大木亜希子「マイ・ディア・キッチン」最終話 料理監修:今井真実
最終話
いつものように布団を畳み、身なりを整え自室の扉を開けると、リビングにパンツ一丁の天堂さんが立っていた。部屋の中央に姿見を置き、何やら鏡の中をまじまじと覗いている。
那津さんが半裸の状態で室内を彷徨くのは日常茶飯事だ。しかし、天堂さんがここまで無防備な姿でいるのは珍しい。と言うか、私がこの家に来てから初めての出来事である。
「……おはようございます」
おそるおそる声をかけると、彼はこちらを振り向いて言った。
「ひゃっ! 白石さん! こんな格好でごめんなさい!」
彼は真っ赤に顔を染めて、両手で胸元を隠す。しかし、隠せば隠すほど、鍛え上げられた胸筋と立派な胸毛が私の目に焼きついた。
隣室の扉が開き、Tシャツにジーンズという出立ちの那津さんがやってきた。腕いっぱいにカラーシャツやジャケットを抱えており、持ってきた服の一枚一枚を天堂さんの上半身にあてていく。
「ったく、これだけ迷うなら、さっさとジェイにスタイリングを任せれば良かったんだよ。アイツならスタイリストだし、おっさんの服を選ぶくらい朝飯前だろうが」
「もちろん僕だって相談したさ。でも今日は、彼が現場に入っていて捕まらなかったんだ」
「だったら、もっと朝早く起きて選べば良かっただけの話だろ? 俺まで駆り出されて、ほんとにダルいわぁ」
「これでも僕は、朝六時から二時間以上は悩んでいる! その上で迷ってるんだ」
膨れ面で反論する天堂さんの表情は、親に怒られて言い訳をする少年のようである。事情は分からないが、普段は那津さんが天堂さんに小言を言われ不貞腐れていることのほうが多いので、今日は立場が逆転していると思った。
「君はまだ二十代だし、Tシャツとジーンズで許されるから良いよな。でも僕の年齢で、君と同じ服装でお見舞いに行ってごらん。たちまちお父様に非常識と思われるのが落ちだろうね。怒ってばかりいないで、こちらの身にもなってくれ。これでも僕は緊張しているんだ」
「別にウチの父ちゃん、俺の恋人がどんな服を着ているかなんて気にしないと思うぞ。もう適当に選んで、早く出かけようや~。面会の時間に遅れちまう」
「その適当が難しいんだよ。お願いだから、もう少し待ってくれ」
天堂さんも那津さんも、眉間に皺を寄せて苛立った表情をしている。
「白石さん。朝から驚かせてごめんね。半裸のおっさんの姿なんて、見たくないよね。服を選ぶことに夢中になりすぎて、こんなに無防備な姿を見せてしまうなんて僕は男失格だ。一旦、ガウンを羽織ってくる」
彼はそう言うと、寝室に向かう。その間に那津さんが「広い空間で俯瞰して服を選びたいって、自分で言ったくせに」と吐き捨てた。
天堂さんは青いガウンを羽織り戻ってくると、食卓の椅子に腰を掛け誰にともなしに呟く。
「あぁ、疲れた。もうシンプルに、上下黒のジャケパンにしようかな。そこに白いシャツとネイビーのネクタイを合わせれば、どうにか格好がつくでしょう」
「おう。もう、それでいいよ。迷った時はシンプルイズベストだろ」
那津さんも、それに同調する。明らかに疲弊している天堂さんに私は尋ねた。
「……あの、那津さんのお父様のお見舞いに行くための服が決まらずに悩んでいらっしゃるんですか?」
「イエース。僕はわりと衣装持ちのほうだと思うけれど、だからこそ、自分に似合う洋服が分からなくなってしまってね。まったく今日に限って参ったよ」
その瞬間、思い切って告げた。
「差し出がましいかもしれませんが、上下黒は喪服っぽい印象になるのでお見舞いには向いていないと思います」
一瞬、沈黙が訪れる。しかし、構わず言葉を続けた。
「今の季節なら、もう少し軽い色のジャケットのほうが良いかなと。明るいベージュやグレーのジャケットはお持ちですか? もしもお持ちなら、そこに淡いブルーやピンクのシャツを合わせて、ボトムには細身のパンツを穿くと締まった印象になると思います」
「なるほど……。たしかにその通りだね。僕は完全にTPOも季節感も無視するところだった」
天堂さんが目を丸くして驚く。
「それから、ネクタイはあえてしなくても良いかもしれません。入院中は何かと精神的に不安定かと思いますし、カチッとしすぎないほうがお父様も身構えずに済むかなと。その分、首元や腕にアクセサリーを身に付けないことでTPOをわきまえた印象になると思います。ベルトをして、コーディネート全体を引き締めるのもお忘れなく。あ、ちなみに靴ですが……」
すかさず那津さんが口を開く。
「ちょ、ちょ、ちょっとタンマ。アンタ、さっきから一体何なんだよ」
目を丸くして驚く彼を前に、私は「すみません。出過ぎた発言でした」と詫びる。しかし、次の瞬間、彼からは意外な言葉が飛び出した。
「マジ最高!」
「……え?」
「だから、最高だって言ってんだよ。もしかして葉って、アパレル経験者? じゃないと、そのスゲーアドバイスは出てこないよな?」
那津さんは一気に破顔すると、両腕いっぱいに抱えた服を床に投げ捨て、私の手を握る。
「……実は独身時代、地元にある男性向けセレクトショップで少し働いていました。でも、たった二年ちょっとの話ですよ。ただのバイトでしたし、全然大した経験じゃありません」
彼らに打ち明けた話は、本当だった。私は地元・福岡の服飾系短大を卒業後、二年間ほど市内のショッピングモールでアパレル店員として勤務していた。
当時から料理人として働く夢を漠然と抱いていたが、専門の学校を出ていない自分が料理の道に進むことに対して勇気が出ず、結論が出るまでの間、ひとまず働くことにしたのだ。
ただ、アパレルは給料が安い。たしか当時、時給八百円だった。それでもあの頃の私は、親元を離れて小さなアパートに住み、質素倹約に暮らす日々に充足感を覚えていた。
もう十年以上前の話である。今日まで忘れていたくらいだし、あの経験に価値を見出したことも一度もない。
その時に貯めたお金で思い切って調理師学校に通い、卒業後は飲食店に勤め、英治と知り合い結婚した後の人生のほうがハードで、アパレルの経験など記憶の彼方に葬り去られていたのだ。
しかし、彼らは険悪なムードから一転し、「救世主が現れた!」と騒ぎ始め、こちらが恐縮してしまうほど喜んでいる。
「こんなに簡単な意見、誰にでも言えますって」
慌てて二人を制するが、那津さんは「ウチの店で葉のファッション講座やろう」と勝手に盛り上がり、天堂さんに至っては着たばかりのガウンを脱いで、なぜか小躍りをしている。子供か。
「大袈裟です。今日はたまたま役に立っただけで、普段は全く使えない知識ですから」
どうにか彼らの興奮を鎮めたい一心でそう伝えるが、天堂さんが真面目な顔つきで言う。
「なぜ卑下するんだい? 料理以外にも得意分野があるのは、素晴らしいことだよ。お願いだから、大切な経験をそんな風に言わないでくれ。過去の白石さんが可哀想じゃないか」
「……でも、所詮、時給八百円の雇われの身だったんですよ」
つい語気を強めてしまう。たかだかバイトの経験を過大評価されて、居心地が悪かった。
「君が一生懸命、働いていたことには変わりないだろう。僕は今、白石さんの経験に心から助けられている。その事実にバイトも、契約社員も、正社員も関係あるもんか」
「……はぁ」
「金額の大きさだけで言えば、僕もここのオーナーとして働くより会社経営のほうが大金を稼いでいる。何十倍もね。だけど、この店の仕事は手を抜いているかと言われれば、決してそんなことはない。社長業もオーナー業も両方共、心底誇りに思っている。それは仮に僕がアルバイトという立場であったとしても、変わらないと思うよ」
キラキラした眼差しで熱弁する半裸のおじさんの姿を見て、私は初めて過去の経験に価値を見出すことが出来た——本人にとっては何でもない経験も、誰かの役に立つことがあるのかもしれない。そう思うと、少しだけ過去を愛おしく感じる。
私は数年に及ぶ結婚生活で「自分には何もない」と思い込んでいた。しかし、結婚前には案外、自分の足で立てていたのかもしれない。今さら、その事実に気づくなんて。
那津さんが私の手を握ったまま「力を貸してくれや!」と懇願してくる。言われるがまま、天堂さんの服選びに協力することになった。
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