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門井慶喜「天下の値段 享保のデリバティブ」#002

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第1章(承前)

「あんたら」
 と、口をはさんだのはまつ右衛もんだった。周囲へさっと目をやって、
「見てみい」
「へ」
 と、おけいもつられて左右を見る。いつのまにか庭には野良着の百姓が14、5人いて、少し距離を置いて、まるで巨大な毒虫でもいるかのようにげんな顔をこっちへ向けている。松右衛門が、
「きょうはこめきさせとったから、帰りが早いんや。聞かれとうない。けんのんな話は、家のなかで」
 体の向きを変え、母屋のほうへ歩きだした。松右衛門は庄屋である。庄屋というのは代官のかわりに年貢を集めたり、用水路の管理をしたり、ときにはすけごうと称して近隣の宿へ人や馬を派遣したりする、或る意味、地方行政のちようである。
 いくら遠いの話でも、権力批判には敏感にならざるを得ないのだろう。玄関を上がり、奥へ進み、台所の横ののささぬ一室に入ると、松右衛門があぐらをかいて、
いち
 とがいを呼んで、
「さいぜんから気になっとったんやが、あんたの名前は、一太やないのか」
 双子の弟と姉がそれぞれ、
「一太です」
「垓太です」
 同時に返事して、それから同時に正座した。おけいが間を置かず、
「松右衛門さん。おおさかの街には19年前までよどいうおおだながありましたが、うちらそこの番頭の、じん右衛もんいう者の息子と娘です。この人の名は垓太。数字のくらいから父がつけました」
「数字の、位?」
「はい。一、十、百、千、万、億、兆、けいがい。それくらいの大器になるようにて。あんた」
 と、おけいは垓太のほうを見て、
「どんなつもりか知らんけど、よりにもよって一太なんて名乗っとったんか。がらのかぎりやないか」
 指をそろえ、垓太の膝をぴしゃっと打った。垓太が苦悶の表情を浮かべた。おけいはまた松右衛門へ、
「うちの名は、ひとつ下の京の字から」
 松右衛門は目をむいて、
「そうか、あんたら、あの淀屋の……ただ者ではないと思うとったが、やはり一太は、いや垓太か、根っから商人の血だったんやね」
「……」
 垓太が下を向いてしまう。あたかも過去の悪事を指摘されたかのごとく。おけいはその横顔へ、
「あんた、ここで何しとったん? 顔も手も日に焼けてへんし、爪のあいだは汚れてへん。すきくわ取っての野良仕事やないやろ」
 垓太は下を向いたまま、ぽつりと、
「52もんめ
「え?」
「きのうのはじめ
「あんた」
 おけいは絶句した。自分はおとついのそれしか知らない。きのうは朝早くに店を出たから。
 そのおけいの知らないきのうの始値を、どうしてこんな大坂から6里も離れたでんしゆうふんぷんたる家で知ることができるか。垓太はさらに、
「きょうの始値は51匁1分。きのう1日で1匁1分も下がっとる。大火のあとでは、こんな下げ幅ははじめてや」
 口調が淡々としているだけに、かえって数字の正確さが刃物のように鋭く響く。おけいは、
「あんた。あんた……きゃっ」
 正座したまま跳び上がったようになり、口に手をあてた。
 別の事実に気づいたのである。じつはおけいも、いま手もとに500こくほど持っているのだ。
 なぜなら最近、こめいちは再開したものの、大名家はたいてい蔵屋敷が焼けてしまって米の現物がない。
 ほとんどふつていの状態である。こうなるといくら切手の取引であっても価格に反映しないわけがなく、米価はおおむね上がりっぱなし。
 尋常ではない情況だった。おけいはこの傾向が当分つづくと見て、ふだんは相場を張ることはしないのだけれども、今回ばかりは大坂すけ右衛もんちようはりという旧知のこめなかがいのところへ行って、買いを入れるよう頼んだのである。しかもこの買いかたはちようあいまいという一種の先物取引で、現銀(貨幣)の授受はおこなわず、あらかじめ市場で定められたきりいちという決済日までに反対売買で決済する。
 限市は、6日後である。

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