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イナダシュンスケ|牧歌的うどん店

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第16回
牧歌的うどん店

「牧歌的」という言葉があります。自然の中で牧人が歌う歌のような、飾り気がなくのんびりした様子を言います。
 飲食店というのはおおむね、この「牧歌的」の対極にあります。常にせわしなく、そして時に世知辛い。一見優雅に見える店もありますが、それは水鳥と同じです。水面下ではいつでも必死に足搔あがいている。しかし僕は過去に一度だけ、本当に牧歌的な店に出会ったことがあります。学生時代の話ですから、もう30年以上も前のことです。
 その店はうどん屋さんで、京都の、観光客も多く訪れる神社の敷地内にありました。緋毛氈ひもうせんの敷かれた縁台も置かれ、茶店も兼ねていました。
 場所が場所だけに、お客さんは放っておいてもいくらでも来ます。だからでしょうか、値段はいささか高めでした。茹でたうどん玉を仕入れて使うごく普通のうどんでしたが、それがだいたい巷の1.5倍くらいの値段でした。言うなれば既得権益です。
 しかしその既得権益故か時給もキリ良く1000円と当時の相場にしては高く、学生相談所でたまたまその求人を目ざとく見つけた僕は、早速そこで働き始めたのです。
 当時僕は興味の赴くままに、単発の求人を中心に、気になったいろんな飲食店でアルバイトをさせてもらっていました。そんな中で僕は、飲食店というものは、いったん中に入ってしまえばどこもせわしなく、そして時に世知辛い、ということを既に知っていました。ところがそのうどん屋さんだけは、あきらかに例外的でした。なんだか全てが「牧歌的」なのです。

 そのうどん屋さんは、店主さんご夫婦と店主さんのお母さんで営まれていました。典型的な家族経営です。観光客が行き交う境内の端に佇むその店は、はたから見ていかにものんびりとした情緒に溢れていましたが、お店の人たちも、やっぱりなんだかのんびりと働いているように見えました。
 お昼時は多少混み合うこともありますが、オフィス街のランチタイムのように、短時間で集中的に混雑するようなことはありません。そしてお客さんはおおむね、時間に余裕のあるのんびりとした観光客ばかりですから、せわしなさとも無縁です。そしてお昼時を過ぎても、境内を行き交う人々の中の幾人かが常に一定数立ち寄ります。緋毛氈の縁台に腰掛けて、やっぱりのんびりとうどんを啜ります。
 ダシは僕が出勤するより前の朝のうちに、たっぷり引いてあります。うどんは既に茹でられたものが玉になって届けられます。天ぷらも天ぷら屋さんから毎朝届きます。あとは京都ならではの「きざみきつね」用のお揚げさんや、肉うどん用の牛肉などが用意されます。店主であるお父さんは注文のたびにうどんをさっと温めて、つゆを沸かして、必要ならそこでお揚げさんや葱をさっと煮て、一杯のうどんに仕立てる。それがのんびりとコンスタントに、夕方までの数時間繰り返されるのです。
 うどん用のタネを転用した「衣笠丼」のような丼物のメニューもありましたが、それがうどんとセットになったような「サービスセット」的なものはありません。京都のうどん屋さんでは定番の、だし巻きなどのおばんざいがいくつかついた「うどん定食」もありません。店主は一杯ずつうどん、もしくは丼ものを、コンロの前から一歩も動くことなく、ものの数分で仕上げ、おかみさんとおばあちゃんがそれを運びます。
 アルバイトの仕事は、おばあちゃんの代わりにその仕事をして、おばあちゃんには奥で休んでもらう、それだけです。それで時給1000円は破格でした。

 アルバイト初日、お昼時のピークタイムとも言えないピークタイムが一段落した頃合いに、まかないの時間になりました。
「品書きから何選んでもええで」
 という店主さんに、僕は肉うどんをリクエストしました。ところが店主さんはこう言います。
「肉うどんじゃ足らんのとちゃう? 肉丼にしとき。うどんはうどんで付けたげるから」
 数分後、僕のために用意されたのは、肉丼のご飯倍盛り、そしてお揚げさんと九条葱も少しだけ入ったうどんでした。
 まずはうどんのつゆをひと啜り。あまりのおいしさにびっくりしました。僕は京都に来て以来、どこで何を食べてもダシがおいしいことに感激していましたが、それはその中でも確実にトップクラスでした。もしかしたらここは、単にのんびりしてて仕事も楽ちんなだけの店ではないのかもしれない、と思い始めました。

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