冲方丁「マイ・リトル・ジェダイ」 #001
不慮の事故にあった息子。意識不明のはずの彼から、オンラインゲーム内でメッセージが届いた。再び元気な息子に会うため、不器用な父はゲームの世界へと飛び立つ
第一章 ヒーローは眠る
1
朝倉暢光は、長らくノブと呼ばれてきた。今もそう呼ばれることのほうが多い。
いつからそう呼ばれるようになったんだっけ? 暢光は自問したがよくわからなかった。たぶん名付けられたときからだろう。
大した理由もないんじゃないかと思う。口にしやすいし。暢光自身、幼い頃はノブが自分の名前であると信じ、ミツの存在は忘れがちだった。
暢気なノブくん。
そんな風に言われるようになったのも、いつからだっけ? なんとなく響きが可愛い。あなたにぴったり。そう言ってくれる女の子には事欠かなかった。両親が金持ちで、息子が本当に暢気者だとそうなるのだ。
そしてそんな大して意味のないノブという呼ばれ方に親しむうち、あるとき重要な示唆を得ることになった。いつだっけ。たぶん中学生の頃辺りだろう。そうそう。自分は今、そのことについて考えようとしていたんだった。
ドアノブというものについて。
すなわちノブとは、ドアを開くためのものなのだ。
その重大な発見をしたときの、わくわく感を暢光は思い出そうとした。
たちまち、いろんな記憶がよみがえってきた。中学の、高校の、大学の、入学式と卒業式。大手不動産会社に就職し、晴れて社会人になったとき。脱サラを決めたとき。新しいビジネスを始めようとするたびに同じ興奮を覚えた。これから新しいドアが開かれて、素敵な日々が待っているのだと。
とりわけ、就職後ほどなくして人生最高の女性と出会い、短期間で結婚の合意に至り、やがて長男と長女が無事に産まれた幸せな時期は、いくつものドアがひとりでに開かれ、輝かしい何かが次々に待ち受けていると感じたものだ。
そうしたことを、暢光はしみじみと思い出しながら、右へ左へ首を傾げて、草っ原を眺め渡した。
どうも、これは違う気がする。
角度によっては、違う景色に見えるのではないかと期待したのだが、屋根もなく舗装もされていない草だらけのそこには、廃車同然の車輛が二十台以上も乱雑に並べられている。いくら角度を変えて見ても、不法投棄の現場そのものといった殺風景さには、なんの変化もなかった。
東京都内に、こんな場所があること自体、暢光の常識からすると驚くべきことだった。ましてや自分が投資したビジネスの拠点がここだと知ったのだから、驚愕ものといえた。
スクラップ場じみた草っ原のどこにも、お金を出してよかったと思える何かがなかった。あちこち見て回ったが、一つとして見当たらない。
そこは高級車の墓場だった。
いったいどこから来たのかもよくわからない車たちが、まぶしいほどの初夏の青空と緑に囲まれ、腐り果てているだけだ。かつては誇らしげに光をきらめかせていたであろう車体の塗装はどれも剝がれて錆が浮かび、どのタイヤも空気が抜けてぐにゃぐにゃにしぼみ、バンパーに絡みついた野草が色とりどりの小さな花を咲かせていた。
一角には、立派な事務所という触れ込みだった廃墟然としたプレハブがあり、高級車のシェア・レンタル・サービスを高らかに謳う看板があったはずだが、どこかにいってしまっていた。いや、たった今、それが自分の足もとから数メートル先の草むらに落ちていることに気づいた。風にでも引っぺがされたのだろう。もはや何が書いてあったのかもわからないほど日に焼けて白くなっている。
その汚らしいしろものを見て、やはりこれは開くべきドアではなかったようだと思った。
だいたい、ここしばらくずっと、こういうろくでもないドアばかり開いて回っているんじゃないか?
そう自分に言ってやりたい気持ちがわいてきたところで、プレハブから人が出てくるのが見えた。
「あった、あった。やっと見つけたぞ」
先生だ。武藤直之先生。父の代からお世話になっている弁護士だった。
亡くなった父母が先生と呼んでいたので、いつの頃からか暢光も自然とそう呼ぶようになっていた。四季を問わず、チェック模様のベレー帽をかぶり、明るいグレーの上下のスーツに身を包み、分厚いレンズの眼鏡をかけ、ずんぐりとした顔を、もじゃもじゃで真っ白い髪と髭が覆っている。
暢光がまだ子どもだった頃から、ちっとも変わらない姿だ。暢光は感心しながら、こっちに来る武藤先生を見つめた。生まれたときからずっとこの顔のままなんだよ、と言われたら信じてしまいそうだ。
武藤先生は、棒立ちになっている暢光の前まで来ると、異様に分厚い、汚らしく濡れた紙の束を片手で振ってみせた。紙の束全体から、茶色く濁った雫がしたたっている。
「見ろ。ぶわぶわだ。雨漏りしてるんだ。ちゃんと乾かしてとっておきなさい。万一のとき必要になるものが、どっさり入ってるから」
事務所の権利証やら明細やら、あと暢光にはよくわからない書類一式とのことだった。
「はい、わかりました」
暢光はうやうやしく頭を下げ、その汚らしい紙の束を、両手の指先でつまむようにして受け取った。
武藤先生が眼鏡の奥から、急に、じろりとした視線を送ってきた。
「何か言うことはないのかい?」
「えっと、ありがとうございます」
「どういたしまして、と返す前に、何に礼を言ってるか聞かせてくれないか?」
なんでそんなことを訊くんだろう? 弁護士らしい厳格さのなせるわざだろうかと暢光は疑問に思いながら、自分が何に感謝をしているかを説明した。
「だって、わざわざこんな場所まで一緒に来てもらったんですから。本当にすいません」
「ノブくんよ。あんた、下手をすると、ここを放棄できなくなっていたんだよ? 見なよ、これ。なんでこれで商売できると思ったの?」
「ここ、今日初めて来たんです」
「何も確かめずに、お金を出したわけ?」
「パンフレットに載ってる写真は見たんですけど。ここと全然違ってて」
武藤先生が、深々とした溜息をついた。心から呆れている様子だ。
暢光も、海よりも深い反省の念を抱きながらうなだれた。それから、両手の指でつまんだ紙の束を軽く揺らして雫を落としながら、こう尋ねた。
「ここの車、直せると思います?」
武藤先生が目を剝いて、辺りへ手を振ってみせた。
「あのな。この土地にあるガラクタの山は、どれ一つとしてノブくんの所有じゃなく、ひいては廃棄責任もないと証明してもらったばっかりで、いったい何を言ってるんだ?」
「なんだかもったいなくて」
「もったいないって……。直すのに、いくらかかるんだい。だいたい今のノブくんじゃ、一台分の自動車税だって払うのはきついだろう」
「はあ、すいません」
「これほどあっという間に親が遺してくれた信託を潰す人、初めてだよ。いったい何べん騙されれば学ぶんだい? お父さんなら、こんな商売は見向きもしなかったろうに」
「まあ……そうかもしれませんね」
武藤先生が、そうに決まっているだろうというように顔を険しくした。そして、先ほどの質問を繰り返した。
「それで? 何に対してのありがとうだと思う?」
まだ終わっていなかったのか。暢光はショックを覚えた。そもそも発言しているのはこちらなのに。自分の発言の意図を相手から質されるという不条理に耐えて言った。
「えっと……ここにあるものを上手く捨てられたってことに、ですよね?」
武藤先生はちょっと空を仰いだ。まるで暢光の亡き父へ、「お前の息子がこんなことを言ってるぞ、どうにかしてくれ」と訴えているようだった。
「あのな。詐欺に引っかかったあんたを、破産から救ってやったことへのありがとうじゃないのか? 亜夕美さんにも礼を言わなきゃだよ。あんたの商売相手が怪しいと気づいて通報してくれなかったら、どうなっていたことやら」
「でも、頭が良い人なんです。良いビジネス・パートナーになれると思って」
「何がパートナーだい。せっかくの頭の良さを悪いことに使って、有罪確実だ。あんたのお金だって返ってこないんだよ」
「やっぱり、そうなんですか?」
「詐欺師が返すわけないよ。とったお金が手元にあるってこと自体、そいつが罪を犯した証拠になるんだから。それをなんで差し出すんだい」
武藤先生はそう言いながら、暢光のそばを通り過ぎ、路肩に停めた自分の車のほうへ歩いていってしまった。
姿は変わらないが、以前より怒りっぽくなったなあ。やっぱり年をとったんだ。暢光はそう思いながら、汚い紙を体の前でつまんだまま武藤先生を追いかけた。
「これ、どうしましょう?」
「床に放っときな。びりびりにしなきゃいいよ」
というわけで暢光は濡れた紙の束を助手席の床に置き、踏まないよう注意しながらシートに腰を落ち着けた。ドアを閉めてシートベルトを締め、車の窓の向こうに広がる光景へ半ば目を向けながら、車を出す武藤先生へ尋ねた。
「おれ、やっぱり騙されたんでしょうか?」
武藤先生は無言で、道路へ車を出した。こちらを見もしない。とても難しい運転をしているんだと言いたげだ。周りには草っ原しかない、がらがらの道路なのに。
暢光は体をねじって、美しい自然に囲まれた車たちの墓場が背後へ遠ざかるのを見送った。もったいないなあ。残念な気持ちでいっぱいだった。詳しくないので車名は一つも言えないが、とにかくどれも高級車だったはずなのだ。たぶん。
武藤先生が前を向いたまま、ふと溜息交じりに呟いた。
「どこまでも暢気な子だ」
2
武藤先生に長々と運転してもらい、暢光は紙の束と一緒に、帰宅した。
といっても、住んで半年経つのに、ここが自分の家だという感じは全然しなかった。
用水路のすぐそばに建てられた、二階建ての見るからにぼろアパートだ。
『ヨシダ・メゾン』と書かれた剝げだらけの看板が針金で鉄柱にくくりつけられているが、字が薄れて『ヨノノ・ノノノ』みたいに読めた。
その看板に負けず劣らず、壁は染みだらけ、柱と階段は錆だらけだ。
暢光は草っ原に打ち棄てられた車たちやプレハブを思い出させられた。どっちに住んでも大差なさそうだと考えながら階段を上がって紙束をいったん置き、ポケットからハンドタオルを出して指を拭いてから、鍵を取り出した。
ドアを開いてハンドタオルと鍵をしまったがすぐには入らず、突っ立ったままでいた。
薄暗くて狭い玄関にスリッパ立てを置いてそれに何足か靴を差している。そうしないと靴を積み重ねなければならなくなるからだ。
すぐ向こうに敷きっぱなしの布団が見える。棚が一つしかないので生活用品が壁際に所狭しと積み上げられ、クローゼットがないので天井に張り渡した物干し竿にハンガーで服をかけまくっている。
今の自分でも家賃が払える物件の中で、ゆいいつの風呂トイレつきの部屋だったのだが、子どもの頃に住んでいた家のお風呂場より狭い気がした。寝室にあったウォークイン・クローゼットのほうは確実にここより広かったはずだ。
こうして玄関に立つたび、部屋の狭さに驚かされた。おかげで空間を効率よく使うことを生まれて初めて真剣に考えさせられたが、パズルみたいでなかなか面白かった。自分がそこに住むという点を除けば楽しい経験だ。
あの草っ原に戻ってプレハブで暮せば家賃はいらないんじゃないかなあ。
だがすぐに考え直した。遠すぎて不便すぎるし、お風呂がないのはいやだ。
暢光は、観念してぶわぶわの紙束を玄関の床に置き、靴を脱いで部屋に入ってから手を伸ばしてドアを閉めた。
ガタピシ鳴る窓をスライドさせて窓枠に座り、雑草が絡まった用水路のフェンスを見下ろしながら、今は月二万七千円の家賃が払えることに感謝しなければいけないんだなあ、と他人事のように思った。
その一万倍くらいあったお金は、どこにいっちゃったんだろう? 父母が遺してくれた財産も、二人の生命保険のお金も、いつの間にか消えてしまっていた。
相続した複数の不動産も、次々に売らざるを得なかった。
結婚したときに買い、離婚した日に追い出されたタワーマンションの二十階にある4LDKにベランダが二つついた部屋も、妻の亜夕美に譲った。いや、今では元妻というべきなのだが、その亜夕美も、あっさりその部屋を売り、2LDKの手頃な賃貸の部屋へ、二人の子どもとともに移り住んでしまった。
なんにもなくなっちゃったんだなあ。
そんなことが起こりうるのかと不思議で仕方ない。亜夕美や子どもたちと一緒に暮らしていた部屋が恋しくてたまらなかった。
夫婦仲は決して悪くなかったはずだ。しかし長女の誕生を機に、暢光が会社を辞めて独立すると決心してからというもの、お金がタンポポの綿毛みたいに、ふわふわ飛び去ってゆくのを止められなくなって、いつしか亜夕美から冷たい目で見られるようになったのだ。
最初は、高級物件を専門に扱う不動産業の仕事をしたが、まったく儲からなかった。とにかく誰もがちょっとした噓をつく。噓ではなくとも都合の良いことばかり言う。暢光も合わせねばならないのだが、どうしてもできない。それどころか何が本当なのかわからず、ただ混乱することのほうが多かった。
これでは駄目だと思い、いろいろなビジネスに手を出した。びっくりするほど大勢から誘われた。ぜひあなたと組みたい。一緒に稼ぎましょう。業界に風穴を開けましょう。
みんな熱意があって真剣な感じがした。暢光は持ち込まれる話を念入りに検討し、特に高級な感じのするものを選んだ。きっとものすごく人に喜ばれて儲かるに違いなさそうなものに出資し、共同経営者になった。
高級ジュエリーとか、高級食材とか、高級ブランド品とかだ。それらをどう扱えばいいのか、どこで手に入れ、どこで売るのかもよくわからないまま、しばらくすると一緒に頑張ろうと言っていたはずの人々はなぜかいなくなった。連絡がつかなくなり、同時にお金もなくなっているということが続いた。
中には良心的な人もいて、
「あんたのこと、陰でカモミツさんなんて呼んでるんだよ? そんなのとなんで付き合っちゃうの。ちゃんと手堅い事業をやろうよ」
などと忠告してくれるのだが、困ったことに、そういう人ほど魅力に欠けた事業を提案してくるのだ。介護ビジネスとか、生活必需品を扱うとか、就職率の高い専門学校や外国人労働者向けの日本語学校の経営をするとかだ。
確かに手堅いのかもしれないが、なんだか自分らしくないなあ、と思ってしまう。
理由はたぶん親の影響だろう。亡き父が、バリバリの貿易商だったからだ。日本製の高級家具のブランド価値を世界的に高めたことに貢献したとかで、政府のなんとかという組織に呼ばれて講演をしたときの写真があり、遺影としても使われることになった。
母方の祖父も、当時最新の農耕器具を扱う、優れた商人だったと聞いている。祖父は父の商才を認め、娘との結婚を許したのだ。
さらに曾祖父などは、船に冷蔵庫を積んでマグロを新鮮なまま運べば人に喜ばれると考えて実行し、富を築いたらしい。船にそんなものを積むという考え自体、あまりなかった時代のことだ。
このように、暢光の家系は代々商才に優れていたわけで、いつか自分もそうなると信じて疑わなかった。だがしかし、独立してからというもの、
「またお金だけ持ってかれたのね」
亜夕美に冷ややかに言われて初めて、どうやら上手くいかなかったらしいと気づく。その繰り返しだった。
「いい加減、流れ星なんかにお金を出すのやめなさいよ」
いったい何度、亜夕美にそう言われたことだろう。
きらきら輝く何かに願いを託すが、何一つ叶わないというわけだ。上手い表現だと感心したが、それでも暢光は流れ星にお金を出し続けた。
決して流れ星などではなく、自分が開くべきドアだと信じて、そうしたのだ。
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