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ブックレビュー:科学とは何なのか~科学哲学の世界|白石直人

 科学哲学は、哲学の中でも特に「科学とは何か」といった問題や、生物学などの個々の科学にまつわる哲学的問題を取り扱う分野である。哲学の中でもやや特別な分野なので、今回の記事では科学哲学に絞って、本を見ていきたいと思う。

科学とは何か

 科学哲学の最初の一冊としては、A.F.チャルマーズ・著『改訂新版 科学論の展開——科学と呼ばれているのは何なのか?』(高田紀代志たかだきよし佐野正博さのまさひろ訳、恒星社厚生閣)は広範なトピックスをバランスよく取り扱う入門書であり、お薦めしたい本である。初版はやや古い(1976年出版)ので、本書の前半部分の構成もそれに伴って一昔前[1]に主流だった書き方になっているが、改訂新版で後半部分が大幅に拡充され、新しい話題も手広くカバーされた。そのため本書からは、少し古い視点と新しい視点をともに学ぶことができる。

 本書前半は、帰納主義→反証主義(ポパー)→パラダイム論など、という(少し古めの)王道の流れに沿って、科学がどう理解されてきたのかが解説されている。帰納主義は、「これまでの多くの事例では性質Aが観測された」という事実に基づき、「次の事例でも性質Aが観測されるだろう」と帰納的に予測するものである。これは極めて自然なものである一方、帰納主義は「なぜ過去の観察事実から、まだ観察していない対象についての事実が得られるのか」という批判にさらされてきた。

 ポパーは帰納主義を批判して「反証可能性」を軸とする反証主義を導入し、これを科学の特徴づけにしようとした。反証主義は、科学の理論を反証可能性に開かれた理論として特徴づけ、より反証の危険性にさらされる理論ほどよいものであると評価する。法則の検証は出来ない(未知の反例は見つかりうる)が反証は出来るという点で、演繹論理や確実性を好む立場にとって反証主義は魅力的だった。しかし、現実の科学の歴史は反証主義が語るようには動いていない。特に、ある理論が反証されても、常に補助仮説を導入する[2]ことでその仮説を延命させることができる。こうした補助仮説は科学において実際必要なものでもあるため、反証主義者が考えるような決定的な反証は行えない。ポパーを継承しつつ発展させたラカトシュは、科学を、基本原理である「堅固な核」とそのための補助的仮定である「保護帯」からなる研究プログラムとして把握しようとした。

 クーンが広めた「パラダイム」という概念は、もはや分野をこえて様々な場所で見られるようになった。パラダイムとは、ある科学者集団が採用する一連の前提、ルール、技法などが作る枠組を指す。パラダイム内ではその枠組に適合した様々な問題が与えられ、科学者たちはそれをルールに従って解いていく。一方、あるパラダイムから別のパラダイムへと移り変わる過程も存在し、それをクーンは「科学革命」と呼んだ。クーンは、一方では異なるパラダイム間の断絶や対話の不可能性を強調する一方、自身は相対主義ではないと弁明したために、その曖昧さや不整合性が批判された。

 本書後半では、より新しい科学哲学の議論が紹介されている。科学の営みを「各仮説が正しいと考えられる確率を変更していく過程」ととらえるベイズ主義アプローチは、すぐ後で紹介する内井『科学哲学入門』でメインとして用いられるほどの有力な立場である。「新しい実験主義」という立場は、クーンや相対主義者が主張する「実験の観察は、その実験家が信じる科学理論に依存している」という議論に抗して、理論には依存しない形で、実験はそれ自体で実験の信頼性(精度など)の検証やデータの蓄積を行えると主張する。実際の実験室での実験の営みをつぶさに見るならば、新しい実験主義の立場も至極もっともなものだといえるだろう。

伊勢田哲治いせだてつじ・著『疑似科学と科学の哲学』(名古屋大学出版会)は、「科学と疑似科学の線引き問題」を切り口にした、科学哲学の入門書である。ここまでに見たような科学論は、「科学の目的とは何か」という形で科学と科学でないものの線引きにも関係してきているものが多い。「そもそもなぜあるものが科学か否かに我々は関心があるのか」「科学にいったい何を求めたいのか」という問題を前面に出すことで、科学哲学は哲学者のみが関心を持つマニアックな議論ではなく、幅広い読者が関心を寄せるものだということが伝わる本だと思う。

 もう少し高度な科学哲学の入門書としては、内井惣七うちいそうしち・著『科学哲学入門 科学の方法・科学の目的』(世界思想社)がある。本書ではベイズ主義的な視点が採用されており、科学的説明の意味や理論の検証過程などを「仮説に対する確率の変化」と捉える視点から記述がされている。仮説の支持・放棄を、全か無かではなく連続的な確率の変化として記述することは、実際の科学の営みと照らし合わせても妥当性の高いものである。

 また、ポパーやクーンなどに対して、突っ込んだレベルで批判的な検討がなされているのも特徴的である。ポパーは「過去の観察から未来の予測を導く帰納主義は循環論法に陥る」と批判し、反証主義を提唱した。しかしこれに対し著者は、反証主義の要である「反証された仮説は放棄する」という基準についても、「過去に反証された仮説は、未来においても正しくない予言を与え続けるだろう」という形で、過去の観察と未来の振る舞いを結びつける必要がある、と指摘している。

 また、クーンなどの科学哲学者がしばしば、科学における「仮説の形成・発見の過程」と「仮説の検証・正当化の過程」のうち、後者しか視野に入れていない点を著者は批判している。特に、(後者を念頭に置いた)狭い科学の定義を採用し、それに収まらない要素をすべて「科学の外」に置いてしまう議論は、容易に「科学は『科学以外の要素』で動かされてしまっている」という怪しい主張へと結びついてしまう。

生物学の哲学

 ここまで見てきた「科学とは何か」のような抽象的問題を論じるタイプの科学哲学は、論点が一通り出尽くしたと考えられたためか、現在ではやや下火になっている。その代わり現在の科学哲学で活発に議論されているのは、「生物学の哲学」のような「個別科学の哲学」と呼ばれる分野である。個々の科学分野の具体的な内容を踏まえた議論をすることにより、哲学的興味の充足だけでなく当該科学分野の発展そのものにも哲学が貢献できる可能性があることも、個別科学の哲学の興隆には影響しているだろう。また、これまでの科学哲学が、もっぱら物理学を模範とする傾向があったことへの反省や反発もあると思われる。もちろん個別科学の哲学の一つとして物理学の哲学もある[3]のだが、この章と次の章では、個別科学の哲学としてよく取り上げられる「生物学の哲学」と「統計の哲学」をそれぞれ見ていきたいと思う。

 エリオット・ソーバー・著『進化論の射程 生物学の哲学入門』(松本俊吉まつもとしゅんきち網谷祐一あみたにゆういち森元良太もりもとりょうた訳、丹治信春たんじのぶはる監修、春秋社)は、生物学の哲学の問題を考えるのに非常によい一冊である。多様な論点について深い考察がなされているので、著者ソーバーの議論に必ずしも同意できない面がある[4]にしても、自身の思考を深めていくためのよい導入になるだろう。

 進化論はトートロジー[5]だ、という批判はしばしばなされる。「最適者生存」という切り出されたフレーズは、「生き残ること自体が最適の定義なのではないか」という形でトートロジーの香りを伴っている。しかし、進化論の一部にトートロジーの側面があるからといって、そのすべてがトートロジーであるわけではない。ダーウィン進化論の非自明な主張である「あらゆる生物は類縁関係にある」「生物多様性を促す主要因は自然選択である」は、明らかにトートロジーではない。進化の数理モデルがトートロジーだといわれることもある。確かに数理モデルの結論が観察とは独立に正しいというのはその通りだが、この意味ではあらゆる数学の結果もまたトートロジーということになってしまう。

 関連する論点として、適応主義(生物の現在の性質を、その生物が進化の過程で何かに適応した結果として理解しようとする立場)は検証・反証を受け付けない、という批判がある。実際、進化生物学の研究では、生物が環境に適応していると仮定して生物の行動の予測を立てて、実際の生物の観察事実と比較する。そして予測と観察事実が合わない場合には、適応すべき環境に見落としや誤りがあるのではないかと考える。確かにこのアプローチでは、適応主義の考え方は直接には検証されない。しかしソーバーは、適応主義は研究プログラムであるとしてこれを擁護する。適応主義に基づいた生物学の探求が多くの場合に成功を収めるのならば、これは支持される。多くの失敗を重ねるのならば、それは悪い研究プログラムだとして放棄される。

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