夢枕獏「ダライ・ラマの密使」序章 #002
「ここに立っていれば、ヘディン先生は必ずやってくるであろうと、しばらく前からお待ち申しあげていたのですよ」
「しばらく前というと?」
「五日ほど前からです」
「何のために?」
「ヘディン先生の旅に、わたしを加えていただこうと思いまして——」
「——」
「中央アジア探検にいらっしゃるのでしょう。タリム川から始まって、ロプ・ノール、カラ・コシュン湖、タクラマカン砂漠東部を調査し、できうることなら、チベットのラサまで入ろうと考えておられること、友人から耳にいたしました。このサマルカンドを経由して、カシュガルから、あの不毛の地に入ってゆく予定であるとうかがっています」
彼の言う通りであった。
今回の探検は、まずヤルカンド・ダリヤと呼ばれる河を船で下ることから始める予定であった。
この河の源流は、西北チベットと東部パミールとにまたがる高原に、周辺の山々——たとえば天山山脈の雪や氷河が解けた水が集まり、ゼラフシャン、ラスケム、ヤルカンド・ダリヤ、そしてタリム川となって、およそ二千キロを下り、カラ・コシュン湖に注ぎ込む。水は、そこで砂漠との闘いに敗れ、海までのさらに遠い距離をまっとうせずに、砂の中に消えてしまうのである。
この同じ河の流れが変化することにより、ロプ・ノールと呼ばれる湖が、砂漠の中で、東西にその位置を変えてゆくのであろうとわたしは考えているのだが、その考えを再確認しようという意味も、この旅にはあるのである。
しかし、どうして、この青年がわたしの予定を知っているのか。
わたしの頭に浮かんだ疑念を読みとったかのように、青年は言った。
「クロポトキン将軍の側近に、わたしの友人がいて、彼が、わたし宛に、今回の件について、手紙をよこしたのです」
クロポトキン将軍とは、たしかにわたしは会っている。
ニコライ皇帝が、コサックをわたしの隊に付けて下さる件で、クロポトキン将軍に、よろしく事を運ぶようにと命じたのである。さっそく、わたしは将軍に呼び出され、十人のコサックを推薦されたのであった。
しかし、十人のコサックは必要がなく、ふたりのコサックを、十二月十四日あたりまでに、ロプ・ノール湖の近くによこしてくれるよう、将軍にわたしは頼んだのである。
その合流前に、必要から、シルキンとチェルノフという、ふたりのコサックに従者として隊についてもらったことは、すでに語った。
「きみの友人は、何故、きみ宛にそのような手紙を書いたのだね?」
「それは、わたしがチベットに興味を持っており、チベット語も——」
そこで、ふいに、青年の口にする言語が変化した。
まるで魔法か何かに使用する呪文のようであった。語り終えて、
「——このように、語ることができるからです。他に、多少の日本語と中国語もしゃべることができ……」
どうにか、なけなしの知識で、わたしが青年のチベット語を理解した時、今度は彼の言葉はロシア語に変っていた。
「わたしならば、ヘディン先生の旅のお役にたてるだろうと、友人が考えたからです。ここに、ヘディン先生に宛てた、クロポトキン将軍のサインの入った手紙もあります」
青年は、自分の内ポケットに右手を差し込んで、中から折り畳んだ紙片をつまみ出した。
わたしはそれを受けとった。
チベット語に堪能な人物がサマルカンドにいるので、気に入ったのなら、ぜひ旅に加えてやってもらいたいと、将軍らしい短い言葉で記してあった。
将軍のサインが、手紙の最後に記してあり、それは、わたしも何度か見たことがある将軍のサインと同じものであった。
この青年が、知人であるとも、部下であるとも記してはいない。
「将軍と面識は?」
「ありません。将軍の側近である友人が、前々からわたしがチベットに関心を寄せているのを知っていて、この機会に将軍に声をかけてくれたのだと思います」
「しかし、きみはどうしてチベットなぞに関心を持っているのだね?」
「あそこの宗教に興味があるのです」
「ラマ教——いや、チベット仏教に?」
「チベット仏教にも、ボン教にも——」
短い時間であったが、わたしは、しばらくそこでその青年とチベットについての会話をしたところ、彼が、チベット語に堪能であるだけでなく、その風俗や独特の宗教形態について、わたし以上の知識と教養を持っていることが、その言葉の端々から理解できた。
チベット独特の瞑想の方法についても、活仏であるダライ・ラマを選定するための、輪廻転生をベースに置いたそのシステムについても、彼は自分なりの意見を持っているようであった。
わたしは、その場で、彼を雇うことに決めた。
長いこの旅の間、彼のような教養を持った話し相手がメンバーの中にいるというのは、かなり楽しいことであろうと思われたし、実際にチベットに入った時には、彼の語学力がたよりになるだろうと考えられたからである。
さらには、彼が、ただ本で身につけた知識を頭の中に持っているだけの人間ではなく、その知識を現場で役にたてることができ、さらには、この過酷な旅に耐えられるだけの体力と、頑丈な肉体を持ち、強い意志の力を持っていることがわかったからである。
実際に、この旅に出てみて、彼が、砂漠という特殊な状況下にあっても、現役のコサックに負けない、場合によってはそれ以上の能力を持っているのを目撃することがしばしばあったのである。
激流で壊れた船を直すのを、彼は現地の人間以上にうまくやってのけ、何もない砂漠での位置感覚や方向感覚には、特に優れたものがあった。
彼は、自分の過去について、あまり語りたがらなかったが、それでも、旅の間の会話から、彼がロシアの貧しい農家の出であるらしいことや、心の底に何か強い野望のようなものを抱いているらしいことが見てとれた。
心に、強い望みを持つことは、悪いことではない。わたし自身にも、間違いなくそれと同質の感情があることを、わたしはよく知っている。この地図の空白地帯を埋め、砂と、歴史の流れの中に埋もれている王国や、様々な文物を、世界の誰にも先がけて発見し、それを発表したいという欲望が自分の中にあることを、わたしは素直に認めておきたい。
そして、わたしは、その発見をしたのである。
まさしく、わたしは、古代の王朝があった都市を埋めた、その砂の上に天幕を張り、その上に、今、身体を横たえて眠ろうとしているのである。
しかし——
数日に亘る発掘調査で、身体が疲れきっているにもかかわらず、わたしはなかなか眠りにつくことができなかった。
駱駝の単調な鈴の音に、うとうととまどろみかけはするのだが、身体の疲れにも増して、精神の充実感や昂揚感が強いのだ。
間違いなく、世界史に残ると思われる発見を、わたしはしたのである。
長い間、砂の下に埋もれていた古代都市を発見しただけでなく、その王国を滅ぼした地理学上の原因についても、わたしは今気がついているのである。
それを知っていて、世界に発表することができる人間は、この地上に、唯一、このわたししかいないのだ。それを想う時、ふつふつと血が熱くなってくる。
この発見を我々にもたらすことになった幸運を、わたしは何に感謝したらよいのだろうか。
一九〇〇年の三月十三日、我々はクルク・ダリヤ河床沿いに東に向かった。ヤルダン・ブラクを経て、アルトミシュ・ブラクに到着した時には、十日が過ぎていた。ここで三月二十六日まで休養し、三月二十七日から、カラ・コシュン湖に向かって南下をした。
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