ピアニスト・藤田真央エッセイ #69〈ロンドンを熱狂の渦に――BBCプロムス・デビュー!〉
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日本食を愛する私にとって、ロンドンは欧州で最愛の場所と言っても過言ではない。一風堂、丸亀製麺、CoCo壱番屋などなど、道を歩けば右に左にたくさんの日本食レストランが目に入る。これはベルリンではあり得ない光景だ。この日の私は半ば吸い込まれるように一店のラーメン屋さんに入ってしまい、気づいたら替え玉まで頼んでいた。恍惚、夢見心地……ああ、ロンドンに来て良かった! 日本特有の”DASHI”の猛威にやられてしまう。
今回私はイギリス最大のクラシック音楽祭、BBCプロムスにデビューするためにロンドンへやってきた。この老舗プロムスでは「気軽に音楽を楽しむ場」という精神が1895年の創設時から唱えられ、7月~9月の8週間に実に100以上の演奏会が行われる。メイン会場であるロイヤル・アルバート・ホールのチケットはわずか数ポンドから手に入り、例年の来場者は30万人超。さらには英国各地に設けられたパブリック・ビューイングのほか、TVを通して多くの人々がこの夏の風物詩を楽しむという。前述した通り、私のプロムス初陣の曲目はドヴォルザーク《ピアノ協奏曲 Op.33》。人生一度のプロムス・デビューをマニアックな作品で飾るのは、私らしいではないか。
ロイヤル・アルバート・ホールは朝早くから厳重な警備だ。指定された入口でパスポートを提示し、顔写真付きの入館パスをもらう。このパスは常に首から下げるよう指導された。業界に顔の知れた私の事務所の社長までがこれを終始ぶら下げているのだから、よほどのことだろう。さすがBBC(英国放送協会)の運営するフェスティバル、どうやら普段のコンサートとは毛色が違うようだ。
廊下に展示された写真を辿れば、その歴史の厚みに圧倒される。モハメド・アリのボクシング試合、ジャネット・ジャクソンのコンサート、さらには大相撲の寄席……。
クラシック音楽の専用ホールではないが、格調高く美しい建物だ。期待を胸にステージへ進むと、あまりの広大な空間に息を呑んだ。赤を基調とする美しいカーテン付きボックス席がホールを囲うようにずらっと並び、その上部から天井までが座席でびっしりと埋められている。その収容人数なんと、6500人。しかも、ピアノの真下(日本のホールがふつう「1階席」と呼ぶ場所)に座席はなく、立ち見席として解放されている。これまでたくさんのホールを訪れたが、これほどの収容人数、そして巨大な会場で演奏を行うのは初めてだ。
一体、この空間で楽器の音はどのように響くのだろう、うずうずしてきた。早速ピアノの前に座り、鍵盤に手を添える。一フレーズ弾いて気が付いたが、会場の煌びやかで荘厳な雰囲気とは裏腹に、あまり上質な響きではない。全ての音がドライにはっきりと耳に届くようだ。ピアノ自体もあまり音色に富まず、容易に遠くへ飛ぶような硬質な輪郭をしていた。この場所あってのこの状態のピアノなのだろうが、私は大いに頭を悩ませた。ふつう、指の力加減だけで音色を変えられることができるが、このピアノの元々の音色は、なんとも無機質で扱いが難しい。ペダルを使用しなければ変化しないほどに単色だったのだ。ステージ上で練習できる1時間を余すことなく使用し、楽器を手なずけようと努力した。
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