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ブックレビュー:源氏物語と平安貴族の時代〈後篇〉|白石直人

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平安中期:摂関政治

 藤原道長をその頂点とする摂関政治の時代を一望するならば、土田直鎮つちだなおしげ・著『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫)は、古いが非常に定評のある通史である。貴族同士の権力争い、特に藤原家内部での激しい攻防を経て、藤原道長がその栄華を極める過程が描き出されている。本書はしかしそれに加え、平安貴族の風習や文化などについても丁寧に説明を加えており、それによって平安時代の歴史をより深く理解することができる。

 摂関政治では、自分の娘を天皇に嫁がせ、その息子(自分から見たら孫)を天皇にすることで権勢を振るうことを理想とした[1]。しかしそもそもなぜ天皇の外戚(母方の親類)が重要なのか。それは、当時の貴族においては、子供は父親の家ではなく母親の家で育てられるものだからである。当時は結婚しても男が女の家に通うだけで同居しない、あるいは女の家に男が嫁ぐ(婿取り)ことが多かった。子供は母親の家で育つので、必然的に外戚の影響を強く受けることになった。天皇との結婚の場合には、婿取りして自邸に招き入れることは出来ないが、宮中の局を自邸の出張所のように万事整え、そこに天皇を迎え入れ、生まれた子は母親の生家(自邸)で育てた。

 平安時代を紐解く際、日記は重要な文献であるが、当時の日記の位置づけが現代の日記と大きく異なる点は注意が必要である。現代の日記はプライベートな事柄を自分のために書き留めるものだが、平安時代の日記は儀式作法の記録をとどめて、後の子孫たちの先例とするために書いたものである(紫式部日記などの女流文学作品は、この意味での日記ではない)。平安時代は現在と比べてはるかに先例に則ることが重視されており、先例を知らないことは執政処理の失敗を招くものなので、先例を伝えることは極めて重要だった。このような日記は書き手の私的な内面に立ち入るための道具としては役に立たないが、その代わり公的に起きた事柄の記録として歴史研究では大いに役に立つ。

 平安時代の文学作品や女房の日記には、男性貴族の政務の話はあまり出てこないので、平安貴族は詩歌管弦にいそしんで遊んでばかりいたイメージが持たれることもあるが、本書ではそれは全く事実と反すると指摘されている。実際には、貴族は多くの行政事務をこなすとともに、公卿であれば会議に参加して重要議題の論議を重ねたりしていた。また、行事を滞りなく行うことも平安時代においては極めて重要であり、そのためには先例をきちんと把握したうえで的確な判断が下せなければならなかった。こうした側面が平安文学に出てこないのは、それが文学の題材にならないから、あるいは女房の世界とは違うところで行われていた事柄だからである(貴族の日常は、あとで紹介する井上『平安貴族の仕事と昇進』が詳しい)。

 他にも、(前編記事で紹介した神谷『皇位継承と藤原氏』でも指摘されていたように)摂関政治では天皇の主体性がことごとく奪われるわけではなく、天皇と摂政・関白が協力して政治を営む姿を理想としていた話から、当時は物の怪や怨霊が信じられていたために、ライバルの貴族を追い落としたとしてもそれは最小限にとどめられていたのではないかという指摘まで、視野の広がる話が多く参考になる。

 最近の研究成果も含めた摂関期の通史としては、古瀬奈津子ふるせなつこ・著『摂関政治 シリーズ日本古代史⑥』(岩波新書)が読みやすく書かれている。通史パートが半分ほど、内政、対外関係、都市と地方の在り方といった内容にもう半分ほどを割くという構成だが、後者のパートも込み入りすぎず、初心者でも読める書き方となっている。

 類書と比較すると、「閉鎖的」と見られがちな平安時代の対外関係についても、紙面を割いて説明がなされている。「894年に遣唐使廃止」と言われるが、菅原道真の件はあくまでもその一回の遣唐使派遣についての話であり、その後の遣唐使派遣がなされなかったのはたまたま、あるいはなし崩し的な停止だったとされている。そうして唐が滅亡し、中国の政治的な求心力は失われたが、文化的には中国は求められ続けていた。宋商人は博多に来航して唐物の取引を行った。唐物の貿易は第一には国家と天皇のためであり、民間貿易はあくまでも余ったものという扱いだった。しかし11世紀になると中央の関心は弱まり、民間貿易の比重が高まった。また、中国への使節派遣が行われなくなって以降も、日本からは巡礼僧が宋を訪れており、その待遇は遣唐使のものと似ている面も多かったという。この時代は国風文化ともいわれるが、漢詩と和歌が同じテーマの下で並べられたり、唐絵と大和絵が向かい合わせで置かれたりなど、唐風文化もまだまだ地位を保っていた。

 土田『王朝の貴族』が主に平安貴族たちの権力闘争を軸に描いているのに対し、同じ時代をキサキ[2]や女房といった女性たちの世界の視点から描いているのが山本淳子やまもとじゅんこ・著『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』(朝日選書)である。本書は源氏物語の内容解説・解釈の本ではなく、源氏物語が執筆された当時の歴史事実(時代背景)を解説した本である。

 本書の多くの紙面を割いて解説されているのは、一条天皇と中宮定子、そして定子に仕えた清少納言の話である。タイトルのイメージに反し、紫式部が仕えた中宮彰子の話があまり多くない点を意外に思うかもしれない。著者は、一条天皇が最も幸せだったのは、定子やその兄伊周と過ごした時期だったと考えており、また一条天皇の愛情が最も注がれたのも定子だと論じている。紫式部が源氏物語の最初の部分を執筆したのは、定子没落・崩御の後、紫式部が彰子に仕え始める前の時期だとされており、一条と定子の関係は当然下敷きになっている。

源氏物語の構造

 平安時代当時の社会制度・通念を踏まえて源氏物語を読み込んでいく本としては、工藤重矩くどうしげのり・著『源氏物語の結婚——平安朝の婚姻制度と恋愛譚』(中公新書)が非常に面白い。本書は、当時の婚姻制度の理解を軸として、なぜ紫式部はこのような設定を用いる必要があったのか、という、源氏物語の技巧を裏側から解き明かしていく本である。併せて、源氏物語以外の多くの平安時代の恋愛譚の構図も概観できる。

 著者はまず、平安時代は一夫多妻で通い婚が普通だという通俗的理解は誤りだと指摘する。摂関時代においても、妾はいるものの一夫一妻が普通であり、特に正妻とそれ以外の間には、当人の待遇から子供の出世まで、厳然たる差があったという。そして当時の結婚は親同士が決めて執り行われるのが普通であり、本人(特に女の恋心)が男女関係を決めることは恥ずかしいことだとされていた点にも注意を促す。上流貴族においては、家同士の関係で元服時に結婚が行われるのが普通なので、男性は年頃になると自らの気持ちとは無関係に正妻がいるのが常態であった。そのため、自らの恋心による男女の物語を描こうとすると、必然的に正妻以外の女性との関係の話になる。また同じ理由で、日記文学は正妻以外の立場にある女性の視点から描かれる(蜻蛉日記、和泉式部日記)。女流文学や日記文学は、当時の通常慣行とは異なる男女の関係を描いているのであり、そのためこれらの文学から当時の通常の婚姻状況を推し量るのは誤りなのである。

 こうした婚姻制度事情は、平安時代の恋愛譚の枠組に大きな制限を課す。成就する男女の恋を描こうと思うと、男が女に接近しうる状況にしないといけないので、女は男親の庇護を受けていない(死没、妾妻の子)設定が選ばれる。源氏物語の紫の上、落窪物語の落窪の君、宇津保物語の俊蔭の娘などはこれにあたる。しかし男の妾妻になるのでは女にとってハッピーエンドにならないので、男の正妻は排除されるべき悪者扱いされる[3]。

 逆に女が男親の庇護を受けれる場合には、女は保護されていて動くことができないので、もっぱら男が求婚する。だが、男は女と密会することは難しいので、親を介して結婚を試みる。その場合、長さのある物語にしようと思うと、次々と求婚者を登場させては失敗していく悲喜劇となる。竹取物語、宇津保物語のあて宮などがこれにあたる。ただし一話完結の歌物語は、成就しない恋の物語として描かれる場合もある。

 源氏物語第一部の一つの大きな筋は、不遇な紫の上が、光源氏の寵愛を受けて恵まれた地位に至るという上昇の物語である。しかし紫の上は正妻ではないので、他の女性の脅威にさらされている。そのため紫式部は、光源氏に関わる他の女性は、最終的には皆不幸になる設定を採用している。光源氏の正妻の葵の上は、男児の誕生と左大臣という家柄(光源氏の地位上昇に必要)のために登場するが、紫の上の障害にならないように早々に死没する設定が採用される。葵の上の死没の役回りのために、六条御息所が登場させられる。紫の上への恋心を抱く要因である藤壺も、最終的には退場させられねばならない。紫式部は、桐壺帝の崩御のタイミングに重ねる形で藤壺を出家させ、恋愛関係から離脱させる。光源氏の女児を産む明石の君は、徹底して低い身分に押さえ、その女児も紫の上が引き取って育てるという設定にすることで、のちの中宮の母親になる役回りながら、紫の上を妨害しないように紫式部はうまくバランスをとっている。ちなみに紫の上自身に子供を産ませないのは、子供ができると子を介して両親として男女が接するようになり、純粋な恋愛物語にできないからだと著者は述べている。

 源氏物語では、主軸の恋愛物語以外にも、先ほど述べたようなさまざまな恋愛譚が登場する。浮舟や宇治の姉妹は、男親の庇護を受けられない不遇な女との恋物語の構造をとる。逆に玉鬘の婿選びは、男親の庇護を受けた女への求婚譚である。そして正妻、例えば葵の上、頭中将の北の方、弘徽殿大后などは、夫の恋を邪魔する敵の役割を振られている。

平安社会1~貴族の日常

 平安時代の貴族というと、もっぱら権力闘争をするか、あるいは和歌や蹴鞠にいそしんでいた、というイメージを持つかもしれないが、それはすでに土田『王朝の貴族』が指摘していたように大きな誤解である。井上幸治いのうえこうじ・著『平安貴族の仕事と昇進 どこまで出世できるのか』(歴史文化ライブラリー 吉川弘文館)は、特に教科書などでは触れられることの少ない下級貴族の日常を描き出してくれる一冊である。具体的なエピソードも端々に織り込まれており、下級貴族の悲哀を垣間見ることができる。

 平安時代当時の身分を大きく分けると、公卿(三位以上)、諸大夫(四位、五位)、侍[4](六位以下)に分けられる。下の身分ほど人数も多く、公卿が20人ほどとすると、諸大夫は800人近くと本書では推定されている。そして出世はもっぱら生まれ・家柄によって規定される。教科書に出てくる藤原摂関家の子弟などの場合、元服するといきなり諸大夫の下の方(従五位下あたり)からスタートし、あっという間に公卿に到達するが、これはごく少数の高貴な家の子弟の話である。侍身分の人からすれば、晩年にやっと従五位下に到達するかしないか、という地位である。諸大夫どまりで公卿には通常なれない家柄の人は、非常に努力して公卿に到達する場合もあるが、その場合にしても公卿になるのは老齢になってからである。能力の高さを誰もが認める人であっても、家柄がふさわしくなければ下の身分に据え置かれることが普通であった。

 貴族たちは、申請処理などの政務や多くの年中行事をこなす必要があった。年中行事というと形式的で無駄なものという印象を与えるかもしれないが、当時は年中行事を滞りなく遂行することこそが政治において極めて重要なことであった。特に正月(一月)は行事や用務が多い。本書では、一月には休みがほとんどなく、仕事を終えての帰宅が朝六時になってしまうある貴族のエピソードが詳しく紹介されており、その多忙さが垣間見える。またこれらの仕事では先例の把握と踏襲が求められており、先例を覚えていないと政務を間違えて処理が滞ったり大恥をかいたりした。公卿が責任者、諸大夫が中間管理職、侍が末端の現場対応と見れば、現在の役所などの体制にも近いと著者は説明している。

平安後期~院政

 平安時代の後期には、摂関に代わり上皇が権勢を振るう院政の時代が始まる。しかし、そもそもなぜ退位した天皇が権力を持てるのか、それがどのような影響を及ぼしたのか、はなかなか分かりにくい。美川圭みかわけい・著『院政——もうひとつの天皇制(増補版)』(中公新書)は、複雑な院政の状況を軸として、摂関期後から鎌倉時代までの歴史を紐解いていく。

 院政は白河天皇の譲位で始まるとされることが多いが、著者はその父である後三条天皇の譲位に院政の萌芽を見る。後三条の譲位も白河の譲位も、もともとはともに自らが望む後継者[5]に確かに王位をつないでいくための方策であった。ただし後三条は譲位後にすぐに亡くなってしまうため、院として権力行使をする時間はなかった。白河―堀河ラインの正統性は弱いところがあったが、摂関家嫡流の藤原師実は養女を白河の妻に入れていたため、白河と師実は協力して王統確立を進めた。しかし師実以降、摂関家は天皇家に外戚関係を築くことがなかなかできなかった。その結果、摂関家は上皇に認めてもらうことで摂関の地位に就くということとなり、摂関に対する上皇の権威は大きく上昇した。

 天皇家と摂関家は、それぞれ独自の財源として荘園を集め、それぞれ独自の武装勢力を抱えた。こうした軍事力は、もともとは寺社の強訴や地方の反乱に対抗するために作られたものであったが、それは各自の勢力争いにも不可避的にかかわるようになった。保元の乱は、院政を行えなかった崇徳上皇に焦点が当たることが多いが、著者はむしろ後白河天皇の天皇家と藤原忠実・頼長の摂関家の衝突という側面を強調する。こうした衝突は、摂関期ならば朝廷内の政争で収まっていたが、自前の武装勢力を抱えることでそのような平和的解決ができなくなってしまったのである。

 このような中で台頭したのが平氏一門であった。源氏と比較した場合、平氏は軍事的貢献だけでなく造寺などの経済的貢献を行っていたことが、当時の貴族から評価される点であった。逆に源氏は滞納が頻発し粗暴な行動が多いため、院政の秩序を擁護するどころかむしろそれを妨げる存在として煙たがられた。ちなみに、のちの平氏没落の要因として、平清盛が天皇の外戚になろうとした点を挙げる(貴族のような発想に陥った)論もあるが、著者は源頼朝もまた外戚になろうとしており、それは当たらないと論じている。

 後白河は院政を敷くが、その力はこれまでの院政と比べて弱いものであった。後白河は鳥羽上皇の大規模な荘園をほとんど継承できず、経済的基盤も乏しかった。一方、後鳥羽上皇は承久の乱の敗北のイメージが強いが、実際にはかなり強い権威を有していた。相変わらず天皇家は最大の荘園保有者であり、内紛と騒乱で混乱していた鎌倉幕府よりも優位であった。著者は、後鳥羽は源実朝を懐柔して鎌倉幕府を操作しようとしていたのではとみている。


[1] ただし寿命が長くない当時においては、摂関に就くのは外祖父ではなく外伯父・外叔父の場合が多い。外祖父が摂関に就いた事例は良房、兼家、道長の三例にとどまる。

[2] 本書では、「キサキ」を天皇と夫婦関係にある女性全般、「后」をその中の最高位である皇后、を指す呼び方として使い分けられている。

[3] 落窪物語の少将は妻がいない設定だが、これは当時の状況としてはかなり不自然な設定だと著者は述べている。

[4] これは身分の名前であり、のちに用いられるような武士という意味ではない。

[5] 後三条にとっては実仁親王、白河にとっては善仁親王(のちの堀河天皇)が望む後継者であった。

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