大木亜希子「マイ・ディア・キッチン」第3話 料理監修:今井真実
第三話
この街に来て、あっという間に二ヶ月半が過ぎた。
その間に季節は冬を迎え、夜の商店街ではクリスマスのイルミネーションが光輝いている。花屋や雑貨屋の軒先にはクリスマスのオーナメントが飾られ、居酒屋ひしめく一帯からはおでんの香りが漂う。そのアンバランスさを、真っ直ぐに伸びるアーケードが包み込んでいた。
もう二十時だというのに人通りは多い。どこからともなく流れる『ジングルベル』のBGMを聴きながら私は今、人々からの好奇の目に晒されていた。
天堂さんに那津さん、そして私。三人で共に近所をジョギングしているのだが、彼らは身長が百八十センチ以上あって大柄のため、街中で随分と目立つのだ。加えて、それぞれ異なる華やかさとオーラを発し、通行人の女性が皆、彼らの姿に釘付けになっている。当の本人達は意に介さず、那津さんは「ダリィな~♪ ダリィな~♪ 走るのはダリィな~♪」と自作の鼻歌を口ずさみながらヘアバンドを頭に巻きつけて足早に進もうとしているが、それが却って美しい顔を際立たせている。天堂さんに至ってはありふれた黒いウィンドブレーカーを上下着用しているにもかかわらず、すらりと伸びた長い手足が人目を引いていた。
彼らに挟まれる形で走る私の身長は百五十六センチしかなく、私達が前進するたび、どこか一昔前の「ブルゾンちえみwith B」よろしくといった構図になる。傍から見れば関係性の分からない、奇妙な三人組に見えるに違いなかった。それでも冷たくて硬い空気を感じながら走ることに集中すると、心の中に静寂がおとずれる。
途中、シベリアン・ハスキーを連れて散歩をするMaison de Paradiseの常連、麻子さんとすれ違った。彼女の愛犬・ラッキーに抱きつき、わしゃわしゃと撫でまくる那津さんのことを、天堂さんが「いくら仲良しだからって、はしたないよ」と言って制する。様子を見ていた麻子さんが、たっぷりとした微笑みを湛えながら言った。
「こんばんは。今夜の葉さんは、まるで二人の騎士に守られている中世のお姫様みたいね」
「素敵な表現ですが、残念ながらお姫様なんかじゃありません。那津さん曰く、私はいつ奉公に出しても良い、口減らし要員だそうです」
これくらいのジョークならば、かろうじてかわせる社交性は、幸いこの二ヶ月半で身につけた。自虐を込めて言い返すと、那津さんはラッキーを愛でる手を止める。それから「最近は使えない奴なりに、色々頑張ってんじゃん」と言って、珍しく褒めてくれた。一体どういう風の吹き回しだろう。
麻子さんは片手に犬用のリードを持ち、もう一方の手を口元にあてて笑う。溢れんばかりに施されたゴージャスなビジューネイルが爪先で光り輝き、とてもよく似合っていた。
——夫がいる身でありながら、八人の男性と肉体関係を持っている。
天堂さんからそう聞いたあの日は、自分とは異なる貞操観念を持つ麻子さんと、こうして打ち解けた会話ができるようになるとは思わなかった。しかし、たびたび天堂さんの占いで店を訪れる彼女にお茶を出したり、雑談をしたりしているうちに親しみを覚え、今では「葉さん」と下の名で呼ばれても違和感を覚えない。むしろ「恋人は全員、同じくらい好き」ときっぱり宣言し、欲望に忠実であり続ける彼女に、今では密かな憧れを抱いている。
「九人目の彼のことで、近々また相談に行くわね。じゃあ」
ローズの香りを纏いながら優雅に去って行く麻子さんに、私達も手を振り返す。
再び走り始めると、ふとランニングを始めた日の出来事を思い出した。
あの日。布団から起き上がれなくなった、あの日。
私は身も心も鍛えるべく、本格的に体力作りに励むことを決意した。しかし、しばらくの間は占いやメイクレッスンのアシスタントとして働くことに必死で、運動に費やす時間が満足に取れなかった。
二週間ほど前のある晩、ようやく仕事のペースを摑み始めたので、手始めに走ろうと思った。厚手のパーカーとズボンを天堂さんに借りて私が支度をしていると、意外なことに彼らも走りたいと言う。自分の都合に付き合わせてしまうことを申し訳なく思い断ろうとしたが、気がつけば彼らは準備を始めており、天堂さんにおいては「いつか走ろうと思って買っておいたウィンドブレーカーがあるんだ。実は僕、学生時代は陸上部でね」と言ってワクワクしていた。
以来、週に三回は夕食後にランニングをすることが習慣となり、最近では彼らのほうから「今日は走らないの?」と提案されるほどなので満更でもないのだろう。
五十分程度のコースを走り終えると、今夜も私達は店から徒歩三分ほどの場所に位置する小さな銭湯「玉の湯」に、タオルや石鹼など入浴セットを持って駆け込む。少し前に那津さんから「これを使って真面目にエイジングケアしろ」と勧められ、半ば無理やり近くの薬局で購入させられたオールインワンセラムも忘れない。
私は女湯へ、彼らは男湯へ。急いでシャワーを浴びて身体の汗を洗い流し、熱湯に浸ると、いつも通り恍惚の境地がおとずれる。同じタイミングで男湯からも「はぁ」とか「ふぅ」とか、天堂さんや那津さんのものと思われるリラックスした声が聞こえてきたので、心が和んだ。
目を瞑り、しばらくボーッとしていると、「お嬢ちゃん、こんばんは」と誰かの声がした。隣を向くと、頭のてっぺんに大きなお団子を結い、まるで玉ねぎをのせたような髪型をした女性の姿があった。X市野菜即売所の、野菜売りのおばさんである。
近頃、即売所に行くたび声をかけてくれる彼女に私は心を開き、名前こそ知らないけれど、顔見知りと呼べるほどには挨拶をしたり世間話をしたりとささやかな交流をしている。
「あぁ、こんばんは」
「お嬢ちゃん。そろそろホースラディッシュの時期だから、いつでも買いにおいで」
笑うと目尻に優しい皺が寄る彼女の顔立ちは、どこか田舎の祖母を連想させる。
「前から言おうと思っていたんですけど、私、もうお嬢ちゃんと言ってもらえるような歳ではありません」
そう笑いながら言い返そうと思ったが、言葉に詰まる。こんな私でも、少し前まで縁もゆかりもなかったこの街で顔見知りと呼べる人が現れ、何気ない会話をすることができているという事実に、平伏したくなるほど感謝の気持ちが溢れたのだ。
それに英治と住んでいた頃は、こうして風呂に入っていても気持ちが休まることなど無かった。「なぁ。俺のシャツのアイロンまだ?」とか、「プロテイン切れてるんだけど」とか言って、構わず浴室の扉が開けられるので、気が気ではなかった。酷い時には「葉ちゃんのウエストがくびれているか今から抜き打ちチェックしまーす」と言われ、脱衣所で全裸のまま立たされることもあった。
しかし、今では誰にも邪魔されず、あの頃の私には信じられないほど穏やかなバスタイムを過ごせている。
「ホースラディッシュ、いいですね。どんな料理に合いますか?」
そう返しながら、ふと胸が苦しくなる。理由は、なんとなく分かった。私に幸せを与えてくれる人が、増え続けているのだ。
いつか英治や義両親がやってきて、今の生活を滅茶苦茶にするのではないか。この幸せは、一瞬の幻想ではないか。そんな不安が、脳裏をよぎる。
あらゆる恐怖心を打ち消すようにして、私は玉ねぎおばさんと近頃の天気についてぽつりぽつりと雑談を交わした。
◆
翌日は、朝から慌ただしかった。午前中に那津さんのメイクレッスンが二件、立て続けに入っていたのだ。
二階リビングのテーブルに大きな鏡とライトを設置し、トレンドカラーを使ったメイクのコツやヘアアレンジを受講者の前で熱弁する彼の隣で、ひたすら私は黒子役に徹する。
「スポンジ」とか「ブラシ」とか指示されるたび、オペ室で医師の隣に付く看護師のように、言われたアイテムをコスメボックスから取り出して素早く彼に渡す。我ながら動きに無駄がなく、アシスタント業にも慣れてきたように思う。
昼食は簡単に温かいうどんを作って済ませ、午後からは那津さんのダンスレッスンのためSTUDIO SINFONIAに向かった。
このスタジオに最初に足を踏み入れた日、彼らの踊りに圧倒された私は、生まれて初めてアラン・スミシーという「推し」のグループが出来た。以来、少しでも彼らのハイヒールダンスを見たいと願った私は、那津さんに頼んで頻繁にレッスンに連れて来てもらうようになった。彼らは私が部屋の隅で見学をしていても大して気にせず放っておいてくれるので、ありがたい。しばらくはひっそりと眺めているだけだったが、次第に彼らは、私に基礎的なステップを教えることに楽しさを見出したようだった。
ある日、「せっかく来てるんだし、葉さんも踊りな」とジェイさんから言われ、「パドブレ」と呼ばれる動きを教えてもらった。足を片足ずつ前後左右に小刻みに動かすシンプルな動きだが、私は長年の運動不足が祟り、教えてもらうたびに足がもつれて転んだりよろめいたりして、てんやわんやだった。
「パドブレの由来である『ブーレ』という言葉はね、フランスのオーヴェルニュ地方を起源とする民俗舞踊からきていると言われているの。陽気なテンポに合わせて、ひとつひとつの動きを孤立させず、埋めるように進んでいく。ほら、人間関係と同じよ。一人で孤立して殻に閉じこもっていないで、周囲と協調しながら進んでいくイメージ。もっと流れるようにやってみて」
彼は笑ったり茶化したりせず、何度でも鏡の前で優雅な見本を見せてくれる。同じように踊れないことが苦しかったが、できないことを悔しがるという行為でさえ久しぶりで、心底楽しかった。
今日も皆と三時間みっちりと踊った後、パドブレの特訓時間が設けられ、最後にメンバー全員の前で練習の成果を披露することになった。まだ満足に踊れない自分が恥ずかしくて仕方なかったが、意外にも彼らからは、「明らかに上達している」とか「才能あるわよ」と口々にお褒めの言葉を貰えたので嬉しかった。
メンバー同士で一杯だけ飲みに行くという那津さんと別れて、私は商店街の中にある携帯ショップに一人で向かう。
店内は空いており、すぐカウンターに通してもらえた。香水の匂いのきつい女性店員が目の前に座り、「本日はどのようなご用件でしょうか?」と、貼り付けたような笑顔を浮かべ声をかけてくる。
「解約したいんです」
前置きもせずにそう告げると、女性は引き止めることもなく「かしこまりました」と言い、手元のキーボードに視線を落とす。しかし、幾つか質問に答えるうちに、すぐに詰んだ。
「お客様はご契約者様ご本人でしょうか?」
そう聞かれて、何も言えなくなったのである。
「いえ、契約者は私の夫なんですけど、解約がしたくて……」
正直にそう告げると、女性はわざとらしいほど両眉を下げて言った。
「解約となりますと、ご契約者様ご本人の同席か同意書が必要です」
彼女の左手薬指には指輪が着けられている。この人もまた、誰かの妻なのだろう。
「とても言いにくいのですが、夫のモラハラが原因で別居をしています。この携帯の料金は夫に払ってもらっているので、解約しておきたいなと」
躊躇いながら事実を伝えると、ようやく何か察したのか、女性は気の毒そうに「なるほど……」と呟く。しかし、同情する素振りを見せてくれたのは、ほんの一瞬だった。
「申し訳ございません。ご契約者様が同席しないことには、解約はできません。たとえば、新規で携帯電話をご契約いただき、別の回線を利用して『二台持ち』をするのはいかがでしょう? 良いプランがありますよ」
違う。そういうことじゃない。
「このままこの携帯を持ち続けて、夫に居場所が知られたり、急に連絡が来たりしたら嫌なんです。ですから……」
つい言い淀むと、彼女は困ったような表情を浮かべる。まるで「事情は知らないが、金を落とさない客には用はない」とでも言うように。
「何も準備せずに来てしまって、すみません。一旦、今日のところは帰ります」
私は椅子から立ち上がると、そそくさと携帯ショップを後にする。
そのまま帰る気分になれず、最寄りのおかのやに向かい幾つか夕飯の食材をカゴの中に入れたが、未だに自分が夫の経済的援助のもとで暮らしているという現実が頭の中でチラつき買い物に集中できない。
英治も連絡をよこさないのならば、いっそのこと解約してくれて構わないのに。そして、二度と私の前に姿を現さなければ良い。そんな考えが脳裏に浮かぶ。しかし、遅かれ早かれ、彼とは直接会って話をしなければならないのだろう。
——まだ解決しなくてはならない問題は、山積みなのだ。
憂鬱な気持ちで夕陽を浴びながら歩いていると、いつの間にかMaison de Paradiseに到着していた。いつも通り勝手口に向かおうとすると、軒先に白いコートを着た女性が立っている。
横顔しか見えないが綺麗に巻かれた長い髪が印象的で、その横には彼女のものとみられるママチャリが止められていた。入り口の扉に貼られたメイクレッスンと占いの案内をまじまじと眺めている。
新規の予約希望者かと思い、「何かご用ですか?」と声をかけると、この街であまり見かけない、かなり濃いメイクをした女性が振り向く。私の顔を見るなり、女性は言った。
「あ、新しいバイトの人? アンタでいいや。ねぇ。天堂さん、いる?」
〈アンタでいいや?〉
見ず知らずの人に突然そう言われ、カチンとくる。
「今、出かけています。十八時くらいには、戻ってくるかと。あの、ご予約でしたら……」
女性は話の途中で「了解」と一言だけ言うと、こちらに感謝を述べるでもなくママチャリに跨り、さっさとどこかへ行ってしまった。よく見ると、その足元は自転車のペダルを踏むには心配になるほど高いヒールのブーツだった。一体、誰なのだろう。
気を取り直して二階に上がり、手洗いうがいをしてからエプロンを身に付ける。冷蔵庫の脇に設置された米櫃からカップ二杯ほど米をすくい取り、水で洗って土鍋の中で浸水させておく。次に、冷蔵庫から白だしの瓶を取り出して卵に下味を付け、おかのやで購入した立派な明太子を一腹ほぐしていく。それが終わったら、今度は卵焼き器を火にかけて卵を流し込む番だ。少し固まってきたところで明太子を中心に入れて包み、焼き上げた後で、土鍋で白米を炊く。
こうして料理を作っている間だけは未来への不安が消えて、目の前のことに集中できる。
しばらく没頭した後で壁掛け時計に目をやると、あっという間に三十分が過ぎていた。
誰かが階段を駆け上がる音がする。
「ただいま」
天堂さんの声だった。彼は濃紺のコートの上に品の良いマフラーを巻き、そこに半分、顔を埋めながら「今日も寒かったね。お夕飯は、なんだい?」と聞いてくる。
「焼きネギのお味噌汁、明太子入りのだし巻き卵、鶏肉とごぼうの甘辛煮、白米です」
メニューを伝えると、彼は「いいね! 最高のチョイス」と言って、ぱっと顔を輝かせた。この家に住むようになってからというものの、「少しでも彼らの役に立ちたい」という思いから自ら手を挙げて夕食を作っているが、献立を伝えるたびに彼はとびきり喜んでくれるので英治と違って作り甲斐がある。
その後すぐ、「美味そうな匂い! なぁ、急いで食おう。食ったら走ろう!」と浮き立った那津さんの声が室内に響いた。
「おかえり、那津。走るのに夢中なのは良いけれど、まずは白石さんが夕食を作ってくれたことに深く感謝して、ゆっくりと頂くべきだよ」
まるで父親のように、天堂さんが那津さんに注意する。彼らの様子を微笑ましく思いながら、私は食事の支度を急いだ。
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