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麻布競馬場・誕生前夜――それでも僕は、東京にしがみつく

WEB別冊文藝春秋

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2021年10月にTwitterに小説の投稿を始めて以降、人々の心をざわつかせ続ける匿名アカウント「麻布競馬場」。東京に疲弊し、それでも東京に生きることをアイデンティティとせざるを得ない人々をシニカルに描きだす彼の作品は、「タワマン文学」として多くの支持を集めています。
彼は、なぜ今日も小説を投稿し続けるのか――。
9月5日、ショートストーリー集『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』を刊行したばかりの麻布競馬場に、その来し方を綴ってもらいました。


 暇さえあればいつも「スーモ」を見ている。別に常に引っ越し願望があるわけではなく、ただ単純に、様々な街の様々な物件を眺めて、そこでの暮らしを想像するのが好きというだけの話だ。気になる街や物件があれば、特に引っ越す予定もないのにふらりと見に行ったりもする。おいしいパン屋さんが見つかったりすると得した気分になるし、パンをいくつか買って帰って、寝坊した朝にそれをモソモソ食べながら、毎日ここのパンが食べられたら最高だろうなぁ、とか想像して、かといって別に引っ越しを決意するわけでもなく、自宅の白金高輪のマンションで一日をぼんやり過ごす。そうやって東京を徘徊して、そうやっていくつもの日をぼんやり過ごすうちに、上京してからもう13年が経った。

 僕が東京に出てきて最初に住んだマンションは、厳密に言うと東京ではなくて、東横線で多摩川を渡った先にある神奈川県川崎市の、新丸子駅からほど近いマンションだった。割と大きなマンションで、最上階には大家さんが住んでいて、朝になると大家さんの息子(息子と言っても40代くらいに見えた)が竹箒でエントランスを掃いていて、暗いけど清潔なエントランスのオートロックはよく壊れて開きっぱなしになっていて、四階の南向きの僕の部屋からは、背の低い商店街の建物越しに、当時まだ数えるほどしかなかった武蔵小杉のタワマンがよく見えた。
 家賃6万。20平米もない狭い1K。フローリングは古くなってささくれ立っていて、その継ぎ目のあたりから小さな木片が剥がれるたび、僕は駅前の東急ストアで買った接着剤で補修しなければならなかった。もう一度あそこに住めと言われたらもうごめんだと笑うだろうが、地元を離れて初めての一人暮らしだったから、不動産屋さんから受け取った鍵を初めて差し込んだときの高揚感を、僕は未だに忘れられずにいる。
 
 そんな高揚感はすぐにしぼんだ。人生の決勝戦であるはずの大学受験に「勝ち抜けた」と思っていたら、次は勝ち抜けた連中たちとのまた新しいトーナメント戦が始まった。大学には色んな人がいた。お父さんが有名人だとか、ニューヨークからの帰国子女で英語がペラペラだとか、生まれたときからシード権を持った連中が掃いて捨てるほどにいた。実際には掃いて捨てられるのは僕たち一般庶民の方だった。僕が期末試験でAを取れないのも、インターンの選考に通らないのも、きっと生まれのせいだと自分に言い聞かせた。マンションの入り口を竹箒で掃く大家さんの息子すらも「親ガチャ」の勝ち組に思えた。窓から見える武蔵小杉のタワマンのひとつに、嫌いな同級生が住んでいると聞いた。世田谷あたりに実家があるのに、慶應の合格祝いにそこの1LDKを買ってもらったのだという。自分の部屋の窓から見える景色が急に嫌いになった。でもマンションの向かいのパン屋さんのカレーパンはおいしかった。いい街だったと思う。

 それでも僕なりに頑張って、それなりに名の通った会社の内定を取った。そこでも僕なりに頑張って、それなりのお給料を貰った。新丸子から麻布十番に引っ越した。家賃12万。前よりは多少広いけど、それでも24平米の相変わらず狭い1K。明るい色調の、きちんと貼り直された真新しいフローリングの上に、僕はイケアで買った、これまた明るい色調の家具を所狭しと置いた。大きな観葉植物を置くスペースはなかったから、小さなエアプランツを買って飾った。僕は、親から貰ったものなんかじゃなくて、他ならぬ自分自身の努力と才覚によって人生を前進させることができたのだと、ベッドに腰掛けて部屋をぐるりと見渡しながら、そんなふうに思った。

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