二宮敦人 #001「サマーレスキュー ポリゴンを駆け抜けろ!」
幼馴染が、オンラインゲームにログインしたまま行方不明に。
よりによってそこは、犯罪の温床たるアナーキーワールド。
友人を助けるため、少女たちのひと夏の冒険が始まる!
第一章
「千香ーっ。巧己君、来たよーっ」
玄関からお母さんの声。千香は雑誌の山を抱え上げながら、声を張り上げる。
「ちょっと、あと五分でいいから、時間稼いで!」
「何言ってんだか、あの子は中学二年生にもなって。ごめんなさいね、朝から部屋の掃除してるらしくって……」
ああもう、余計なことは言わなくていいのに。おっと。
雪崩を起こしかけた漫画本を背中で受け止める。危ない、危ない。ほっとしたのも束の間、脇をすり抜けて、せっかく押し入れに詰め込んだガラクタたちが転げ出てきた。
「ああ、ああ」
キャラクターもののぬいぐるみ。小学校の頃、わけもなく集めていたペットボトルの蓋。ちょっと背伸びして買ってみたファッション雑誌に、一度も着ずじまいのフリルがついたオフショルダーのブラウス。見るだけで顔が赤くなりそうだ。こんなもの、絶対に巧己に見られるわけにはいかない。
「お母さん、時間稼ぎ、もう五分追加で!」
しまう順番とか、並べ方とか、もうどうでもいい。とにかく視界から消し去らなくては。散らばったものをひっつかみ、次々に押し入れに放り込んでいく。その時だった。ブラウスの下から思いがけずスマイリーフェイスが現われて、手が止まった。
黄色い丸ににっこり笑った顔のシールが表紙に貼られたノート。使い込まれてすっかり色褪せ、ところどころ破れてテープで補強してある。「おひさまおうこく、けんこくけいかく。その①」と下手な字で題されていた。
ぱっと思い出が蘇ってくる。昔大好きだったコンピュータゲーム、「ランドクラフト」のために作ったノートだ。何十冊も作ったっけ。あの頃はいつも、ゲームの世界のことを考えていた。どうしたら住みやすい王国になるのか。どこに道を作って、どこに建物を建てようか。何日かゲームをしていないと、「王様早く帰ってきてください」と声が聞こえるような気すらした。
あの頃はいつでも、胸を張って言えたんだ。
―私が得意なものはゲームです。
ぱらぱらとページをめくると、「おしろのせっけいず」や「おうこくのちず」がいくつも現われた。拙い絵と字だったが、隅から隅までびっしりと、細かく書き込まれていた。
「こんなものに夢中になっていたなんて、バカみたい」
ノートを閉じる。
まだスマイリーフェイスはこちらににっこり笑いかけてくる。なぜか心の奥がちくりと痛んで、千香はしばらく動けずにいた。
「おーい、千香」
すぐ背後からノックの音がして、飛び上がらんばかりに驚いた。そうだった。巧己が来るんだった。まずい、まずい。
「片付けなんかいいからさ、それより大事な相談があるんだよ。入っていいか?」
「だめ! あと三分、いや三十秒」
「あ。悪い、開けちゃった」
扉が開いていくのが、スローモーションのように感じた。追い詰められた千香の体は、しかし最も合理的な行動を取った。右手で座布団を敷き、左手でノートをその下に滑り込ませる。ほぼ同時に足を蹴り出して押し入れの襖を閉じ、何事もなかったような顔で足を揃えて座ると、にっこり微笑んだ。
「いらっしゃい。ごめんね、待たせて」
巧己は、ぽかんとした顔でこちらを見下ろしている。
「今……ブレイクダンスみたいな動きしてた?」
「別に。まあ座って、座って」
「そっか」
巧己はすらりと長い足を邪魔そうに折りたたみ、腰を下ろす。目線が合うと、思わず見とれた。日焼けした肌は精悍で、顔つきも男らしく、自信に満ちあふれていた。昔は転んで泣きべそかいてたのを、手を引いて家まで連れて帰ってやったこともあったのに。
今は彼がただそこに座っているだけで、ちょっと緊張してしまう。
「急に会いたいって、何?」
つい、尖った口の利き方をしてしまった。
「夏休みの宿題が終わらないなんて言わないでよね」
「いやあ、まさか」
「祥一と一緒に夜中まで手伝わされたの、忘れてないから」
「小二の時じゃん、いい加減許してくれよ。あ、おばさん、すみません」
お母さんがコーヒーを持ってきてくれた。
「巧己君、本当に大きくなったねえ。それにずいぶん男前になって。バスケットボール部はどう?」
「突き指しまくりですけど、楽しいです」
「女の子にきゃあきゃあ言われるでしょう」
「あ、言われますね」
「へえ、どんな気分? そういうの」
「嬉しいです、へへ。見られてると、シュートもよく入るんですよ」
お母さんにも爽やかに笑いかける巧己。そんなところがずるい。
千香は黙って角砂糖を二粒取り、黒い水面に放り込んでかき混ぜた。
巧己にかけっこで初めて負けたのは、小学校の四年生だったろうか。その時はまだ、頑張れば次は追い越せると信じていた。だけど巧己はみるみるうちに運動の才能を開花させていき、今ではどんな競技でもかなわない。クラスではぶっちぎりの一番、学年でも一、二を争うようなスポーツマンになってしまった。一方の千香は、マラソンでも徒競走でも下から数えた方が早い始末。近頃では野呂、という名字までバカにされているような気がする。
お母さんが階下に降りていった音を確かめると、巧己は座り直してまっすぐに千香を見つめた。
「なんか、久しぶりだな。千香とこうやって話すのも」
「そうだね」
巧己はいつも部活の仲間や女の子たちに囲まれているので、近づきづらくなってしまった。
「まあ特に話すこともないもんな」
「うん。だから、急に連絡貰って驚いたよ」
下手したら存在すら、忘れられているかと思ってたもの。
「あのさ。もしかしたらなんだけど、祥一の奴から連絡来てないか」
「祥一から? いや、ないけど」
巧己は困ったように顎をかいた。
「うーん。やっぱりそうか。だよな」
祥一なんて、巧己よりもっとひどい。彼の目には千香はおろか、クラスメイトは誰一人映っていないのではなかろうか。一緒に遊んだ記憶は小学校五年生くらいまで。だんだんと疎遠になり、今では口も利かなくなった。喧嘩をしているわけではない。いつも難しそうな本を読んでいて、話しかけても気づいてくれないのだ。千香が祥一の動向について知るのは、もっぱら校内の掲示板でだけ。試験で学年一位になっていたり、文芸部でもないくせに文学評論コンクールでしれっと優秀賞を取っていたり。
孤高の存在だった。
どの科目も平均点ぎりぎりで、小説一つ最後まで読めない千香からすると、巧己以上に遠く感じられる。
「何か祥一に関係した話なの」
「ま、な」
そこで巧己はきょろきょろと室内を見回した。
何か探しているのかな。大丈夫。見られてまずいものは、全部隠したはず。
「千香って最近、何してんの」
「何って」
「ゲームは? 相変わらずやってるんだろ」
座布団の下で、四角い角がお尻にちくりと突き刺さる。
自分でもびっくりするくらい低い声が出た。
「やらないよ、ゲームは。もう」
「えっ」
巧己は驚いたように目を丸くした。慌てて千香は取り繕う。
「いや。だって、ちょっと子供っぽいもん」
「そっか。まあ、うん。でも意外だな、千香と言えばゲームだと思ってたから」
「小学校まではね。でもゲームなんて、どれだけやり込んでもただのデータでしょ。馬鹿らしくなっちゃって。私はもっと自分のためになることをしたいんだ」
巧己や祥一がどんどん自分の世界を広げて、みんなに評価されているように。
「へえ?」
「たとえばそうだな、語学とか。見て、英会話始めたんだ」
机の上に広げておいた教材を指さして、さりげなく巧己の様子を窺った。まだ最初の方しかやってないけれど。
「絶対無駄にならないでしょ。将来は世界を舞台に仕事ができるような人になりたくて」
「そっか、ふうん」
しかし巧己はちらりと机を見ただけで、あまり興味がなさそうだった。
「じゃあこんな相談をしに来たのは、迷惑だったかもしれないな」
困ったように目を伏せている。
「何なの。一応、言ってみてよ」
しばらく巧己はコーヒーを見つめて逡巡しているようだったが、やがて顔を上げた。
「これさ、冗談でもなんでもなくて、真面目な話なんだけど。祥一がゲームの世界に行ったまま行方不明、って言ったら……お前、信じる?」
あの祥一が、ゲームをしている。普段はちょっと抜けているのに、一度スイッチが入ると他人の声も聞こえなくなるほど集中してしまう。真剣な瞳に映る、カラフルな光。そのまま画面にふいっと吸い込まれ、忽然と姿を消してしまう。後にはつけっぱなしのゲーム機だけが残されている。
そんなイメージが浮かんできて、千香は慌てて首を横に振った。
まさか、そんなことありえない。
まだ、いつかのように信じているのかな。画面の向こうにはもう一つの世界があって、ゲーム機はその世界に繫がる扉なのだと。
ゲームをしている間、千香は向こうの世界の住人だ。そこで思いのままに歩いたり走ったり、冒険したり敵と戦ったり、ご飯を食べたりベッドで眠ったりする。本当の自分はソファに座って画面を見つめているなんて、すっかり忘れている。
「ご飯だって言ってるでしょ!」とお母さんの怒声が響き、ブチンと電源を抜かれてしまうまで。
そんなゲームが「ランドクラフト」だった。
スウェーデンのゲーム開発会社によって十年前に発売されたこのゲームは、世界中で売れに売れ、今や売上本数は二億本を突破。世界で最も売れたゲームになった。日本でも小中学生を中心に大人気で、小説や映画が作られたり、学校で授業に組み込まれるなど、もはやゲームの枠を越えて愛されるようになりつつある。
でも、千香が小学校入学を控えた頃は、まだコンシューマーゲーム機に移植されておらず、パソコンでしか遊べなかった。だから知る人ぞ知る「ちょっと変わったゲーム」であり、本来なら千香にも接点はなかったはずだ。
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