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吉田修一ロングインタビュー「新作『ミス・サンシャイン』で挑んだ長崎・原爆の記憶」

WEB別冊文藝春秋

作家の書き出し Vol.17
〈インタビュー・構成:瀧井朝世〉

初めて長崎の、原爆の話を書こうと思った

——新作『ミス・サンシャイン』は大学院生のおかいつしん君が伝説の映画女優「らくきょう」、本名・いしすずさんの自宅で荷物整理のアルバイトをすることとなり、交流を深めていく物語です。かつてハリウッドでも活躍し、八十代になった現在は引退して静かに暮らしている鈴さんの来し方が描かれていく。また、一心君も鈴さんも長崎出身で、鈴さんは被爆者でもあります。とても楽しく、そして胸を打つ内容になっていますが、執筆のきっかけはどこにあったのでしょう。

吉田 長崎の原爆の話を書きたいと思ったんです。そう思ったのは最近のことで、それまで僕は長崎出身なのに原爆について書くどころか、ちゃんと向き合ったことすらなかった。だから、ご自身が被爆されたはやしきょうさんのような方の切実な作品を読むたびに、自分なんかが扱っていい題材ではないとずっと思っていたんです。

でも、長崎や広島以外の人と話していると、原爆のことってこんなに知られていないのかと驚くこともあって。長崎とか広島で子供時代を過ごしていると、原爆のことを教わる機会が多いんです。

——ああ、作中でも一心君がそうしたことを感じる描写がありますね。

吉田 3、4年前のある日ラジオを聞いていたら、長崎出身の福山雅治さんが「僕にとって夏休みといえば、原爆なんです」という話をされていたんですよ。本当にその通りだと思ったんですよね。僕が子供の頃は夏休みの宿題といえば半分は原爆に関することで、被爆者の方のお話を聞きに行ったり、資料館に見学に行ったりしていたんです。そんなことを思い出しているうちに、戦争第一世代ではない自分でも、原爆についてなにかしら語る手立てがあるのではないかと考えるようになりました。そうした頃に『文藝春秋』から連載の依頼が来たんです。

——鈴さんには亡くなった親友、さんがいますよね。幼いころに一緒に被爆し、のちに亡くなった彼女に対する鈴さんの思いがだんだん胸に迫ってくる作りになっている。

吉田 1945年にアメリカの「LIFE」誌に掲載された、「ラッキー・ガール」という写真があるんです。原爆が投下された直後の長崎の焼野原で、防空壕から顔を出した日本人女性の写真で、当時アメリカで評判になったんですよ。日本ではあまり話題になることはなかったのですが、今でも長崎の人はなんとなくみんな知っている。最初は、佳乃子さんを主人公に、その「ラッキー・ガール」の話を書こうと思ったんです。これは重いテーマになるなと感じていました。

——いま「ラッキー・ガール」の写真を拝見しました。周囲が瓦礫だらけのなかで、防空壕から顔を出した女性が、カメラに向かって笑顔を見せていますね。

吉田 そう、被写体となった女性は、写真の中で笑っているんですよね。防空壕の中にいたから「生き延びた」ということで「ラッキー」とされたわけですけれど、その女性は、後に原爆症で亡くなるんです。皮肉じゃないですか。聞いた話では、あれは自然な笑顔ではなくて、カメラマンが、「笑ってください」とお願いしたらしいんです。周りが死体だらけの中で、怖い思いを抱えながら、仕方なく笑っている。この写真を見ているうちに、彼女のありえたかもしれない人生について思いを馳せるようになりました。たとえば女優さんとかになって、アメリカに行って人気者になっていたら……とか。そうして生まれたのが鈴さんです。鈴さんの輝かしい人生を書くことで、佳乃子さんのように、原爆に人生を歪められた人たちの人生を照らし出すことができるのではないかと。

——そして、鈴さんを描くために一心君が浮かんだ、という感じですか。

吉田 鈴さんが自分で「私は大女優だ」って言うわけにはいかないですからね(笑)。彼女の半生を語るためには一心君が必要で、一心君がどういう若者かと伝えるためにももちゃんが出てくる……というふうに考えていきました。

——桃ちゃんとは、一心君が思いを寄せる女性ですよね。ちなみに一心君はどこかのほほんとしていて、そこはかとなく、吉田さんの青春小説『よこみちすけ』の主人公・世之介っぽさがありますね。どちらも長崎出身ですし。

吉田 読者に読み進めてもらうためにも、語り口は明るくて軽やかなテイストのほうがよいだろうなと考えたんです。決して明るい一辺倒の話ではないからこそ、そうしようと。一心君については、最初はもっと世之介っぽかったんですけれど、途中で変えました。

作中作には、観てきた映画が詰まっている

——鈴さんは戦後の1949年にデビューし、ハリウッドでも評価された銀幕スター。ドラマや舞台でも長年にわたり第一線で活躍した、まさに酸いも甘いも嚙み分けている女優です。

吉田 鈴さんは女優一本で生きる人というイメージでした。きょうマチさんとか、その時代時代で輝いていたスターをイメージしながら、女優像を作り上げていきました。

——鈴さん=和楽京子の女優史のパートでは、実在する俳優たちに交じって、架空の監督や作品もたくさん出てきます。それがどれもいかにも本当にありそうなのがしくて。作品の内容や周囲の評価なども詳細に設定されていますよね。

吉田 彼女の出演作を考えていくのは本当に楽しかったです。

——和楽京子は1949年、なりさんぜん監督の『梅とおんな』で、主人公である僧侶の妹という脇役でデビューする。その後、文豪・たにもとあらろうの小説が原作の『さきの闘牛』という、赤線地帯に生きる女をたくましく演じて話題となって……。

吉田 それぞれの作品に直接のモデルがあるわけではないのですが、僕が今まで観てきた映画のエッセンスを詰め込みました。書いているうちに、あまりにそれらの映画が現実のもののように思えてきて、すごく馬鹿な話なんですけれど、連載中に『洲崎の闘牛』のラストの台詞を確認しようとして、無意識のうちにNetflixで検索していたんです(笑)。タイトルを入力しながら「あ、僕が作った映画だった」と気づいて。それくらい、本作で描いた世界は、僕にとってリアリティのあるものだったんです。

——ハリウッドに渡ってからの和楽京子は、「ミス・サンシャイン」と呼ばれて人気を博します。アカデミー賞主演女優賞にもノミネートされるってすごくないですか。しかも一緒にノミネートされたのがキャサリン・ヘプバーンやイングリッド・バーグマンだという。

吉田 当時の日本とアメリカの歪んだ関係を書かなければならないと思ったので、鈴さんにはハリウッドに行ってもらいました。過去には鈴さんとほぼ同じ世代の、ナンシーうめさんがアカデミー賞助演女優賞を獲っているので、まったくありえない話でもないですし。

コロナ禍の前に、ロサンゼルスにも取材に行きました。ハリウッドのスタジオや、ハリウッド女優さんが住んでいる家を見せていただいたりして。ナンシー梅木さんのお知り合いに話をうかがえたのもありがたかったです。

そのほかにも、和楽京子を書くために、いろいろな女優さんの作品を観たり調べたりしましたが、やはりよしながさんの存在は大きかったです。吉永さんは僕が中学生の頃、『夢千代日記』というドラマで、原爆症で亡くなる芸者さんを演じられていたんです。ドラマで原爆のリアルな実態を見て、改めてぞわーっとした記憶があります。吉永さんはその後も被爆者の詩を朗読されていたりして、そういう方から、今回、本の帯にコメントをいただけたのは本当に嬉しかったですね。コメントの中で、鈴さんの「彼女は亡くなり、私は生きた」という台詞を引用してくださったのもありがたくて。そのままモデルにしたわけではないですけれど、鈴さんの大女優としての活躍を書いていた時は、吉永さんの立ち居振る舞いを頭の片隅に置いていましたし。

女優・和楽京子の一生は、戦後日本と呼応している

——ああ、なるほど。本作は、鈴さんの活躍を追いながら、映像業界の変遷を俯瞰できる面白さもありました。彼女は戦後間もない頃は、生命力にあふれた肉体派として強い女性を演じ、東京オリンピックを境にテレビが各家庭に普及するとドラマでお母さん役をやるようになり、やがて「きんつま」を彷彿させる、主婦が不倫に走る『日曜日の欲望』というドラマにも出演する(笑)。その時代ごとに求められているものにうまくハマっている印象です。

吉田 鈴さんの一生と、戦後の日本の流れがなんとなく呼応するようにしたいなとは思っていました。おっしゃる通りで、男社会だった映画界において、その時代時代で求められる女性像があったんですよね。戦争が終わったすぐ後はああいう肉体派女優が必要とされて、その後は家庭的なお母さんが望まれ……みたいな状況は意識しながら作っていきました。

映画の黄金期って、その国の成長期と重なるんですよ。日本は1950年代に映画もぐーっと成長して、その頃に作られた作品は世界的にも評価が高い。他の国を見ても、たとえば台湾が民主化に向かう頃にはホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンが活躍しているし、香港ではイギリスから返還される頃にウォン・カーウァイが世界的に評価され出しているし。国が大きく変わろうとしている時期の映画は、エネルギーに満ちていてすごく面白い。

——吉田さんはもともと、幅広く映画を御覧になっていますよね。昔の日本映画で好きな監督や作品は?

吉田 あちこちで言っているんですが、なる監督の映画は大好き。決して派手ではないけれど、日常におけるドラマティックなことが洗練された形で表現されているんです。たとえば『女が階段をあがる時』という映画は、主演のたかみねひでさんが演じる銀座のバーの雇われマダムが、ちょっと男に騙されるというだけの話なんですけれど、これがなんとも味わいがあって。騙される顚末や登場人物ひとりひとりにリアリティがありますし、ちゃんと最終的に〝階段を上る〟という、女性の力強さを感じさせる作りになっている。成瀬作品は、人間が生きていく上でのしぶとさみたいなものを感じさせるところが好きですね。

二十代男性と八十代女性の恋

——鈴さんの過去と並行して描かれるのが、現代パートでの鈴さんと一心君との交流です。一心君は桃ちゃんに恋していますが、次第に鈴さんにも惹かれていくようになりますね。

吉田 僕はいつもそうなのですが、最初からプロットを固めているわけではなく、書き進めていく中で登場人物の声を聞き、心情の変化を決めていくんです。自分が一心君になって、目の前にいる八十代の美しい女性がどのように生きてきたのかを知っていく感じで。

最初のうちは、一心君は桃ちゃんに振り回されているので、鈴さんどころではないんですよね。そうスタートさせたのがよかったんだと思う。一心君と桃ちゃんがうまくいけばいいのにと応援しているのに、彼らの関係にはどうしてもが生まれてきて、もどかしい。そんな時に横にいるのが鈴さんで、だんだんこちらも、一心君と鈴さんが上手くいけばいいのにという気持ちになってきた。その過程で、二十代男性と八十代女性の恋愛物語が、なぜ成立しづらいんだろうと考えるようになりました。最後のほうで一心君が「眠れない時に鈴さんのことばかり考えている」って言うじゃないですか。その時に、ふっと八十代の女性って眠れない時に何を考えるんだろうと思ったんですよね。昔、僕の叔母が「死んだ人のことばかり考える」と言っていたのが印象的で、それを鈴さんの台詞として書きました。あの言葉を思い出したことで、歳があまりに離れた二人には、やっぱり恋愛が成立しづらい理由はあるものなんだなと思いました。

——二人が心を通い合わせる部分もありますよね。実は一心君は、小学生の頃に妹を病気で亡くしています。

吉田 鈴さんと一心君が共鳴するものはなんだろうと考えた時に、やはり、大切なものをうしなった体験だろうなと思いました。

直接的に原爆の話を語ったところで、経験したわけでもない読者には他人事として受けとめられるだろうと感じていたんです。もっと自分事として向き合えるようにするためにはどうしたらよいかと考えてみたときに、大切な人との別れという経験なら、ほとんどの人が持っているのではないかと。そこを丁寧に紡いでいけば、描きたかったものは伝えられるのかな、と考えました。

佳乃子さんも、一心君の妹も、生前に「自分は被害者として死にたくない」と吐露します。体験していないので安易なことは言えませんが、もし自分が若くして死ぬとなって人生を振り返った時、こうやって死ぬために生まれてきたわけじゃないだろうって思う気がするんです。その悔しさみたいなものが、ああした言葉として出てきました。でも、難しいですね。原爆は本当は、僕なんかが語れるような話じゃないので。自分なりに考えてはいるんですけれど。

——鈴さんが米アカデミー賞の贈賞式で語るはずだった、幻のスピーチ原稿がありますよね。あの内容は最初から考えていたのですか。

吉田 最初から考えていたわけではないのですが、途中からはっきりと、鈴さんから一心君に何かメッセージを託したいと思うようになりました。

——それがすごくよかったです。それにしても、原爆のことを書くところから始まり、女優の一代記を作り上げ、楽しく読ませた後に最後に書きたかったことをちゃんと伝えていて……。出発点を聞いて、改めて、この構成のすごさを実感しました。

吉田 そういうふうに読んでもらいたかったので、嬉しいですね。

——最近は題材をどのように選んでいるのですか。書きたいテーマのストックはあったりしますか。

吉田 一応、こういうのが書きたい、というモチーフを常に2つ3つは持っています。「ラッキー・ガール」もそのひとつでしたし。連載の依頼が来て担当の編集者と話しているうちに、「あれを書くならここだな」と決まるパターンが多いです。

——吉田さんは、時事問題や実際の事件からヒントを得たり、影響を受けた作品も多いですよね。

吉田 そうですね。『ミス・サンシャイン』は、連載中ずっとコロナの時期だったので、その影響は少なからずあったと思いますね。コロナの話が登場するわけではありませんが、何かしら力が働いた気がします。たとえば、なんでもない時期よりも、コロナ禍で「寂しい」と書いたほうが、書く方も受け取るほうも、それを肌で感じるというか。言葉としては同じでも、受けるニュアンスが違ってくる気がします。だから今回、出来上がったものを読み返して、なんか、優しい作品だなと思いました。

——本当に優しさを感じる作品です。吉田さんは今年、作家デビュー25周年ですよね。コロナ禍もそうですが、時代の変化について思うことってありますか。

吉田 昔から言っているんですが、僕はいつも、昨日より今日のほうがよくなっているという感覚があるんです。そんなことないよって思う人も多いだろうけれど、僕自身の感覚としてはそう。もちろん悪い方向にいっていることもあるけれど、そんなに悲観はしていないんです。

だって、若い頃に比べて、本当に嫌な人って減ったと思いませんか。昔はなんでこんなにデリカシーがないんだろうって人が周りにいっぱいいたけれど、最近は意地悪な人がどんどん減っている気がします。

読者を「説得」するのをやめた

——以前、生前のこうさんに「作家は四十代が勝負よ」と言われたというお話をうかがいましたが、五十代になって、どう感じています?

吉田 河野さんにそう言われたのは、僕が四十代になりたての頃だったんですよね。谷崎潤一郎をはじめとした大作家たちは、代表作を四十代で書いているということだったので、僕も頑張ろうと思ったんです。でも最近、川端康成の作品を読んでいて「これ何歳くらいで書いたんだろう」と確認してみると、六十代だったりするんです。河野さんがおっしゃったのは、四十代で体力をつけておかないと後で続かないよ、という意味合いだったのかなと今では思っています。

——体力つきました?

吉田 どうですかね。変な言い方ですが、手を抜けるようになりました。以前は「すべてを伝えたい」と力んでいたから、受け取るほうもお腹いっぱいになってしまっていたかもしれません。でも肩の力を抜いて書けるようになってきて、ようやく、『ミス・サンシャイン』に辿り着けた気がしています。これってガチガチに書くこともできる題材じゃないですか。でもえてそうしなかったことが、自分にとっての成長かもしれない。

——肩の力を抜くって、もう少し具体的にいうと、どんな感じでしょうか。

吉田 文章で「説得」しようとしない、ということかな。伝えることを諦めるわけじゃないけれど、結局何が伝わるかは決められないというか。実生活においても、いくら言ってもわかってもらえないことはあるじゃないですか。そのへんの力加減ができるようになったように思います。

昔はもっと過剰に期待していたんでしょうね。こっちが100書いたんだから読み手にも100応えてほしい、みたいな気持ちがあった。でも今は、50しか書いていないのに60とか70返ってくるから、逆にそれが嬉しい驚きです。

——吉田さんは以前から、説明しすぎずに、でも伝わるように書かれている印象がありますよね。

吉田 『文學界』でデビューした頃、当時の編集長のしょうおとさんが毎回原稿を読んでくれたんです。庄野さんは、僕が「ここを書きたい」と思って力を入れて書いた部分を全部、「削除しましょう」と提案するんですよ(笑)。「大事なところは、直接的でない表現で書かなきゃ」と言うんです。「読者をそういう気持ちにさせるエピソードを一個考えなさい」って。

——たとえば『ミス・サンシャイン』でいうと、一心君と桃ちゃんについて、飲み水の好みが合わないという描写があって。この二人の行く末は大丈夫かなと読者に思わせますよね。

吉田 昔だったらそこで「映画の好みが合っていても、根本的な部分が合わない男女は上手くいかないものだ」なんて、そのまま書いちゃっていたんですよ。でも、毎日の基本である水の好みが違うという、決定的なエピソードの方が伝わりやすいかもしれないですよね。

デビューしてから、そうした訓練を5年受けました。文春の執筆室に通って、毎日朝方までずっと原稿を直していたんですよ。今はそういうのがあまりないって聞くから、最近の新人はかわいそうだなと思いますね。

——訓練しているうちに、自分で判断がつくようになったわけですか。

吉田 最初のうちは削る勇気がないんです。自信がないから削れない。それでも編集者に、ちゃんと伝わっているかと確認しながら、少しずつ自信をつけていったのだと思います。

デビュー作の「最後の息子」は、センスだけでたまたま余分なものがそぎ落とされていたんです。その後のいくつかの短篇については、「削れ、削れ」と言われました。やがて僕は『パーク・ライフ』という作品で芥川賞をもらうんですが、あれって何も書いていないも同然でしょう(笑)。あの作品を完成させられたこと、評価されたことはものすごく大きな自信になっていますね。自分の言いたいことをみっちりと書きこんだ作品で賞を獲っていたら、後々困っていた気がします。そうしないと評価されないと思いこんでしまっていたでしょうから。

その後実際にソリッドな作品を発表した際も、「あ、伝わっている」と思う感想をいただくことが増えて。それが積み重なっていくと、自然と読み手に委ねられることが増えていきました。今ではもう、何も書かなくても伝わるんじゃないかなって思うくらい(笑)。ただ、当然読者にはいろいろなタイプの人がいるので、全員に伝わっているとは思わないですけれど。

三度目の『横道世之介』

——現在、毎日新聞で「永遠と横道世之介」を連載中ですね。

吉田 1作目の『横道世之介』では世之介は十八から十九歳、次の『続 横道世之介』は二十四から二十五歳。今回は三十八歳から三十九歳までの話になりました。続篇を書き終えてから編集者と話すうちに、なんとなく三十代の世之介の姿が見えてきて、書きたくなったんです。

——『横道世之介』はバブル期の話ですよね。当時の流行などが細部までよく伝わってきましたが、あれはご自身がつけていた日記を参考にされたそうですね。

吉田 日記というと大げさですけれど、今もメモはつけています。今日なら「文春で取材を受けた」くらいのものですが。今回の連載も当時のメモを読み返しながら書いていますが、2007年から2009年にかけての話なので、そんなに今と大きく違うとは感じないですね。

その前の『続 横道世之介』は、1993年から1994年にかけての話でしたから、ずい分違いましたね。今は安い洋服なんて当たり前でしょう? スーツだって2万円くらいで一式揃う。でも当時は洋服が高いんですよ。メモを見ると、セーターを分割で買っていたりする。

——世之介の話は三部作で完結ですか。

吉田 ひとまずはそうですね。本当は、世之介の一生、0歳から亡くなるまでを1年ごとに書きたいくらいなんですが。さすがにそれはできなくても、スピンオフ的に「少年横道世之介」はやりたいなと思っています。

——以前、執筆中の作品の登場人物に影響を受けるとおっしゃっていましたよね。『太陽は動かない』みたいなスパイものを書いている時はきびきび動いていたけれど、世之介を書いている時はだらだらしてしまう、って。じゃあ今は……。

吉田 だらだらしています(笑)。

撮影:深野未季


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