〝心の中〟の文学少女が息を吹き返したのは|株式会社水星代表・ホテルプロデューサー・龍崎翔子の愛読書
私が文学少女だったのは、中学を卒業するまでだった。
ホテル経営者として日々忙殺されながらスマホを眺め続けている今はもはや見る影もないが、かつては実に心から読書を愛する少女だったのである。
「史記」を原文で読みこなすような母のもとに生まれ、幼少期は古典文学の英才教育を受け、保育園ではおままごとに誘われるたびに「お姉ちゃん役」を買って出て、「受験生だから勉強してくるわ」といっては隣の教室にかけこんで、ずっとひとりで図鑑をめくっているような子どもだった。
小学生の頃は、シール交換や筆箱チェックに興ずるクラスメイトたちと過ごす退屈を紛らわすために、昼休みが来るたびに図書室にこもって片っ端から読み散らかしていた。しまいには、なぜか授業中に読書をしていてもいいというお達しまで出て、小学校の最後の方は登校してから下校するまでの間、ずっと本を読んで過ごしていた。
いや、今思えば、文学少女だった、というのは驕りかもしれない。より正確に言えば、単に活字に依存していたのだと思う。
小学2年生の頃、父の仕事の関係で家族で半年だけアメリカに居を移した。突然身の回りから日本語のテキストが失われてしまったことで、活字に飢えに飢えて、地域の図書館の片隅に埃をかぶった小難しい日本語の本を見つけた時には意味も理解できないのにかじりつくように読み耽った。それくらい、活字刺激を身体が欲していた。
少し意外に思われるかもしれないが、本は図書館で読めばいい、という親の方針の影響で、実は我が家にはあまり本がなかった。
共働きの親が帰るのをひとり待つ、留守番の時間。
日付の過ぎた日経新聞や、母の古い雑誌、父の所属する学会の論文集など、家の隅から隅まで活字の束を探して見つけては摂取していた。まさに、文字通り乱読である。
文脈もへったくれもなく、雑に文字情報を取り込んでいただけの私に、豊かな読書体験を提供してくれたのは、意外にも中学受験の経験だった。
小学5年生の頃、母が単身赴任していた関係で、父は男手一つで私を世話する子連れ狼のごとき生活を送っていたのだが、ついに仕事と育児の両立の限界を迎え、平日夜と土日の託児所がわりに娘を中学受験塾に放り込む意思決定をした。
私からしてみれば、どこそこに合格せよというプレッシャーも特になく、戦国武将やノーベル賞学者の話ができる友人にも巡り会い、授業では知的好奇心を刺激される。小学校のシール交換生活に辟易していた人生が、一転して突如、輝き出した。
とりわけ国語の時間が好きだった。
静まり返った教室で、つやつやした紙に文字がプリントされた冊子が配られ、「はじめ」という声とともに一斉に読み始める瞬間。ぴりっとした緊張感が漂うなかで、全身全霊を注いで上質な文章を読む。問いと傍線部の往復運動をしながら、作者の思想や感傷に想いを馳せる。
小学校の図書室には置いていない、地域の図書館ではうずたかい本の山に紛れて見つけられない、評論や小説、エッセイ、詩。断片的に切り取られた物語の世界に没入する、豊かなひとときだった。
その中でも、特に好きだったのが向田邦子だった。
葬式に訪れた上司に土下座する父親の背広姿、四姉弟に食べさせるアイスクリームを作る母の小刻みに揺れるお尻、遠足の日の海苔巻きの端っこ、空襲明けの自宅に土足で上がる前の躊躇い、歌詞をずっと聴き間違えていたラジオから流れる曲。
テレビの画面が切り替わるように、鮮明に、そして物語のように浮かび上がる、幼少期の家族の姿への追憶と憧憬が、あたかも自分の記憶のように蘇って来る気がした。
『父の詫び状』に『眠る盃』、『女の人差し指』。塾帰りに、書店で「む」の棚を探し回って、向田邦子のエッセイをずっと立ち読みした。
私が生まれるより遥か昔に、彼女が飛行機事故で亡くなったことを知ったのは、もう少ししてからのことだった。晩年の彼女が愛してやまなかった猫や、妹と営んでいた小料理屋はどうなったのだろうかと、子供心に心配した。書き手が逝ってしまったその後の物語は、誰にも紡がれなくなっていた。
そんな読書を愛する少女も、中学を卒業し高校に入ってからは受験戦争の大きな波に吞み込まれ、肌身離さず持ち歩くものが本から単語帳にかわり、やがてスマートフォンにかわっていった。たった140字で得られるインスタントな活字刺激に毒されて、読書習慣を手放してしまったのは、もはや現代の悲劇と言えるかもしれない。
19歳でホテル経営を始めた頃には、読書は、仕事に直結する収穫のある書物をどれだけ要点を押さえながら短時間で脳内にインプットできるか、というゲームと化していた。いつの間にか、自分の中で本とは効率よく情報を摂取するための手段にすぎない存在になっていたのである。そして、それなら情報の鮮度が高く、要点が押さえられているネット媒体の方がええやんと、いつしか書店からも足が遠のいていった。
そういうわけで、高校入学以降、最近に至るまで夢中になって本を読むという行為が自分の生活からすっぽり抜け落ちてしまったのである。
転機が訪れたのは、自分が書く側の世界を覗き見するようになった時だった。
ある媒体からのお声がけで、エッセイ連載を寄稿する運びとなった。ホテルプロデューサーとして、日本そして海外を巡る旅で見聞きしたことや感じたことを書くというもので、毎月何を書こうかとあれこれ思いを巡らせていた。
とはいえ、日々カレンダーにぎっちり詰まったスケジュールに追われながら過ごしているわけで、意外と心を動かすような出来事に巡り合えない。ネタがないネタがない、と嘆きながら締め切りに追われ、急いで親指でタッチパネルを叩いて文章を綴る、という生活をかれこれ5年くらい続けている。そして、思うのである。
感情は麻痺する。
会社で伝えるメッセージ、メディアで語る言葉、いつものリアクション。定番のフレーズがあることに安心しているうちに、いつしか感覚や思考すらかつての自分の発した言葉に踏み固められてしまう。言葉という鎧によって、自分の心は守られる代わりに、自分自身ですらも触れられない存在になってしまうのである。
そんな時にこそ、編集者の催促に追い立てられながら無理くり捻り出した言葉が、他のどんな洗練された言い回しよりも、自分の感情を等身大に映し出す鏡となる。自分自身でさえ気づいていない、そして次の瞬間には風化してしまうような曖昧で脆い感覚が、文章を書くという行為を通じて固定されていく。
やがていくばくかの時を経て、その記録を手がかりに解凍して再発見された感情や感覚こそが、ホテルづくりの糧となるのである。
書くという営みを続けていることで、心の中の〝文学少女〟が次第に息を吹き返し始めた。
やはり、今でも、エッセイを読むのが好きである。
幼少期のとりとめもない記憶に、生活の断片に宿る感傷、たわいもないささやかな主張。仕事に活かせるノウハウもなければ、壮大なロマンスや冒険の物語もない。でも、そんな平凡な光景が、脳裏にありありと浮かび、自分の記憶となり感覚となり、溶け合っていく。
人が死んだら、その人の記憶や感覚、体験は一体どこに消えてしまうのだろうかとしばしば思う。いや、たとえ死ななくても、生きることは常に忘却と隣り合わせである。自分自身でさえも、風化していく記憶をとどめることはできない。
そう考えると、エッセイとは墓標なのだと思う。
絶えず未来に向かって引きずられていく身体で、現在そして過去を文字媒体に封じ込める試み。手紙の入った小瓶を大海原に流していくように、果てしなく不毛でありながら、どことなく愛おしい。そんな、どこかから流れ着いた小瓶の封を開けて、誰かの生を受け止める、その瞬間が好きなのである。
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