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門井慶喜「天下の値段 享保のデリバティブ」#003

かつて経済の中心には「米」があり、それは「証券」や「先物」に姿を変え、金融派生取引デリバティブを発生させた。「金融市場マーケット」の誕生である――。
大坂堂島に実在した「米市場」を舞台に商人vs幕府の闘いを描く一大エンターテインメント。今回は、大坂に帰ってきた垓太が米仲買「犬橋屋」として久々に市場に足を踏み入れるところから始まって……

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第2章(承前)

 全体に、どうじまこめいちは、まず2種類の建物がある。
 ひとつはこめかいしよである。市場全体を統括する本部のようなもの。具体的にはこめなかがいの監督、紛争の裁定、相場情報の記録と公開などをおこなう。
 もうひとつの建物はけしあいで、これは清算所である。主としてちようあいまい(先物取引)の清算をおこなう。
 米会所と消合場は、ならんで道の北側にある。川とは反対の方角である。逆にいえば道そのものには何もないので、この空間が、つまりは無数の取引の生まれる現場というわけだった。
 よどばし時代に路上で売買をおこなっていた習慣が、そっくりそのまま引き継がれたのである。ただし「青空市」のごとき呼びかたが適切かどうかは疑問である。なぜならここでは相場の立つ期間内であるかぎり、雨の日も、風の日も、雪の日も、つねに人が集まって騒がしく売り買いの話をしているからである。おおさか堂島米市場は全国の注目の的であり、それによって暮らしを左右される者がたくさんいる以上、雨天中止はないのである。
 もっとも、この路上の空間も、単一の機能を持つものではない。おもに2つの区域にわかれている。
 壁や線はないものの、何となく人の集まりが割れているのでそれとわかる。ひとつはしようまい商いの立会場だった。正米といっても米俵がごろごろ転がっているわけではなく、人々はただ紙きれのやりとりだけをしている。
 紙きれは米切手である。手のひらよりも大きな縦長のそれ、1枚につき10こくの価値を持つことは昔とまったく変わらない。約30年前、しゆうから来たよしむねに見せたのはこの取引の様子だったわけだけれども、巨視的に見れば、こちらはむしろ少数派だった。
 これよりもはるかに多くの米仲買たちが、もうひとつのほうへ集合している。占有面積が圧倒的に大きく、200人ほどもいるだろうか。
 すなわち帳合米の立会場である。がいはそっちへ歩いて行って、人の群れに突っ込もうとして二の足を踏んだ。
「……!」
「…………!」
 かなえの沸くがごとき米仲買たちの叫び、叫び、叫び。
「…………!」
「………………!」
 何を言っているのかわからない。怒号が飛び交っているとしか聞こえない。よほどの揉めごとが起きたのだろうか。
 いや、垓太は過去に多少の経験があった。耳が慣れるとちようがわかり、意味がわかる。まるで霧が晴れたように、
「売るでえ。売るでえ。55もんめふん! 4分! 4分で100石! 誰かないか誰かないか」
「買うでえ。55匁3分、3分! 300石! 買う買う」
 なかには、
「55匁3分や3分。200石!」
 などと、売るとも買うとも発声しないやつもいるけれど、実際にはみんな頭上に手をかざしていて、売りたければ手のひらを人に向け、買いたければ自分のほうへ向けて見せている。
 市場共通の手信号である。買う者のなかには指を折って「おいでおいで」の動きをしているのが幾人もいるが、よほど興奮しているのだろうか、それとも一種の景気づけなのか。
 これに対して、
「それ、買う!」
「売る!」
「その55匁4分300石、わしや、わしや」
 などと応じる声もさかんである。最初の叫び手が、
「よし、あんたや! あんたに売った!」
 などと決めればやくじようである。ひとつの売買の成立。誰も応じない場合は、呼びかけるほうが、
「55匁3分! 3分、3分……2分5りん!」
 などと条件を変える。
 ためらわず瞬時のうちに上下させる。当時の米市場では現代の株価のごとく秒の単位で米価が公示されるわけではないけれども、この呼び声の変化がそれに相当していて、無数の米仲買にとっての最重要の判断材料になるのだった。
 きょうのはじめは55匁2分だから、現在はやや上がり調子といったところ。なお実際の取引では煩雑を避けるため、りんもうの端数を使うことはあまりなく、もっぱらふん以上の単位をもちいるが、ときには5厘をきざむこともある。要するに売り手と買い手が合意するなら問題ないのである。
 それにしても、いやはや、すさまじい喧噪である。知らぬ者が見たら果てしなく喧嘩していると思うにちがいなく、現に、或る旅人がこの光景をまのあたりにして故郷に帰り、
「彼らの声があんまり響くので、周囲の建物の瓦が落ちた」
 と言ったという。いくら何でも誇張がすぎるにしろ、感じは出ている。この大さわぎが、繰り返すけれども晴れの日はもちろん、雨の日も、風の日も、雪の日も、天下の公道でおこなわれるのである。
 その群れの様子を、垓太はいわば外周部でうかがいつつ、
(このどこかに、はり屋さんもいた)
 と思ったりした。すけもんちようの播磨屋がおけいの買い注文を通して500石買ったのもまさしくこの市場においてであり、その後、垓太の予想どおり相場が上昇に転じたのを受けて売り埋めてもらったのも、まさしくこの光景のなかでのはずだった。
 きょうからは、代理店には依頼しない。
(俺自身が)
 ためしに爪先立ちになって、
うた!」
 と言ったら、顔も知らぬ人が叫ぶのをやめ、垓太の顔を手で示して、
「よし、売った!」
「え」
「わしすけばしえびす屋や。ん? あんた新顔やな」
ばしいぬはし屋です」
「おお、おお、犬橋屋。こうきちはんのあとぉ継ぎはったんやな。お帰り。おけいさんは元気にしとるか」
「は、はい」
「大事にしいや。あれはええ子や。ほな、手打ち」
 戎屋はそう言うと、両手を胸の高さに上げ、手を叩くぞという姿勢を示した。
 垓太も、おなじようにする。呼吸を合わせて、ふたりいっぺんに、
 ぱん
 拍手一発。約定の合図にほかならなかった。そうしたら場内を巡回している役人が来て、腰から拍子木を抜き出して、左右の手に持って、
 チョーン
 チョーン
 その音は、ながながと尾を引いた。きっと川の向こうにずらっと並ぶ全国の大名の蔵屋敷にまで届いたにちがいない。垓太はそう思いつつ、
(おっと)
 自分の義務を思い出している。横を向いて、
ちようすけ。たのむ」
「あい」
 長助はうなずき、腰からたてと、帳面のようなものを1冊取って、さらさらと書きつけた。書きつけの中身は、垓太がこれこれの人と、これこれの値で、これこれの単位での「買い」に合意したというもので、最後にそれをビリッと剝ぎ取って、1枚のさしがみとした。
 戎屋にも、戎屋の小僧がいる。やはり前髪を剃っていない、12、13歳くらいの男の子。こっちと同様さらさらと取引内容を——戎屋から見ての「売り」のそれを——記録して、いちばん上の1枚を剝いだ。
 ふたりの小僧はおたがい紙を見せ合って、まちがいのないことを確かめるや、
「ほな!」
 と、それぞれの主人へ目くばせして、ふたりならんで駆けだした。
 行く先は、消合場である。道の北側の建物のひとつ。そこにつめているこめかたりようがえだいに差紙を提出して、この取引を、もはや誰も動かすことのできぬ天下歴然のものとするのである。
 はしぼうの名のゆえんである。そのいたちのようにびんしような背中を見送りながら、垓太はつかのま、
(なつかし)
 この末端事務というか、伝票処理というか、文字どおりの使い走りを、かつての自分もやっていた、そのことを思い出したのである。
 使い走りとはいえ万が一にも間違いがあってはならないので、毎日ずいぶん緊張して、1日が終わるころには筆を持つ手も力が入らず、うっかり取り落としたこともあったっけ……いま見るところでは、この市場には250人くらい同役の児童がいる。
 大人の米仲買が約200人なのだから、いささか多すぎるようだけれども、これは1人の米仲買が2人も3人も連れて来ている場合があるからにちがいない。あの子らはみんな、むかしの自分とおなじなのだろうか。みんな緊張しているのだろうか。
(せいぜい、気張りや)
 とにかくこれで取引はひとつ終了。垓太は一礼して戎屋から離れ、ふたたびひとりのゆうよく者となった。それにしてもこんなにあっさり約定するとは思わなかった。かたちの上では1石あたり55匁3分で100石の米を買ったのだから、垓太はつまり、この数秒で5貫530匁もの大金を手ばなしたと見ることも可能だけれども、実際にはただの1粒も米の現物は手に入れておらず、米切手もなく、現銀の授受もしていないのだから、世間普通の感覚では、はたして「買った」といえるかどうか。
 むしろ「買うという名の取引をした」と言うほうが適切かもしれない。単に数字を動かしただけ。垓太はこれから、最終的には、いま買ったぶんを売り埋めることをしなければならず、厳密にはそこで損益がひとつ確定するのである。
 その売り埋めの相手はさっきの戎屋でもいいが、他の相手でもかまわない。要するに同業者ならば誰でもいいので、どんどん新しい相手を見つけては売る、買う、売る、買う、売る……見ようによっては転売に次ぐ転売である。
 垓太はそれを何度やるのか。10度? 20度? わからない。いずれにしても一定の大きな結果が出るのは、
(7日後や)
 これは垓太のみならず、すべての米仲買がそうなのである。いったいに堂島の米市場では年を3期にわけて取引をおこなう。1月から4月の春相場、5月から10月の夏相場、10月から12月の冬相場である。
 いまは7月後半、夏相場のまっさいちゅうで、きりいちすなわち最終日は10月8日。2か月半ほど先であるが、この2か月半はさらに細かく区切られて、10日ごとにけしあいというのが設定されている。
 消合日とは、すなわち中間清算日である。米方両替がひとりひとりの米仲買について差紙を集め、売りと買いを差し引きして、お金のやりとりを命じる。
 これを米仲買から見れば、益銀、損銀の授受をしなければならないということである。益銀、損銀どちらにしても大部分の者は適度な範囲に収めるだろうが、なかには過度の取引をして、大福長者になる者も、無一文になる者もいるかもしれない。
 中間清算日ではあるが、場合によっては運命の日にもなるのである。垓太のごとき新参者にとっては今後をぼくする意味もあるので、よりいっそう強く意識せざるを得ない。前回の消合日は3日前だった。次回は7日後。垓太は、
「よし!」
 歩きつつ、こぶしで胸をたたいた。
 たたきつつ、視線は次の相手をさがすことに余念がない。米仲買たちは相変わらず買い値、売り値を叫びつづけている。あるいはそれに応じつづけている。若い者。初老の者。背の低い者。高い者。胸を張っている者。猫背の者。むやみと無駄口をきく者。仏頂面の者。にこにこしている者。日に焼けた者。声の渋い者。耳の遠い者。むやみやたらと汗をかいている者……狭い土地にこのちゆうみつさである。選ぶ相手はほとんど無限、人物の見きわめも取引のうち。
 垓太はひとつ息を吐き、空を見た。いつのまにか太陽は高いところにある。川のにおいが強くなった。あちこちで拍子木のチョーン、チョーンが鋭く響いていることからすると、もしかしたら、きょうは出来高が多くなるのかもしれない。

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