「野暮でいこう」種村季弘が教えてくれたこと――ゲームさんぽ・いいだの愛読書
「ゲームさんぽ」というYouTubeの動画をご存じだろうか。さまざまな分野の専門家と一緒にゲームで遊びながら対話していく“教養系”の番組で、私は一連の動画の企画・制作をしている編集者だ。新卒の社会人としては美術の教科書編集者になったが、その後ウェブ記事の編集者を経て、動画の制作をするようになった。今回は私の愛読書ということで「編集者として持つべき基本姿勢を教えてくれた一冊」をご紹介したい。
編集者という肩書き
ところで、編集者というのは便利な肩書きだ。なんとなくのイメージとしてまずは本や雑誌などの文字媒体に関わる人間が想起されるであろうが、私のような動画制作をする者が編集者を名乗ってみても、それほど違和感はないらしい。それは、編集という行為自体がほとんど実体のないようなものだからだろうか?
そもそも編集とは何か。たとえば世の中に「ABCDEFGHIJKLMN」という素材があったとしよう。そこから不必要な部分を消して「G」「I」「K」「N」だけを残し、さらにそれを並び替えてみると「KING」が現れる。編集とは概ね、そのような概念操作のことである。編集者とは、その操作を行うオペレーター。当然ながら「KING」ではない。編集者の役割は基本的に、「GIKN」の間をすり抜け煙のように消えてしまった「ABCDEFHJLM」の残骸を抱え、昏い物陰からひっそり「KING」を見守ることにあると私は思っている。
何が言いたいかというと、要するに編集者は「黒子」だということだ。ただし、一寸の虫にも五分の魂。黒子には黒子なりの美学があって然るべきだ。私にはこの難問と向き合う上でつねに拠り所とし、ことあるごとに参照してきた一冊があって、それが今から紹介させていただく『東京百話』なのである。
『東京百話』の編集ポリシー
『東京百話』は、戦前〜戦後の東京にまつわるエッセイや短編小説を集めたアンソロジーだ。天の巻、地の巻、人の巻という三巻の文庫からなるシリーズで、目次を覗いてみればそこには獅子文六、尾辻克彦、色川武大、井上ひさし、武田百合子、内田百閒、佐藤春夫、永井荷風などなど、名文家たちが揃い踏み。品切れ状態というのがなんとも残念だが、どこからどう読み進めてもおもしろい本なので、古書店などで見つけた際にはぜひ手に取ってみてほしい。
編集を手がけたのはドイツ文学者の種村季弘。博覧強記の粋人として知られた人である。名文ばかりで構成された『東京百話』、その中でも私が繰り返し読んでしまうのは編者の種村によるエピローグ、「編者あとがき 野暮の効用」だ。そこではこの本の編集方針について、次のように書かれている。
「野暮でいこう、ときまった。いまさら知ったかぶりを気取ってもさまにならない〔……〕東京という怪物をこれにはじめて接した人の視点で見る。これが一応の編集ポリシーらしいものとなった」
東京にまつわる名エッセイは無数にある。東京が舞台の小説も数えきれないほどで、それらを集めた優れたアンソロジーも『東京百話』の企画時点で既に数えきれないほど刊行されていた。それゆえストレートな良作を集めて「通」向けの本を作ることにはいまさら感があり、あまり価値が感じられなかったようである。
いまさら感。これは全編集者が日々戦わなければならない天敵である。何か新しい企画を考えようとしても、困ったことに、大抵のことはすでに誰かがやってしまっているものだから。いわゆる企画力というのは、過去の事例からどれだけ上手に距離を取るかの技術だと言ってもよい。再び「ABCDEFGHIJKLMN」を持ち出すと、「KING」が既にいるなら今度はGを二回使って「GANG」にしてみようとか、「LAMB」(子羊)にすると「KING」との対比が効いて面白いかもとか。そうしたこまかな差異でどれだけ新たな意味を捻り出せるかが編集者の腕の見せどころ。手垢と埃にまみれたテーマ「東京」に対し、種村は「野暮」という切り口を設定することで『東京百話』の企画を価値あるものにしようとしたわけだ。
野暮の実例
しかし、一体どうして「野暮」なのか。その理由については次のように書いている。
「通人、半可通が、生れながらにしてどっぷり浸っているためにそちら側からは死角になって見えない東京の構造が、野暮なればこそ見えてしまうということがあるらしい」
そのことの具体例として、長崎育ちの作家、平山蘆江がある“江戸っ子”とそば屋に入った際のエピソードが紹介されている。「ところで平山君、君はいなかの人だから知るまいが……」などと煽られながら、平山が江戸っ子ならではの「通」な食べ方を教わったときの話である。
いなかの人を前にして江戸っ子は「太打のそばに玉をつけて持って来てくんねえ」といかにも通らしく注文をした。配膳されるとポンと、卵の殻を割り、せいろのそばの上に中身を落とす。そのまま美しい手さばきで卵とそばをかき混ぜる。せいろのそばの上に卵を落とす、そんなことをしたらせいろの隙間から卵が流れ出そうな気がするが、そうではないらしい。「玉子のねばりがそばを軽く吸ひとつて一滴も畳に玉子がこぼれないところがそばの値打ちなんだよ」と江戸っ子は小粋に教えてくれた。
へー、そうなんだ。そう思いながら私は読んだ。いなかの人こと平山蘆江もきっと、へーと思って聞いていたに違いない。江戸にはそういう食べ方があったのか。
だが、いざせいろを持ちあげると、卵はやはり、せいろをぬるりとすり抜け、畳を無惨に汚していたという。そこで江戸っ子はアッと声を上げ、「親方、このそばはうどん粉を交ぜなすつたね、そば粉ばかりにしてくれればよかつたのに」と、自らの失態をそば屋のせいにして不平を漏らしたそうだが、覆水よろしく卵も盆に返らない。
一体なんのこっちゃな展開だが、この話には続きがある。事件から十年ほどのち、平山はこのそば屋の親方と偶然再会したそうだ。本当にあんな食べ方があるのかどうか、平山は十年越しで聞いてみた。そこで親方が言うには、「あるにはありますが、細打のそばでなければいけません、そして玉子も黄味だけをまぶすんですが、どちらかといふと、見世で出してくれるやうにして召上つた方が間違ひはありませんよ」。
編集者・種村の巧さ
知ったかぶりがバレたときの恥ずかしさ。誰しも身に覚えのあるものだろうがあれはツラい。できれば味わいたくないのだが、その点「野暮」は強い。ハナから通ぶらなければ、恥をかくリスクもないのである。
そして先のそば屋の挿話においては、半可通な江戸っ子が知ったかぶりゆえに知り得なかった真実に、田舎から出てきた平山が素朴な質問をぶつけることでアクセスできていた。「野暮」であること、「わかっていない人」として振る舞うことにはそういうメリットもあるようだ。つまり余計な先入観にとらわれないから、既存のルートと異なる仕方で対象に接することができる。「野暮なればこそ見えてしまうということがあるらしい」と種村が書いたのはこの意味でのこと。ここでの野暮とは、言わば日常生活を新鮮に味わうための一つの「方便」なのだ。
先にも書いたが、種村はこう書いていた。「東京という怪物をこれにはじめて接した人の視点で見る。これが一応の編集ポリシーらしいものとなった」。
「野暮」は実際かなり抽象的で曖昧な概念だが、ここでそれを「はじめて接した人の視点で見る」という具体的な行為とセットにしたのが編集者・種村のエラいところだ。仮に自分が種村の編集アシスタントをしている状況を想像してみよう。「野暮なエッセイを集めてこい」と言われても途方に暮れてしまうが、「はじめて東京を見た系のやつを集めてこい」なら頑張って探せそうな気がするではないか。
何かの企画を立てるということ。それは抽象的な概念操作でしかないが、同時に具体的な現象と紐づいたものでないと、実際にモノづくりをする上での指針として役に立たない。特にシリーズもののコンセプトを考える際には抽象性と具象性、そのバランスの取り方が難しかったりするのだが、そこをさらり「野暮でいこう」「はじめて接した人の視点で」と簡潔に言って済ませる編集者としての種村の力量たるや凄まじい。私はそのポップで軽やかな手つきに憧れ続けている。
編集テクニックとしての野暮
「ゲームさんぽ」の制作において、私は『東京百話』の編集ポリシーを実はかなり意識してきたところがある。ゲームさんぽの収録では毎回、事前のリハーサルなどをまったく行わないのだが、それはゲストの専門家たちに「野暮」でいて欲しいからだ。なんせ「野暮なればこそ見えてしまうということがあるらしい」。ゲストは豊富な見識を備えた専門家たちだが、ゲームについてはほとんど知らない。彼らが見慣れぬゲームの世界に初めて足を踏み入れた時、そこには一体何が「見えてしまう」のか。そのスリルを楽しみたいと思ってこの形式がやめられない。
私は種村から「編集テクニックとしての野暮」を引き継いだ、勝手にそう思うことにしている。それは初見のときにだけ「見えてしまう」あの驚きの経験、発見の喜びを一つのコンテンツとしてまとめ切るための技術である。残念ながら私はまだまだ種村ほどの洗練された技も言葉も持ち合わせてはいないが、少なくともマインドだけは受け継いだつもりでやっている。
「野暮」をきわめてポジティブに捉える種村はしかし、このあとがきの途中で冷たく「むろん野暮だけでは通らない。新来者には『技術』がないからだ」とも書いている。「野暮でいこう」は「野暮ならよし」ではないのだ。このあたりのクールな線引き、断固たる態度の持ちようが編集者・種村のかっこよさである。先ほど引用した一節も、省略した箇所を戻してみると種村の思想がより鮮明に浮かび上がる。
「技術は、とりわけ東京で生きていくための技術は、どうしても、酸いもあまいも心得たその道の達人に手ほどきしていただかなくてはならない。その上で基本的には、東京という怪物をこれにはじめて接した人の視点で見る。これが一応の編集ポリシーらしいものとなった」。
技術を持った上で、野暮でいく。この絶妙なバランスを我がものとできる日まで、私は何度も『東京百話』を読み返してしまうと思う。
(了)
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