ピアニスト・藤田真央エッセイ #68〈熱い夏はつづく――ルツェルン音楽祭〉
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ヴェルビエ音楽祭、そしてバイロイト音楽祭の連載に続き、またしても8月に行われた二つの音楽祭——ルツェルン音楽祭、BBCプロムス——の模様を綴りたい。この夏はそれだけ内容の濃い日々を送っていたのだ。
8月中旬のこの時期は、例年抱えているレパートリーが多い。今年も23/24年シーズンのリサイタル・プログラムが佳境を迎える一方で、9月から始まる24/25年シーズンの新しいプログラムも丁寧に準備する必要がある。もちろんピアノ協奏曲のレパートリーの練習も欠かせない。
おまけに旅程も混沌としていた。
なんとも慌ただしい。その上、ベルリンからプラハへの移動で大チョンボをしてしまった。まだまだヨーロッパの地理感覚に乏しい私は、「ドイツ国外へ出るのだから」と、何の疑問も持たずアムステルダム経由プラハ行きの飛行機を予約してしまった。しかし、実はベルリンからプラハは電車で4時間ほどの距離だという。一分たりとも時間が惜しいこの時期に、わざわざ飛行機移動に8時間費やしてしまうなんて……。
兎にも角にもプラハへ無事到着し、8月末に予定されたイギリス最大のクラシック音楽祭「BBCプロムス」のリハーサルを行った。曲はドヴォルザーク《ピアノ協奏曲 Op.33》、オーケストラは昨年アジアツアーで初共演したチェコ・フィルハーモニー管弦楽団。この難曲を彼らに見合う水準で演奏をすることは、去年の私にとって試練の一つであったが、名誉あるBBCプロムスでまた一緒に演奏できるなんて、当時は思いもしなかった。ご縁が太くなり、とても嬉しい。
指揮は初共演となる若き巨匠ヤクブ・フルシャだ。リハーサルはチェコ・フィルの本拠地、ルドルフィヌムで行われた。目の前にはかの有名なモルダウ川が流れている。ネオ・ルネッサンス様式の美しい内装、そして座席後方の2階には大きな柱が威厳に満ちて立ち並んでおり、ホールに入ると思わず後ずさりしてしまった。
ちなみにこのルドルフィヌムにはドレスコードがあるというので、私もシャツとジャケットの襟を正して訪れたが、ヤクブは半袖のシャツに半ズボンで指揮台に立っており、ずっこけそうになった。そういえば同じような出来事が、8月にモナコの宮廷でリハーサルを行った時にもあった。正装でないと立ち入れないと聞いていたのに、音楽監督の山田和樹氏は日本フィルハーモニー交響楽団のキャラクターTシャツで現れたのだ。
チェコ・フィルにとってドヴォルザーク《ピアノ協奏曲》は馴染み深いレパートリーなのだろう。この曲独特のリズムや個性的な歌い回しもお手の物、彼らの体の中から音楽が湧き出てくる。楽譜から目を上げて悠々と表現するチェロ首席奏者の姿が印象的だった。アンサンブルに問題はないので、音楽的なイメージを細かく共有していく。私のほうも去年4度この曲で共演した記憶も新しく、それほど時間を要さずリハーサルは終了した。
本番は10日後。チェコ・フィルは明日からヨーロッパ各地の音楽祭へ出演するため、旅路につく前にリハーサルを済ませたというわけだ。欧米の音楽家に旅はつきものである。特に夏は入れ替わり立ち替わり、渡り鳥のように各国を往来する。私もこの日の夜にはルツェルンへ飛んだ。ヨーロッパに住んでからというもの、飛行機をバスのように利用する生活を送っている。なんと、8月だけでも6カ国でコンサートを行った。今日ではクレジットカードが普及し事なきを得ているが、もしカード払いができない世界線に住んでいたら、私はプラハでチェコ・コルナに両替し、チューリッヒではスイス・フランも持ち合わさなければならない。ロンドンではポンド、フライトの乗り換えで降り立ったアムステルダムではユーロも必要。便利な時代になってよかった。
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