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ピアニスト・藤田真央エッセイ#22〈バンクーバーからアムステルダムへ――コンセルトヘボウ・デビューに向けて〉

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 2023年3月5日、私はカナダ・デビュー・リサイタルのため、バンクーバーの地を訪れた。バンクーバーは空港から街中まで車で20分、美しいビーチや壮大な雪山へも30分ほどという、コンパクトで素敵な街だ。
 一つ欠点を挙げるのであれば、日本のようにクラシック音楽の為に設計されたホールがないことだろう。かつて秋山和慶あきやまかずよし先生が音楽監督を務めておられた(現在は桂冠指揮者)オーケストラ「バンクーバー交響楽団」の本拠地❝The Orpheum❞の音響でさえ、改善の余地があるように思える。とりわけ、今回のリサイタル会場❝Vancouver Playhouse❞は、音の響かせ方に工夫とコツが必要なホールだった。

 私自身の状態も、芳しいものではなかった。それは我々音楽家に常に付きまとう問題――時差によるものだ。ベルリンからロンドン経由でバンクーバーまで15時間のフライト、さらにその数日前には日本からベルリンへの20時間の旅をしていたので、体内時計は狂いまくり、「今、私は、いずこ……」という状態だった。
 結局、4時間いただいたリハーサルも2時間ほどで切り上げ、地下の暗く、狭い簡素な部屋で、椅子を並べて頑張って寝て本番に備えた。
 本番3分前まで睡眠をとって舞台袖に行くと、主催者のスピーチの真っ最中だった。彼はいかに今日のコンサートを待ち遠しく思っていたかということについて語っていて、温かい主催者に恵まれたと感じた。

 そんな中始まったコンサートだが、直前まで睡眠をとっていたことですっかり私の調子は快復していた。さらに幸運だったのは、この会場のピアノだった。煌びやかな高音から温かく包み込まれるような低音まで、たくさんの音色を表現できるピアノで、弾いているだけでピアニスト冥利に尽きると感じられた。これ以上ないピュアな音でハ長調の《第7番 KV309》を始めることができ、可愛らしい装飾が多用されるこの曲を自由に楽しむことができた。
 その後も危なげない演奏で、あっという間にコンサートが終わったという印象だった。

 今回私は、モーツァルトの中期のソナタから、《第7番 KV309》、《第8番 KV310》《第13番 KV333》、そして《第9番 KV311》を選んだ。バラエティに富んだ曲調で、モーツァルトの中でも非常に〝聴きやすい”4曲だ。
 しかし、“聴きやすい”からといって、ピアニストにとって”弾きやすい”とは限らないのがモーツァルトである。たとえば私が数年前に取り上げたリヒャルト・シュトラウスの《ピアノ・ソナタ Op.5》や、最近のレパートリーであるクララ・シューマンの《3つのロマンス》といった曲は、音源を聴けばアイディアが溢れ出てきて、ピアノに向かえばイメージをそのまま再現することができる。まさに“聴く”と“弾く”が完全にマッチしている。
 だがモーツァルトは違う。頭で形式や構成を考え、響きを計算し尽くすほどに、かえって彼の持つピュアで天国的な音楽と相反してしまう。モーツァルトの前では、長時間にわたる練習や研究がかえって足を引っ張ることになりかねないので、時間をかけたらかけた分、新鮮さを失わないように気を付けねばならない。これは、〈モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集〉をレコーディングしたときにも痛感したことだった。

 終演後にはQ&Aセッションがあり、お客さんからたくさんの質問を受けた。中でも印象に残ったのは、5歳くらいの小さな女の子からの「日本を代表するピアニスト、内田光子うちだみつこさんもその昔モーツァルトのソナタ全集を出されましたが、モーツァルトを勉強することは日本人にとって通過儀礼なのでしょうか? 」という質問だった。隣にいるお母さんが考えたものだろうと思いつつ、大人びたその口調に思わず微笑んでしまった。

 リサイタルが終わるとすぐに私は、バンクーバー国際空港に向かった。空港ではよせばいいのにサブウェイに入り、サンドイッチを頼んだ。よせばいいのにというのは、私は日本でもサブウェイに行ったことがなく、お店のシステムをよく知らないのだった。だが一度お店に入ったのであれば、もうそこのお店と心中するというのが私の理念であるため、苦労しながら、無事私が求めていなかった、、、、、ラージサイズのチキンサンドイッチを購入した。

 そしてロンドン経由でアムステルダムに飛んだ。アムステルダム・スキポール空港に到着したのは21時。翌日の朝9時半から、アムステルダムのコンサートホール、コンセルトヘボウでのリハーサルが始まる。

 3月8日から12日まで、私は世界屈指のオーケストラ、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団と共演する機会に恵まれたのだ。指揮者は22年8月のルツェルン音楽祭以来のマエストロ、リッカルド・シャイー、曲もルツェルンの時と同じく、ラフマニノフの《ピアノ協奏曲第2番》となった。

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