐や新羅の脅威は大幅に低下したとみなされ、そのため無理を重ねた中央集権体制の維持努力はあまりなされず、各自の利害に基づく対立、それによる制度の綻びが顕在化してきた。本書では、地方における制度の破綻と、それが現場でどのように取り繕われているかが具体的に詳しく記述されている。例えば、納税に応じない人々の倉を、書類上だけ「国郡の倉」としてしまい、その人々が自分の収穫物を自分の倉に入れるのをもって、書類上は「国の倉に穀物が納められたので徴税は完了した」と届け出てしまう[3]、といった弥縫策が平然ととられていたという事例が紹介されている。

 統治者を巡る変化としては、天皇に対する清浄性が極度に求められるようになってきた点が本書では挙げられている。死刑は禁止され、天皇は内裏に閉じ込められるようになった。天皇が大極殿へ行くことすら「行幸」と呼ばれることもあった。天皇の居所から遠ざかるほど穢れるという発想は、「罪人を穢れた地に追放する」という流刑の根底にあるものである。天皇への潔癖の要求は、天皇が何も行動できなくなることを意味している。その代わり、摂政・関白といった人々の政治における役割がますます大きくなった。

天皇と摂政・関白の関係

 なぜ摂政・関白は生まれたのか。なぜ天皇の権力は失われたり取り戻されたりするのか。古代の歴史を学んだ際、疑問に思う人も少なくないだろう。神谷正昌かみやまさよし・著『皇位継承と藤原氏 摂政・関白はなぜ必要だったのか』(歴史文化ライブラリー 吉川弘文館)は、皇位継承の在り方を辿ることで、天皇を巡る権力の動きに明快な視座を与えてくれる本である。本書では、摂政・関白は天皇の権限を簒奪する存在ではなく、両者は互いに協力しあっていた点が強調されている。

 まず本書で指摘されているのは、古代においては長らく天皇位は終身であり、ひとたび天皇になれば死ぬまでその権威・権能を有すると理解されていた、という点である。この理解のもとでは、そもそも天皇の譲位は行いえない。最初の譲位は皇極天皇→孝徳天皇のときだが、これは乙巳の変という政変に伴うものであった。そして孝徳天皇が亡くなると、皇位は再び皇極天皇へと戻った。この出来事について著者は、皇極天皇の天皇としての権威は終身なので、元の姿に戻っただけだという。

 しかし、二例目の譲位である持統天皇から幼少の文武天皇への譲位は、自身の皇統を確実にするための譲位であり、従来の天皇のあり方を変えるものであった。そして、持統天皇は譲位後も、太上天皇として新天皇を後見し、太上天皇に天皇の後見という役割を付与した。しかしこれは、太上天皇と天皇という二つの権力の並立を招きうるものであった。実際、平城太上天皇と嵯峨天皇との間の対立は薬子の変を引き起こした。薬子の変は嵯峨天皇が勝利し、太上天皇に対する現天皇の優位を確立した。

 その後の承和の変を経てしばらく皇統は直系で継承されるが、寿命が長くない当時、直系継承は容易に幼帝の出現に帰結した。このような中、藤原良房が人臣として初めて摂政に就任した[4]のは、政務が困難な幼い天皇には補佐が必要なためであった。このときの摂政は役職というよりも天皇の代行であった。そして重要な点は、第一に摂政は固定的な役職ではなく天皇との特別な人格的関係に基づく資格であるとされていたこと、第二に摂政は終身と考えられており、単に天皇が元服することでなくなる地位ではないと考えられていたことである。例えば藤原基経は、陽成天皇元服後も王権代行の役回りを継続している(第二の側面の方が重要であり、天皇の交代があった際にも、これまでの摂関は引き続き摂関に任命されることが多かった)。

 その陽成天皇の廃位と光孝天皇即位の際に、関白の職が作られ[5]、基経が就任する。これについて本書では、基経が持っていた王権代行の権能は終身であることによる、特別な取り扱いだとしている。一方、宇多天皇もまた基経を関白にしているが、これは宇多天皇の出自の弱さ(一度臣籍降下しており、陽成の系譜からも遠い)を補い、王権の正当性を擁護するために基経の力を借りたという面も有している。関白の地位に就かずとも、筆頭公卿が天皇を支えるという協力体制は継続する。

 自身の地位、皇統を擁護するために摂関の力を借りるというのは、特に冷泉・円融の両統迭立において強く見られる。これが藤原摂関家の全盛期と重なるのは偶然ではない。円融天皇は特に身内の藤原兼通を頼り、筆頭公卿でも藤原家の氏長者でもない兼通を関白につけた。筆頭公卿ではない兼家が一条天皇の摂政・関白につけたのも、摂関における身内重視の姿勢[6]とも見ることができる。だが兼通の場合と違って[7]上席もすでに埋まっており、特別の昇任をさせて地位を上げることもできなかった。そのため、兼家は大臣職を辞して無官となり、序列上の問題を生じさせないようにした。摂関が律令職から分離する契機はここにある。

 藤原伊周と藤原道長の確執は有名だが、彼らはともに当初は内覧の地位のみで、関白にはつけなかった。この理由について本書では、摂政・関白は政治経験を積んだ人間による代行であるが、伊周、道長ともにまだ若く政治経験が足りなかったためだと論じている。また一条天皇が道長を関白につけなかったのは、関白は終身なので一度道長を選んだら伊周に鞍替えすることはできなくなる一方、皇子ができるのが伊周の妹中宮定子のみである可能性もあり、伊周という選択肢を残したかったという点も指摘されている。

 道長は後一条天皇の摂政につくが、その地位は早々に息子の頼通に譲り、自身は大殿として権勢を振るう。しかしこれは、天皇との人格的関係で結びついていた摂政・関白の地位が、単なる官職となる流れを促すものでもあった。頼通や教通の血筋からは天皇の皇子は生まれない中、外戚と摂関が分離し、次第に権限もなくなっていく。


[1] 二つの王統が存在し、交互に天皇を担う状況のこと。

[2] 承和の変は、藤原氏による他氏排斥の面が強調されることも多いが、著者は皇統をめぐる問題を重視している。

[3] もちろん、たとえ国に穀物が必要になったとしても、その倉から物を取り出して使うことは出来ないわけだが。

[4] 藤原不比等などを摂政などと見る見解もあるが、本書では否定されている。

[5] ただし、基経が就いたのは関白と同等の役回りだが、名称としての「関白」は使われていない。

[6] 一条天皇即位時点で関白には頼忠がいたが、彼は天皇の身内ではなかったため、摂関の終身制に反して彼は交代させられた。

[7] 兼通の場合は太政大臣が空席だったので、太政大臣に昇任できた。


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