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ピアニスト・藤田真央エッセイ #58〈魔法のような室内楽――タメスティとの共演〉

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”宝箱”との誉れ高いブラームス・ザールは、精巧で眩い装飾と豊かな響きを併せ持つ素晴らしいホールだ。客席の中央ではブラームスの像が静かに耳を澄ましている。音響の質は別格で、私の代名詞であるまろやかな音が会場の隅々まで減衰することなく響き渡る。ひとたびタッチのニュアンスを変えれば、客席に飛んでいく音色も万華鏡のように変化した。私が最重要視している一音一音の響きへのこだわりを、このホールでは完璧なまでに実現できる。これほどアーティスト冥利に尽きる舞台はあっただろうか。

 本番、客席が満員のお客さんで埋め尽くされても、依然としてホールの響きは素晴らしかった。モーツァルト《ヴァイオリン・ソナタ 第21番》の冒頭は、私とタメスティの3オクターブのユニゾンから始まる。声を潜めて囁くような音色、そして二人が同じ解釈でピッタリ揃えたフレージングは見事だった。この部分は音量のバランスはもとより、音色、息遣い、歌い回しなども共有しなければならない難所だが、それが3回目の公演にしてピタリときまった今、ベストなスタートダッシュを切れたと思わず身を震わせた。
 
 タメスティは私以上に、一音一音に対するこだわりを強く持つ。シューベルト《夜と夢》では「シシシシシ ソシレミ」というヴィオラの旋律があるが、彼は5回続くシの音色を全て違う色で描いてみせた。歌曲であるこの作品を、たとえ無言歌としてヴィオラに歌わせても、タメスティの手にかかれば歌詞が透けて聴こえるようだ。技巧的でない静かな曲でこれほどまでに聴く人の心に訴えかける訳が、彼の音色にはある。

 彼の魔法のような色使いについて、まだまだ語らせて欲しい。《月夜》では「ドド」という旋律をヴィオラが担う。ここは変イ長調からヘ短調へ転調する場面であり、二つの「ド」は同じ音程でもそれぞれ別の意味を持つ。一音目は変イ長調「ラドミ」の構成音としてのド、二音目はへ短調「ファラド」の構成音としてのドだ。タメスティは極めて巧みなニュアンスの変化で、2音の意味をはっきりと区別して示した。まるでモチーフそのものを変えないまま、光と陰影の差でもって全く違った二枚のデッサンを描くかのように。

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