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三上延「シネマバー・ソラリスと探し物」 #003

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 この世にいないはずの綾人が『ビフォア・サンセット』のDVDを借りたと知った時から、郁実はひどく混乱していた。あの夜、常連客たちには自分の知る限りの事情を話したが、真相はまったく分からなかった。次の日に友香にも連絡を取り、綾人の死を知った時の状況を尋ねた。

「恵川のお通夜があった日、お焼香してきた人にたまたま会って話したの。だから間違いないよ」

 彼女はきっぱり言った。噓をついているとは思えなかったが、通話を切った後にうっすら疑問が湧いた。焼香したという人が誰だったのか、友香が説明を避けている気がした。他に事情を知っていそうな人を思い付かず、結局綾人の住んでいた実家に電話をかけてしまった。電話に出たのは綾人の妹だ。彼の口から家族についてほとんど聞いたことはなかったものの、妹がいるという話はかろうじて記憶にあった。

 高校時代のクラスメートだったことを告げ、綾人さんが亡くなったと伺ったのですが、と切り出すと、相手は気を悪くした様子もなく丁寧に説明してくれた。

 綾人は間違いなく他界しており、つい先週三回忌の法要が営まれたばかりだった。両親は綾人の死後に東京を離れ、実家には妹だけが住んでいるという。

「ご存じかもしれませんが、兄は生まれつき心臓に病気があったんです」

 郁実は愕然とした。まったく知らない。小学生の頃に受けた手術で完治したものの、その後も体調を崩しやすかったという。必ず半日で終わるデートを郁実は思い出した。彼の趣味がインドア限定だったのも、健康上の制約がきっかけだったのかもしれない。もともとの寡黙な性格に加えて、大学時代に実家を出たせいで妹とはあまり接点がなかったようだ。交友関係もほとんど分からなかったので、連絡をくれる同級生がいるだけでも嬉しいと言っていた。

 ただ、長年ルームシェアをしていた友人はいて、その友人が出張中に急性の心筋梗塞で亡くなったのだという。

 その話を聞いた時から、漠然とした予感めいたものはあった。

「綾人と一緒に暮らしていたのは、北村先輩ですよね」

 郁実は問いかける。バーのスツールに座っている北村は、記憶に残っていた高校時代の姿とあまり変わらなかった。がっしりとした体付きにいつも見開かれたような大きな目。今、その両目は郁実に向けられていた。

「そうだよ。俺が就職して住み始めたマンションに、まだ大学生だったあいつが引っ越してきた」

 北村は間を置くように、ウイスキーのグラスに口を付けた。

「あいつが亡くなって、ほとんどの遺品はご両親に渡したけれど、俺も何か手元に残しておきたかった……古いレンタルビデオ屋の会員証なら、形見に貰っても問題ないだろうと思った。あいつが愛用していたものだし、金銭的な価値があるわけでもない」

 郁実の喉がひとりでに動いた。まずはどうしても確認しなければならないことがある。訊かずに済ませることはできなかった。

「先輩は、綾人と付き合っていたんですね……恋人として」

 見えない矢で射抜かれたように、北村は体を震わせる。それでも、顔色を変えることなく淡々と答えた。

「付き合ってたよ。十年間、一緒に暮らしてた……お互いの家族は何も知らないし、ほとんど誰にも打ち明けたことはない。ただのルームシェアで押し通してた」

 ふと、北村はカウンターにあるドリンクメニューに触れた。

「よかったら飲まないか。立って話すようなことでもないし」

 確かに緊張で喉が渇いていた。地元のブルーイングで作られているクラフトビールをリストから選んだ。北村が財布を出そうとしたが、郁実は応じずに自分で支払った。

 マスターが無言でタップからビールを注いでいる。意図的に気配を消しているようだ。接客業にけた人に備わった才能かもしれない。郁実たちは彼の存在を意識せずに喋っていた。

 郁実の注文したクラフトビールがカウンターに置かれる。口に含むとかんきつ類のさわやかな香りとほのかな苦みが舌に広がった。

「高校の文化祭で上映会をやろうとして、高城たちが綾人を連れてきた時から、妙な感じはしてた。どこかで会ったことがあるような……最初はただの勘違いだと思ってた。でも文化祭が終わってしばらくして、あいつとたまたま会った時に分かったんだ……まだお互いが小学生の頃、昭和記念公園で一度だけ会ったことがあるって」

 昭和記念公園は市境をまたいで広がっている国営公園だ。綾人が名前も知らない相手に出会ったという場所。

 そういえば、綾人は相手が女の子だとは一言も口にしなかった。郁実が勝手にそう解釈しただけだ。

「あいつも俺も他人に言えない悩みを抱えてた。だから話が合ったんだ。その時のことは俺にとっても大事な思い出だった」

「でも、次の週に綾人と会わなかったんですよね」

 つい責めるような口調になってしまう。北村は苦笑する。

「会うのが怖いって気持ちもあった……後で綾人には何度も言われたよ。あの時、待ち合わせの場所に来てくれてたら、また会うまで何年もかからなかったのにって」

 二人の悩みというのは自分の性的志向にまつわることだろう。怖いという感情は想像できなくもなかった。悩みを共有できる相手を見つけた喜びだけではなく、悩みの正体をはっきり突きつけられる恐怖も感じたのかもしれない。綾人との待ち合わせ場所に行かなかった結果、映画のように数年越しの再会を果たすことになった。

「先輩が気が付いたのはいつ頃だったんですか?」

「年が明けてすぐだった。俺は学校推薦で大学へ行くことが決まっていて、同級生たちと違ってヒマを持て余してた。駅前をぶらぶらしていたら、綾人とばったり会ったんだ」

 心臓の鼓動が速くなった。つまり二〇〇五年の一月。綾人はもう郁実と付き合いだしていた。乾いた唇をビールで湿らせて、郁実は質問を重ねた。

「そのこと、すぐに綾人に言いましたか?」

 まるで尋問だと我ながら嫌になった。しつこく訊かれる筋合いはないのに、北村の答えにはまったく淀みがなかった。

「いや。電話やメールで連絡を取り合うようになったけれど、なかなか口には出せなかった。綾人は君と付き合っていたし、あの時のことを忘れているんじゃないかと思ってた。でもある日映画の話になって。あいつの口から聞いたんだ……どうして『ビフォア・サンライズ』が好きなのか」

 それは子供時代の思い出を語ることに等しい。あの頃、彼の秘密を打ち明けられたのが自分だけではなかったことが寂しかった。

「待ち合わせたのがどういう相手か、あいつは全く話さなかった。でも、その相手と再会したがってることははっきり分かった。うまく行かない現実とは違うから『ビフォア・サンセット』を楽しみにしてるんです、って寂しそうに笑ってた」

「それって、綾人もうすうす気付いてたんじゃないんですか? 先輩がその相手だって」

「確信はなかったらしい……ただ、その、俺であって欲しいとは思ってた、って話は聞いた」

 照れ隠しのように北村はグラスを傾けた。いかつい顔が赤くなっているのは、酒のせいだけではなさそうだ。きりっと郁実の胸が痛んだ。話の核心が近づいている。

「俺は『ビフォア・サンセット』を見に行こうとあいつを誘った。それで何もかも話して、駄目なら諦めるつもりだった。俺はミニシアター系の映画は見ないし、どこでやってるのかも分からなかった。結局、あいつが全部セッティングして、電車で連れて行ってくれたよ。俺から言い出したのにな」

 北村は自嘲気味に笑う。ふと、カウンターの向こうにいるマスターが郁実の視界に入った。顎に手を当てて何か考えこんでいる。

「俺たちが見たのは午前中の早い回で、ポスターの上に『本日上映開始』って貼り紙がしてあった……観客はほとんどいなかった。緊張しすぎてて、他のことはあまり憶えてない。映画はよかったよ。その後、すぐ立川に戻ってきて、別れ際に告白したんだ。あいつは受け入れてくれた。君とはもう別れていて……あいつも俺が誰なのか、薄々気が付いてたって……」

「違う」

 郁実自身も驚くほど冷たい声が出た。やっぱり、と彼女は思った。先輩も本当のことを知らなかったんだ。

「私も同じ日に綾人と『ビフォア・サンセット』を見ています。その時、私と別れていたというのは噓です」

 恵比寿ガーデンシネマでの綾人を思い出す。楽しみにしていた映画なのに、どこかだるげで口数も少なかった。当たり前だ。一日に二度も恵比寿と立川を往復すれば疲れるに決まっている。本命ではなかった郁実がデートをキャンセルされなかっただけでも、感謝するべきなのかもしれない。

「そんなバカな。あいつは確かに君と別れてたはずだ」

 北村は大きく首を振った。

「俺の口から聞くのは不愉快かもしれないけど、あいつはあいつなりに君と誠実に向き合ってたと思う。二股をかけるような真似をするわけが……」

「先輩とのデートは、午前中に終わったんですよね?」

 必死の弁解を遮って、郁実は質問を重ねる。温和そうな北村の顔に戸惑いが広がっていった。

「あ、ああ……でも、それは心臓の病気で後遺症があったせいだ。一日中、歩き回る体力はないんですって、あの日も俺に謝ってた」

 郁実の目の前が暗くなる。グラスを握る手に力がこもった。

「病気のこと、先輩には付き合う前から話してたんですね。私はつい昨日、綾人の妹さんから聞いて初めて知りました」

 北村の顔が青ざめる。この十数年、綾人があの時何を思っていたかを知りたかった。願いは叶ったが、故人の噓を暴いただけになってしまった。

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