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初登場! 高丘哲次「殷世界転生」、読みきりでお届けします⚡

現代日本に突然現れた古代中国都市――。
零細私大のしがない研究者・栗山は、急遽政府機関に呼び出されて……

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『岐阜日報』二〇二二年三月七日
 二〇二二年三月五日、栃木県那須町にある「せつしようせき」が刃物で切断されたように二つに割れていることが、観光客により発見された。殺生石は昭和三二年に県史跡、平成二六年に国の名勝に登録された、那須高原観光の目玉の一つ。那須町観光協会によれば、殺生石は以前からひびが入っており、自然に割れたものと見られている。
 殺生石には「九尾の狐」が変化したものであるという伝説がある。九尾の狐は、だつという美女に化けて中国の殷王朝を滅亡に追いやったり、また日本でもたまものまえに化けて鳥羽上皇の殺害を企てたりと、国に大きな災いを呼ぶ妖怪として知られている。その石が割れたことにより、地元では「何かのたたりじゃないか」と不安の声も聞かれる。

「感じる。感じるぞ、山の怒りを!」
 空き家をリノベーションして作られたぎしだに町内会館に、ほりしようきち八十九歳の怒声が響いた。
 パイプ椅子にぽつりと座っていたしばはらトミが、びくりと身体を震わせる。
「ああびっくりした。驚かせないでくださいよ」
 半年前に心筋梗塞で緊急搬送されており、まったく洒落にならない。玄関先で肩を震わせている正吉をじろりと睨んだ。彼が着た色褪せたグレーの作業着の胸元には、「根岸林業」と刺繡されている。十五年前に倒産した会社の作業着だ。
「藪から棒に大声なんて出して。どうしたんですか?」
 トミ子は電卓を長机に置き、正吉に向き直った。なな村役場に提出する、老人クラブの助成金申請書をまとめているところだった。
「今度ばかりは、堪忍袋の緒が切れたわい。あまりにひどいイタズラだ……」
 正吉が唇をわななかせる。
 トミ子には、怒りの原因に察しがついていた。彼の感情をここまで動かすのは、山のことだけだ。林業本来の役割とは、木材を売って金を稼ぐことではない。山を護ることだ。正吉はその思いを胸に、九十に手が届く齢となっても、毎日欠かさず森を巡回し続けている。
「山で、いったいどんなことがあったのですか?」
 いつまでも震えているばかりの正吉に、トミ子は重ねて尋ねた。
 正吉はくうにぎょろぎょろと視線をさまよわせたが、そこに答えるべき言葉が刻まれているわけもない。
「見れば分かる!」
 そう言い捨てると、身体をひるがえして町内会館から出ていってしまった。
 トミ子は机に広げたままの申請書にちらりと目を遣り、ため息をこぼした。領収書の金額を足し上げるのにも、うんざりしていたところだ。よっこらせ、と声を出しながら椅子から腰を上げた。町内会館を出て周囲を見渡すと、不整形の田んぼを突っ切るひび割れた舗装道路の上に、老人の背中を見つけた。
 岐阜県のほぼ中央に位置する七生村は、山で囲まれた盆地に潜むようにしてあった。村に通じているのは二本の県道だけで、陸の孤島という表現がこれほど似合う場所を他に見つけることは難しい。
 正吉は舗装道路から逸れて田んぼのあぜ道に入ると、そのまま山の中へと突き進んでゆく。見失わないよう、トミ子は早足になって追いかける。林道として使われなくなってから久しく、左右からは行く手を阻むようにクマ笹が伸びていた。
 歩くにつれて道の傾斜は強くなり、山登りをする様相となった。息が切れてきたところで、ようやく正吉に追いついた。
「あれだ」
 足を止めた正吉は、道の先を顎でしゃくった。
「ひどいイタズラだろう!」
 憤然と発せられた正吉の言葉に、トミ子は無言で立ち尽くす。
 おおかた粗大ゴミでも投棄されていたのだろうと思っていたのだが、予想とはまるで違う光景がそこに広がっていた。自らの目が捉えているものが何なのか、理解が及ばない。必死に考えを巡らせていると、いつか見たワイドショーを思い出した。東京の恵比寿という場所に、巨大なシャンデリアが飾られていた。クリスマスツリーを逆さに吊るしたような姿だった。
 そのシャンデリアのようなものが、地面から生えている。しかも一本だけではなく、森全体に。辺り一帯の樹々がクリスタルで作られたかのように透き通り、淡い緑の光を周囲に撒き散らしていた。
「これは、イタズラなんてものじゃなく——」
 トミ子は言いかけ、口を閉ざした。
 透明になった木肌に、揺らめく人の影が映し出されていた。近付くにつれ、その姿が露わになってくる。長身の男性だ。右前に襟を合わせた衣に、膝丈の腰巻きを身に着けている。生地は細かい文様の入ったシルクで、ひと目で質の高いものだということが分かった。
 まったく山歩きをするに相応しい恰好ではなかったが、トミ子には不思議と見慣れたものに映った。しばらくして、その理由に思い当たる。
「あら、『王朝の花』のジンさんそっくり」
 トミ子のどこか弾んだ声に、中国歴史ドラマの主人公とよく似た男は薄っすら笑み返した。

 くりやまひでゆきは膝をそわそわと揺すりながら、研究室のドアに目を遣った。
 由々しき状況だった。どう見ても、ドアは閉ざされていた。密室を作り出せば、内部で何やらやましいことが行われているのでないかという疑惑を招き、ひいては苦労して得た今のポストを失うことに繫がりかねない。
 この状況を作り出したのは、テーブルの向こうに腰掛けている女性だ。
 外見からはまだ若い年頃であろうと察せられるのだが、身にまとった雰囲気が彼女の年齢を不確かなものとさせていた。漆黒のスーツに黒縁眼鏡という、映画『MIB』のエージェントを貧乏くさくしたような風体が、余計に怪しさをかもし出していた。
「栗山さん。とある国家プロジェクトに参加してください。詳細については、承諾していただいた後にお伝えします」
 その女性は、やはりエージェントめいたことを口にすると、テーブルに名刺を滑らせてきた。内閣官房内閣情報調査室上席分析官、とうあゆむ。肩書を見ても、何をする仕事なのか皆目見当がつかなかった。
「申し訳ありませんが、僕のことを他の誰かと間違えているのでは……」
 栗山は眉を寄せる。
 愛知県の外れにある零細私大で、中国史の准教授のポストを得たばかり。中国史研究という狭い世界においても、その位置付けは末のまた末である。まかり間違っても、国家プロジェクトに呼ばれる身分ではないと自覚していた。
「身長一六六センチメートル、体重七七キログラムというやや肥満体型に、縮れた頭髪。あなたの特徴は、栗山英行さん本人であることを示していますが」
 その歯に衣着せぬ表現に、いっそう栗山の顔は曇る。
「そこまで調べているなら、僕がしがない古代中国史の研究者だということもご存じでしょう。国家プロジェクトとやらに参加すべき人物を探しているなら、もっと立派な先生に声を掛けた方が良い」
「この分野の研究者は全てリサーチ済みです。その上で、栗山さんが適任者だと判断しました」
「そうなんですか……」
「先生は、このプロジェクトにとって欠かせぬ人物なのです」
 そう言われると、悪い気はしなかった。
 このところ中国史研究では、栗山のような実証的なアプローチを取る研究者は、冷や飯を食わされる傾向があった。
 日本政府は、この分野の研究を中国との関係向上の道具としか捉えていなかった。助成金を得るために最も効率の良い方法は、中国とのパイプの太さを誇示することだ。そのせいで、中国本土の研究を無批判に受け入れる研究者が幅を利かせつつあった。
 中国本土における歴史研究は祖国の偉大さを証明するためのものであり、考古学的裏付けのない文献資料も、偉大な歴史を形成するためのピースとして正史に組み込まれる。そのようなものを有難がる「立派な先生」には、栗山としても思うところがあった。
 とはいえ、申し出を受け入れるかは別の話だ。
「せっかくのお話ですが、お断りさせていただきます」
 自分のような研究者が冷遇されているからこそ、零細私大とはいえ研究ポストを得られたのは奇跡に近い。怪しい誘いに乗るわけにはいかなかった。
 すると、佐藤はわずかに首を傾げた。
「では、明日からどうされるつもりですか?」
「どうするも何も……いつもどおり、講義をするだけですが」
 佐藤は一枚の書類を差し出した。
「栗山さんは、明日から長期の研究休暇サバテイカルに入ることになっています。言うまでもなく研究休暇は、研究に資する活動に従事するために許されるもの。本プロジェクトに参加されないのであれば、単なる無断欠勤の扱いとなりますが」
 目を疑った。机上の申請書は、栗山自身の名前で署名されていたのだ。既にその左肩には、人文学部長による承認印が押されてもいた。
「なんで、こんな勝手なことを!」
「入職してから日の浅い栗山さんでは、休暇を申請しづらいと思いましたので。学部長も、快く送りだしてくれるようです。良かったですね」
 文科省の官僚だった学部長は、形だけの論文で博士号を取った、絵にかいたような天下り教授だ。「研究にもコスパが重要」を座右のめいとしており、その対極にいる栗山のことを目の敵にしていた。彼のもとに出向いて、申請を取り下げるというのは気が重い。
「僕に、選択肢はないということですか?」
「そうではありません。ただ、栗山さんが破滅願望をお持ちでないのでしたら、いかなる選択をされるべきか言うまでもありません」
 栗山は頭を抱えた。
「ご安心ください。本プロジェクトに参加されることは、栗山さんにとって決してマイナスにならないことを保証しますよ」
 栗山はがっくりと首を折るように、頭を縦に振った。

 軽自動車ばかりが並ぶ大学の駐車場に、場違いなセンチュリーはよく目立った。佐藤は黒光りする車に向かって、迷うことなく突き進んでゆく。運転手が開けたドアに「どうぞ」と栗山を押し込み、自らも横に腰を滑らせた。
「七生村の事件はご存じでしょうか?」
 車が走り出すなり、佐藤は切り出した。
 世情に疎い栗山でも、一ヶ月ほど前にニュース番組を賑わせていたその事件については聞いたことがあった。岐阜県の山奥にある産業廃棄物処理場が爆発し、飛散した汚染物質によって広大な土地が汚染されてしまったのだという。現場となった七生村は、全域が立入禁止になっているらしい。
 自らの知る情報を披露すると、佐藤はあざけるように鼻から息をついた。
「そこまで素直に信じられると、むしろ栗山さんの情報リテラシーが心配になってきますね」
「じゃあ、この話は噓だと?」
「ええ」
 続く言葉を待ったが、それで話は終わったとばかりに目を閉じてしまった。
 声を掛けるのも躊躇ためらわれ、所在なくポケットからスマートフォンを取り出す。地図アプリを立ち上げると、車は愛知県と岐阜県の境を越えたところだった。このまま北上し、その七生村へと向かうつもりなのだろう。
 栗山の頭の中は、疑問符で満たされてゆく。古代中国の研究者である自分と七生村の事件との間に、いかなる繫がりがあるのだろうか。だが、いくら考えても答えが得られるわけもない。諦めて目をつぶると、身体を突き上げるゆるやかな振動に眠気を誘われ——、
「そろそろ到着します」
 佐藤の声に、意識が呼び戻された。
 とつに辺りを見回すと、窓外から運ばれてきた緑の光が目の奥を刺した。道脇には、ガラス細工のような透明の樹々が立ち並んでいる。
「なんですかこれは!」
「この程度で驚いていては、身が持ちませんよ」
 しばらくするとガラスの森は途切れ、センチュリーは音もなく停車した。フロントガラス越しに前方を確認すると、巨大な土の壁によって視界がはばまれた。
「付いてきてください」
 車から降りると、壁にはぽっかりと巨大な門が口を開いていた。両脇には、銅製のかぶとをかぶった門番らしき老人が、木製の長柄のついたほこを手に直立している。剝き出しの刃物にぎょっとする栗山を尻目に、佐藤は土壁の向こうへとずんずん進んでゆく。
「こちらです」
 門番の脇を通り過ぎ、土壁を抜けたところで——栗山は、はたと足を止めた。
 目に飛び込んできたのは、数多の家だ。
 しかし家といってもそれは、巷で見かけることのない古めかしいしつらえだった。突き固められた地面の上に直接木の柱が建てられ、壁は土で塗られていた。屋根の多くはかやきで、一部には板葺きのものもあった。大きさの異なる家が、マス目状の街区に整然と並んでいる。岐阜の山奥とは信じられぬほど、大規模なしゆうらくだった。

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