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文・児玉雨子「キャッチー・コンプレックス」

 アイドルをはじめJ-POPの作詞発注やコンペ募集メールには、必ずといっても過言ではないほど「キャッチー」という文字が並んでいる。「キャッチー」とは何か。種々あるが、まず複雑ではないもの、そしてリスナーがすぐに把捉できるものが、その前提とされているだろう。

 音楽だけではなく、「キャッチー」はわたしたちのアイデンティティをも侵略してしまった。「〇〇系アイドル」といったような粗悪なコピーは言うに及ばないが、性的マイノリティをあらわす「LGBTQIAPK」や、人種的ルーツを表現するさいの「ダブル」、少し前に流行した「HSP(繊細さん)」など、個々人が抱え、また個々人をかたちづくる複雑性をも記号化させた。だがそうでもしなくては、周縁化された者たちは誰からも語られず、また当事者が語り出しても、話が長い、と聞き流されていたかもしれない。言葉にはことを切り分ける「言刃ことば」という側面もあるとわたしは思っている。言語化することはどこまで行っても暴力的で、しかしそれがなくては他者との境界線を引き、自らを確立することも難しい。「刺さるリリック」や「パンチライン」など、楽曲に対する賛辞の多くが攻撃的なのも、はたして偶然だろうか。

 ところで、わたしは学生時代、作詞仕事と並行して塾講師のアルバイトをしていた。私大文系学生にとっては給料がよかったので、モンスターペアレントになじられても、対人距離感の狂った中年講師からセラミック歯でニタニタ笑いかけられても、なんとか数年間続けた。

 いや、理由はそれだけじゃない。その学習塾は昼間にサポート校も併設していた。サポート校とは、通信制高校に通っていたり、高卒認定試験合格を目指していたりするひとへ学習支援などを行う施設だ。法的には学校ではなく、指導者に教員免許は求められない。けれど修学旅行のような合宿なども行うので、予備校よりも「学校」の色合いが濃い。わたしはあくまで学習塾部門の講師であったが、指導していた中には、昼間はサポート校の生徒として雑居ビルに登校し、夜間はそのまま塾生として机に向かっていた生徒もいた。

 彼・彼女たちがサポート校に来る理由は様々だ。想像にたやすいのは不登校生だろう。あるいはいじめの元被害者。反対に元加害者や、何らかの重大な校則違反を起こして全日制を退学になって来た生徒もいる。その教室だけかもしれないが、元加害者と元被害者、相反するカテゴリーに属するはずの生徒たちは、サポート校では黙って共存しているようにわたしの目には映った。なぜだろうか。反省、希望、絶望、諦観、復讐心、その心情は千差万別だ。わたし自身もかつていじめの被害者だったが、生徒全員の気持ちを、少し言葉を交わした程度で理解できるとは思えなかった。さみしくて恥ずかしくて惨めで死にたくて殺したくて仲良くしたくて。こうしていくら言葉を尽くしても、当時の感情は輪郭を持たず、大人になった今も胸の底で淀んでいる。いわんや十代の彼・彼女たちが、理路整然と端的に内面を語り出せるだろうか。いじめには理不尽で錯綜さくそうした背景や思いがあり、それを言葉でもって解いて編みなおす告白が、長くならないわけがない。

 楽曲作詞の発注に「十代の高校生に刺さるような」と指定されるたび、コロナ禍で「子どもたちの健全な学校生活が奪われている」という嘆声を耳にするたび、当時のサポート校の生徒たちが脳裏をよぎる。彼・彼女たちは、世間が思い描く生徒像からはおそらく逸脱している。けれど確かに存在していたし、今もしている。わたしはJ-POPが好きで、日々から捨象されやすいあえかな心情を、いかに「キャッチー」に、メロディと緊密に乗せられるかを楽しんで書いてきた。ポップスの歌詞の中でしか生まれない表現がある一方、詞を書けば書くほど、小説を書きたいという欲を抑えきれなくなってきた。「キャッチー」じゃない彼・彼女たちの、複雑で、歯切れが悪く、こちらを刺すような鋭い眼光を、あれからずっと忘れられなかったからだ。



児玉雨子(こだま・あめこ)
 作家・作詞家。一九九三年神奈川県出身。明治大学大学院文学研究科修士課程修了。ハロー!プロジェクト所属グループや私立恵比寿中学などのアイドル、声優、テレビアニメ主題歌やキャラクターソングを中心に、VTuberや近田春夫など、幅広く作詞提供。「月刊Newtype」にて短篇小説「模像系彼女しーちゃんとX人の彼」、「BRUTUS」にてエッセイ「〆飯」を連載中。


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