前川ほまれ|一緒に映画を観たい人
私は元々、趣味が少ない。強いて挙げるとするなら、映画鑑賞だろうか。特に好きな映画のジャンルはないので、いつも直感で観る作品を選んでいる。
小説の執筆においても、映画鑑賞後に新作のイメージが閃くことが多々あった。たとえば私の既刊『セゾン・サンカンシオン』は、ジェームズ・マンゴールド監督の『17歳のカルテ』に強く影響を受けている。それに、作家として活動するようになってから、映画は心理的な避難場所としても機能していた。執筆がどうしても行き詰まった時は、一旦全てを投げ出して映画の世界に逃げ込む。コーラとキャラメルポップコーンを口に運びながらスクリーンに夢中になった後は、それまで煮詰まっていた頭の中がリセットされていることが多い。
私は確かに映画好きだが、専門的な深い知識を有している訳ではない。毎回浅い考察しかできないし、世界の映画史だって語れない。それに映画好きとは言っても、兼業作家(私は現在も看護師として働いている)の忙しさを言い訳に、最近は月に一作品でも鑑賞できたら良い方だ。そんな私のもとに映画好きの友人が集まる訳もなく、間違っても映画評論家の知人はいない。心に残る作品を鑑賞した後は、独りで余韻に浸るのが常だった。しかし今年、是非とも誰かと感想を共有したくなる映画と出会った。
その作品のタイトルは『aftersun/アフターサン』。監督は、本作が初長編映画となるシャーロット・ウェルズという方だ。私が『aftersun』を知ったのは、今年の初夏だった。その日はどうしても崎陽軒のシウマイ弁当が食べたくなって、新宿に向かった。伊勢丹のデパ地下で無事にシウマイ弁当を購入し、腹を鳴らしながら家路を辿る途中で『aftersun』のポスターを見かけた。ポスターの中では青く澄んだ空と海を背景に、サングラスを掛けた男性と女の子が並んで微笑んでいた。二人の背後の波打ち際にはビーチが広がり、水着姿の人々も小さく写っている。まるでバカンス中に撮った何気ない写真を、そのまま採用したようなポスターだった。そして、控え目な小さな文字で『最後の夏休みを再生する』というキャッチコピー。その短い文章からは、仄かな不穏さが滲み出ていた。新宿の片隅で直感がビンビン働くのを覚えながら、私はシウマイ弁当が入ったビニール袋を強く握り締めた。後日、事前にあらすじすら確認せずに、新宿ピカデリーへと足を運んだ。
『aftersun』の上映時間は、二時間にも満たなかった。映画館を出て新宿の雑踏を進みながら、私の直感が間違っていなかったことを確信した。短い感想に留めるが、とてつもない余韻に浸らせてくれる作品だった。主要登場人物の父親と娘の会話は素敵で、とてもナチュラル。そして、絶妙にすれ違っていた。同じ場所に居ても、大人と子どもでは目に映る世界は異なる。血が繫がっている者同士でも、相手を完璧に知ることなんてできないんだろう。もっと言えば、他人の本当を正確に理解することは永遠に難しい。しかしこの映画では、父親と娘が確かに同じ時間を共有した眩い煌めきも描かれていた。だからこそ余計に、父親が抱えている痛みを想像すると胸が苦しくなるのだが。とにかくこの作品には、誰かの側に居たこと、或いは側に居ることへの、尊さや、悲しみや、歯痒さが美しい映像に溶け込んでいた。
鑑賞後に独り新宿を彷徨いながら、何故か祖母の横顔が脳裏に浮かんでは消えた。『aftersun』の登場人物である娘のソフィに、感情移入していたせいかもしれない。それとも私が幼い頃、映画を観る時には、いつも祖母が隣にいてくれたのを思い出したせいだろうか。
私が初めて映画を観に行ったのは、小学一年生の夏だった。場所は映画館ではなく、地元のコミュニティセンター。そこには大きな多目的ホールがあり、定期的に映画を上映していた。両親は共働きだったため、祖母と二人でコミュニティセンターによく足を運んだ。初めて観た作品は『ドラゴンボール』だったような気がするが、もしかしたら『ドラえもん』や『クレヨンしんちゃん』だったかもしれない。鑑賞した作品名は曖昧でも、鮮明に憶えていることがある。上映前に祖母が買ってくれたラムネの冷たさや、祖母と手を繫いで多目的ホールの傾斜した床を進む足音や、上映中にスクリーンの光を浴びた祖母の横顔など。当時の私は作品を楽しむというより、祖母と映画を観に行くという状況自体に胸を躍らせていた。幼い私が選ぶのは、毎回アニメ映画だった。上映を終え暗転していた会場に明かりが灯ると、私は開口一番「面白かった」といつも告げた。祖母も同調するように「面白かったね」と笑顔を浮かべていたのを記憶している。祖母はNHKニュースか、火曜サスペンス劇場しかテレビで観ない人だった。上映後の感想が本音だったかどうかは、未だにわからない。
現在、祖母は認知症を患い、地元の高齢者施設で生活をしている。帰省した際は面会に行っているが、祖母からは毎回他人行儀な態度を向けられていた。去年面会に行った際は、私のことを羽毛布団を売るセールスマンだと最後まで思い込んでいた。今年会った時は、数学教師だった祖父の元生徒だとずっと勘違いされた。今はもう、完全に私の顔も名前も忘れてしまっている。
新宿の片隅で『aftersun』の余韻に浸りながら、祖母が失った記憶を想った。来年面会に行った際は、一緒にコミュニティセンターに映画を観に行ったことでも話してみようか。ふと気付く。私が一緒に映画を観たい人は、映画好きな友人でもなく、映画評論家でもなく、祖母なのだろうと。上映後に「面白かったね」と短く言い合えたなら、それだけで十分だ。たとえそれが、本音ではなかったとしても。
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