生湯葉シホ初小説、一挙公開! 短篇「わたしです、聞こえています」
私はいがちゃんの足を見ている。
いがちゃんの足はまっ白で、というか手首もその上の腕もまっ白で、一枚の布をつなぎ目なしに縫ってできた人間みたいに見える。いがちゃんは部室のパイプ椅子にあぐらをかいてベースのチューニングをしながら、余っている右手の薬指と小指だけを使って極細ポッキーをつまみ、犬のように口を近づけて食べている。
定期テスト前の部活禁止期間に入ったばかりだから、部室棟には私たち以外の気配がない。全国大会をひかえ、例外的に活動を許可されている弓道部の基礎練の声だけが、校舎の奥にある弓道場からとぎれとぎれに響いてくる。
ゼヤァッ、とかシャウーッ、と言っている気がするけれど、ほんとうはぜんぜん違う意味の言葉かもしれない。前に、基礎練ってなにをするの、と弓道部の成澤さんに訊いたら、「持ってない弓を持ってるつもりで矢を射るんだよ」と教えてもらった。
透明な弓と矢をかまえるだけで、あんなに大きな声が出るものなんだろうか? 運動部の人たちのかけ声はぜんぶ呪文に聞こえる。私は手元でアコギを鳴らして小さくビブラートをかけながら、自分の体からあんなふうにふしぎな音が出たら気持ちいいのかもしれない、と思う。ときどき、ぬるい風がうす暗い廊下の向こうからさざ波のようにやってきて、部室の窓にかけられたカーテンをそわそわと膨らましては消えていく。
春に軽音部の合宿で軽井沢に行ったとき、大浴場で、いがちゃんのふくらはぎを触らせてもらったことがある。
あたし保湿の鬼だから、ちょっくら洗面台を占領するよ、すまないね。そう言って、誰よりも早くお風呂からあがって、ひとつしかない鏡に向かっていた。そっと近づくと、いがちゃんは、獰猛な動物を扱うみたいに髪を乾かしていた。半分濡れたままの長い髪は、いつも外で見ているときより黒々として手強そうに見えた。いがちゃんはうしろから忍び寄る私にはっと気づくと、照れたように、鏡越しに目を寄せて変顔をした。
やさしい鬼、と思う。
遅れてお風呂からあがった部員たちのほうから暑いと声がして振り向くと、脱衣所の扇風機がコンセントから勝手に抜かれて、代わりにいがちゃんのストレートアイロンが挿さっていた。髪を乾かし終えたいがちゃんは、あ~ごめんやでと言いながら、ドライヤーがつながっていた洗面台の壁のほうに扇風機をつなぎなおして電源を入れる。それ、そこにつないでもつくんだ? と私が言うと、いがちゃんは心底ふしぎな顔をして、当たり前じゃん、ぜんぶ同じだよと言った。
「見て、先輩のバスドラ運んでたら筋肉ついてきちゃったんだけど。やばいよ」
アイロンで前髪をはさんだいがちゃんがそう言いながら、着替え途中の私に向かって足を伸ばす。ほんと? と言いながらふくらはぎにこわごわと触れると、違う星の生きものみたいな感触がしたけれど、それが筋肉かどうかはわからなかった。
「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!